「男なら!? だっせー! 男だからこうする、女だからこうするなんていうのは、個人の心を無視してるってことじゃねーの? 教師がそんな教育していいのかよ」
有馬が突然そう叫んだので、みなドギモを抜かれてしまいました。教科担任の串木野が、宿題を忘れた生徒に「男ならあれこれ言い訳するな」といったときのことです。
その宿題というのは、はっきり口でいったものではなく、連絡黒板に小さく書いてあったやつなのです。夏木君(宿題を忘れた子)は、それに気づかなかったらしく、「見てたら、ちゃんとやってきた」と弁解するのでした。
「宿題忘れんのも悪いけどさ、『男なら』なんつう教育も間違ってんじゃねーの? 女なら宿題忘れて、言い訳が許されんのかよ」
有馬は、目をらんらんと輝かせ、教師にくってかかります。
「男なら男らしく、いさぎよくしろっていうのの、どこがいけないんだ」串木野は一瞬たじろぎながらも、冷静な口調で言い返しました。「むろん女だからって言い訳は許さん。だが、男だったら、なおのこと正々堂々としていて然るべきだろう。有馬が考えてるのはな、机上の空論ってやつだ。実社会では通用せんぞ。めめしい、うじうじした男なんてどこの会社にも雇ってもらえんだろ。みんなに嫌われるだけだ」
「たとえみんなに嫌われたって、それがそいつの真実なら仕方ねーんじゃん。それともなにか? 学校じゃ、みんなにあわせて偽りの人生を送りなさいって教えるのかよ」
「なんだ、おまえはオカマの味方か? ホモの味方か? おまえゲイなのか?」
「なにいってんの? なんで話が突然そうなるわけ? じゃあ、そうだったら、どうだっていうんだよ」
「な、なんだ、おまえ、本当にホモなのか。おれは冗談のつもりで――」
「おれはゲイじゃないし、ゲイなんかに別に興味もねーけど、べつに偏見もないよ。そんなの本人の自由じゃん。ゲイのやつだって、人間としていいやつだったら友達になれると思うし。……人間の価値と性的指向なんて関係ねーだろ」
「ま、まあ、それは、そうだろうけど――」先生のほうがアセってるみたい。
「だったら、人と違うからってだけで、あれこれいうのやめろよ!」
「まあ、そうつっかかるなって……。有馬の純粋な気持ちはよく分かってるから。『男なら』っていうのは一種の決まり文句のようなもんで、ほんとのところ別にそんな深い意味はないんだよ。な。おまえ、なんでこのごろ、そんなに荒れてるんだ?」
「……」
「まあいいや、また今度、ゆっくり話そう。な。夏木も掲示んとこ、ちゃんと見る習慣、今からつけとけよ。大学行ったら連絡事項は全部、掲示板に張り出すだけで、いちいち口では言ってくれないんだぞ」
「あ、はい……」
「よし。じゃ、授業を始める。今日は古墳時代の続きからだな……」
「――古墳がどうしたこうしたなんて勉強して、なんの役に立つんだよ」(まだブツブツいっている)
「有馬! おまえ、なんかホントにおかしいぞ。なんでもかんでもケチつけなきゃ、気が済まねーのか」
「ねー、どうして万人坑のこと教えないんですかー。古墳とか貝塚より、あんたらの父親が五十年前に満州でやったことの方が重要だと思うけどね。文部省検閲済教科書には、なぜかそういう重大なことが書いてねーんだよなー」
「おー、有馬ァ、お前が博識で頭いいことは認めるよ。だからさー、今はちょっと普通に授業やらしてくれよ。頼むからさ」
と、串木野先生は懇願したのですが、好奇心の強い生徒が「先生、万人坑ってなんですかー?」と尋ねたため、結局、授業はおおはばに脱線してしまうのでした。
昔はそんなに反抗的な性格ではなかったのに。それどころか泣き虫だった。おさななじみの男の子……中2になった頃から急に、態度が変わったみたい。
最近の彼には、ハッと人目を引くような強い存在感があります。冬の星座のように、冷たく冴え渡っているのです。鷹のような鋭い目。浅黒い肌、冷笑的な口もと。彼は単なる不良ではなく、一面、博覧強記の優等生でした。教師に盾つきますが、いうことは理路整然として、筋が通っています。あいまいな点はいっさいなく、ことごとに明晰なのです。教師にとっては手ごわい相手でしょう。わたしは、昔の気弱な彼を知っていますが、中学からいっしょになった人たちは、みな彼のことを大胆不敵なやつと信じているようです。
わたしも最近の彼を少し怖いと思っていましたが、それはまた別の理由からでした。うまくいえませんが、彼はもう子供ではないという、そんな、しんとした悲しみのようなものを感じたのです。ぺんぺん草を耳元で鳴らして遊んだり、オナモミの実をセーターにくっつけあったりした無邪気な思い出があるので、いっそうそう感じてしまうのかもしれません。わたしの記憶のなかには、白つめ草の花冠を頭に乗せた5歳の彼がいるのです。
その一方で、矛盾するようですが、急に大人びた彼は、特別に魅力的な存在に思えました。わたし自身、ませていたのです。有馬が興味を持っているような哲学的な問題にはわたしも興味を持っていましたし、体の発達の点でも、わたしは早熟でした。小3で早くも女のしるしさえあったほどです。そんなわたしから見ると、有馬以外の同級生の男子は、ばかばかしいほど幼稚に思えました。有馬とは家庭の事情も似ていたので、いつも深いところで分かりあえるような気もして。彼が「人と違うからってだけで、あれこれいうのやめろよ」と叫ぶとき、その気持ちの奥底にあるものが、わたしにはよく分かるのです。
もっとも、おさななじみという関係は、あまり良いことずくめでもありません。関係がだらだらと続いてきてるので、いまさら好きとかなんとか告白するきっかけがつかみにくいし、自分自身、これは「好き」なのだろうか? と疑問に思ってしまって。彼に対する想いの半分くらいは、友情か、あるいは兄に対する愛着のようなものではないかという気もします。逆に考えると、たとえわたしの方には恋愛感情があっても、彼の方ではわたしを恋人とは認識できないのではないか、「妹のようなもの」としか見れないのではないか、という、そんな不安もあるのです。へたに告白なんてすると、あとあと気まずいことになるかもしれません。おさななじみの男女というのは、意外とふべんな関係なのです。
有馬からバンドに誘われたのは、夏休みの前日、終業式の日の放課後でした。なんでも、十月の文化祭で良い曲を発表すれば、それを十一月の音楽鑑賞教室のとき余興として全校生徒の前で発表できる、という、そんな話になっているのだとか。音楽鑑賞教室というのは地元のオーケストラがクラシック音楽を演奏するもの。余興とはいえ、クラシック音楽といっしょにバンドの軽音楽をやるとは妙な話です。でも、串木野先生が、三十分くらいならおれがなんとか時間をとってやる、と請けあってくれたのだそう。たぶん、串木野も、有馬の強烈な個性や自己主張のエネルギーを、真剣に受け止めて良い方向へ伸ばしてやりたいとマジメに考えているのでしょう。有馬も、そういう串木野にだからこそ、ことさらつっかかっていくのだと思います。音楽鑑賞教室の舞台は、区内に新しくできたシンフォニーホールでした。今度ばかりはさすがの有馬もケチをつけずに、おおいに乗り気になっていました。わたしには、ボーカルをやってほしいというのです。
「春川ならこの歌詞の意味を理解できるからさ」
自分で作詞作曲をしたというオリジナル曲の譜面をひらひらさせ、わたしを見すえます。
「どれ? どんな歌詞?」
彼の鋭い目に気おされそうになりながらも、昔のように、気楽な調子で答えました。
「ラップなんだけどね」
渡された五線の下に書きこまれている歌詞は、いっけん陳腐な文句で始まっていました。
大人は分かってくれない
おれは自由に生きたいのさ
思わずプッと吹き出しました。「なんか、ちょっとクサくないか、これ?」
「まあ、まあ、まあ……最後まで見てくれよ」
彼もにやにや笑います。
「なんか、しかけがあるの?」
わたしは興味をかきたてられ、歌詞の続きに目を走らせました。
常識なんかにとらわれるな
いつまでも信じていれば
夢は必ずかなうのだから
たとえどんなにつらくても
夢を忘れないで!
ピュアなハートを忘れないで!
――とか、なんとか、かんとか、どのシンガーも、同じよーな 曲、歌うん
じゃねーよ
発想貧困、ワンパターン
それを聞いてるあいだだけ
「あ、いい曲だ」なんて感動しやがる
そのくせ結局、背広を着こんで
澄ました顔で就職、面接、行くおまえ
どっちもどっちだ、どこが自由だ、純粋だ?
ほんとのピュアはきれいごとじゃねー、血みどろ、目茶苦茶、わけわからねー
音楽を消せ! テレビを消せ! 自分自身と向かいあえ!
「なんか変な曲ゥ。音楽を消せ! っていうメッセージソングか?胃液が胃袋を溶かすみたい」
「気に入った?」
「――あなたらしいと思う。いろんな意味で」
「そう? ありがとう。春川にそういってもらえると、嬉しい」
いつになく素直な声で、満足そうに言いました。ちょっとドキッとするような 言い方です。
――というようなことがあって、わたしは変てこなラップのボーカルを引き受けることになりました。感覚的に目立つことは好きでしたし、それに、いい思い出になると思いましたから。バンドの名前は『イル・ソリテール』。フランス語で「孤独な島」という意味なのだそうです。
夏休みに入ってからも、毎日のように学校に来ていました。有馬がハッスルしてしまって(自分の作った曲をコンサートホールでやれるというのだから無理もありませんが)、毎日2時間は練習すべきだと言い張ったのです。音楽室はブラスバンドが使っていましたが、串木野先生のはからいで、会議室を使うことができました。夏休み中には会議室が本来の目的で使われることもなく、わたしたちはこの部屋にいりびたりました。いっしょに宿題をやったり、お弁当を食べたり。鍵もかかるので、楽器と器材は起きっぱなしです。 ここで、一応『イル・ソリテール』のメンバーを紹介させてください。といっても、全部で4人だけなのですが……。
リーダーの有馬猛(たける)はキーボード担当。腕前はようやくバイエル終了という程度でしたが、楽譜にはショパンもまっさおの超絶技巧ウルトラパッセージがいくつも出てきます。実際の演奏にはパソコンを使うのです。まあ、今じゃごく当たり前のことですが。ギターの生田広志は、学年は同じですが、クラスは別でした。色白で、ミカくんみたいな、きれいな栗色の髪をしています。それで初め見たとき、すてきな人、と思ったのですが、ミカに似ているのは表面だけ。なにしろ、とんでもないやつなのです。本名は生田広志ですが、友達からは「エロ志」とか「イクイク・エロ志」と呼ばれています。まさにその名の通りの性格。「こういう行為はセクハラです」などと自分で解説(?)しながら、わたしの胸を触ろうとしたり。目尻と目頭が両方たれさがった、いかがわしい目つきで「フ・フ・フ」と笑います。ミカと似ているなどといったらバチがあたります。
ベースの夏木正伸は有馬の親友で、わたしも小学以来の仲でした。身長が一八〇センチもあるノッポですが、童顔で、性格は温厚。すぐに顔を赤らめます。おっちょこちょいなところがあって、ときどき、スキップしながら歩いてきて、教室の入り口のかもいに頭をぶつけたりします。
そして、ボーカルはわたし、春川菜美。メンバーは以上4名。パーカッションはパソコンまかせでした。
その日は朝から、のっぽの夏木が「うなぎが食いてー」と騒いでいた。なんでも商店街を通ってきたら、そこのうなぎ屋が今日は店の前に道具を並べて大々的にうなぎを焼いていたとか。
「超いいにおい。煙がさー。ジュジュジュジュ。ねー、今日さー、今から、みんなでうなぎ食い行かない」
のっぽの夏木はいいました。お昼どきのことでした。
「いやだよ。おれウナギ、嫌いだもん」有馬はいつもの傲慢な口調で言い放ちました。「ぬるぬるしてんの、いやだね」
「うなぎが嫌いなんて珍しいね」エロの広志がいいました。「あんなにおいしいのに。なー。炭火で焼いてさ、タレをつけて、山椒ふりかけて……。ごはんにそのタレがしみて、それがまたうまいんだよな。フ、フ」
「嫌いなものは嫌いなんだよ。ケーベル博士も『外交社会の、うなぎのように、ぬらくらした紳士』とかいって批判してるしね」
「なんだ? そのケーベル博士とゆーのは」
「有馬の尊敬する哲学者だよね」
わたしと夏木はほとんど同時に、そう答えていました。
「有馬にも尊敬するやつがいたのか。神をも恐れぬやつかと思ってたよ」
「じゃーさー、有馬は置いといてー、おれらだけでも食い行かねー」のっぽの夏木はいいました。
「だけど、あちーぞ、今日。このクソあちーのに、ウナギか?」生田広志は、黒いプラスチックの下敷きをウチワにしながら、片手で額の汗をぬぐいます。
「ばか、暑いからいーんだよ。なー」夏木は熱心にいいます。「あれはスタミナがつくから夏バテを防げるだろ。それで、今日はうなぎを食べる日って昔から決まってるんだぞ」
「あれさー。あれってさー」生田広志はいいました。「前から気になってたんだけど、だれが決めたの、ドヨーのウシとかいうやつ。バレンタインみたいに、うなぎ屋が勝手に決めたわけ?」
「平賀源内だよね」
わたしは弾んだ声で有馬に同意を求めました。「土用の丑にうなぎを食べるといいって」
「ああ。らしいね……」
有馬は突然、ラップのリズムで歌い始めました。鉛筆で机をこつこつたたきながら。
♪夏バテにいいねと源内いったから
土用の丑はうなぎ受難日
切り裂き、切り裂き、うなぎを切り裂き
ぬるぬる、ぐちゃぐちゃ内臓飛び出て
肝吸い、肝吸い
意味もねーのにつられてみんなで同時にうなぎを食う!
――バカな日本人
わたしたちは「気持ちわりー歌、歌うなよ」と笑いころげましたが、こういう歌を即興的にひねり出す有馬の才能――火花が飛び散るようなその鋭い才気には、つねづね感心していたものです。
「なんかハナシしてたら、まじでウナギ食いたくなってきたな」生田広志はごくりと唾を飲みこみます。
「おし、行こう。おまえ、今日チャリ?」
「ウン、図書館んとこ(注=わたしたちの中学は自転車登校禁止だったが、時々こっそり自転車で来て、学校のとなりの公立図書館の自転車置き場にとめていた)。おまえも?」
「おお。じゃ、行こうぜ。有馬は行かねーんだろ。春川は?」
「あたし、そんな、カネないし。それに、きょうサンドイッチもってきてる」
「いっしょに来なよ。おごるから」のっぽの夏木がにこにこ顔でいいました。
「おれ、いまカネあるんだ。十万くらい」
「おまえ、なんでそんなにカネあるんだよ」有馬が怒ったようにいいました。「おまえ、まさか、アレやったんじゃないだろうな。この前、十万なら速攻OKとかいってたけど」
「違うよ! 違う。違うよ。古いファミのソフト、まとめて売ったんだよ」夏木赤くなって弁解します。
「え? 『アレ』って、まさか……」エロの広志が目をらんらんと輝かせます。「男でもそーゆーバイトって、あるの?」
「こいつねー。この前、錦糸町のガードんとこで、変な男に声かけられてやんの。2万でどう? とか」
「あー。あせったよ、あんとき」
「おまえ、あのあと十万ならいいとかいってたよな」
「冗談だよ! 冗談」
「え、なに!? 女とやって金もらえるの? まじ? まじィ? おれ、やりたい。紹介してよ」生田広志は恥ずかしげもなく、身を乗り出して、そんなことをいうのです。
「あれさー」夏木は声を落とします。「女とやって、じゃないよなー」
「ああ」と有馬。「ボラギノールとお友達ってやつじゃん」
「げっ、それって、まさか」
「それでもいいなら場所、教えてやるぜ」
「いや、それは遠慮しとくよ……」生田は薄気味悪そうにいいました。「でも、十万くれるっていうんだったら、どうするかなぁ」
「まじで悩むなよ!」有馬は生田の頭を平手でぱこんとたたきました。
「あ・ああ。やっぱ十万でも、男じゃな。ところでさ。ちなみに、春川、1万でどう?」
生田は突然わたしにいうのです。
わたしはびっくりしましたが、
「だめ、だめ、1万じゃ。お客さん、処女の値段は高いんですよ」
悪びれずに、軽くあしらいます。
「え。いくらなら、やらしてくれるわけ? やっぱ十万とか?」
「そうね。上手だったら。いいかも」
「えー、まじ? まじィ? おい、夏木、おまえ、いま十万円、持ってんだろ?」
「う、うん」
「おれに貸してくれよ」
生田は半分本気になりかけているのか、なにか不健康に熱っぽい、浮き足だった感じなのです。わたしもその場の雰囲気にあてられて、ほんの少し、胸がむずむずするような、変な気持ちでした。
「やめろよ、そんな話」
とつぜん有馬がすごい剣幕でどなりました。それから、低く抑えたシリアスな声で、
「良くないよ。そんなこと」
と、彼はいうのです。
「なにカッコつけてんだよ」エロの広志はいいました。「おまえだって、心んなかじゃ、やりてーって思ってるんだろ」
「おまえの場合は欲望のみだろ。本人はそれでいいかもしれないけど、そんなんで子供とかできちゃったらどうすんだよ」
「それは……」生田広志は声の急にトーンを落として意外と純真な表情で、うなずきました。「やばいよ。やっぱ。なあ」
有馬は、わたしを、にらむような怖い目で見つめました。思いつめたような、寂しそうな目で。それからすぐにその目をそらして、
「春川も、あんまこいつらを挑発するような変なこというなよ」
妙に気弱な口調でいうのです。
「冗談よ。ねー」わたしはその場の空気をなんとか取りつくろおうと、半分まじめ、半分ふまじめな、永世中立国のような口調でいいました。
「ああ、悪かったよ」生田広志はまじめな声でいいました。「要するに春川って、有馬の彼女だったわけね」
実際にはそうではなかったのですが、有馬の彼女といわれて、わたしは内心まんざらでもありません。わくわくするような、揺らぎたつ気持ち。
「え? いつからそうなったの?」のっぽの夏木が、鼻の下をポリポリかきながら、のんきな調子でいいました。「ただのおさななじみの関係だよなぁ」
「ああ。……そうだよ」
有馬は小さな声でうなずきます。わたしにはそれが不満で、
「いっしょにお風呂に入った仲だもん」
むきになって、そんなことを口走っていました。ちょっと頭がどうかしていたのでしょう。「それに、花輪を作って遊んだんだから……」
「おまえ、いつの話、してるんだよ」
有馬は苦笑しながらわたしを見ましたが、その目は、さきほどとは違って、驚くほど優しかったのです。
わたしは急に恥ずかしくなって、うつむきました。なにかが胸に込み上げてくる感じがして、ほほがほてりました。
「まあ、じゃあ、おれたちは、うなぎでも食い行くか。な」
生田は夏木にいいました。
なんとまばゆい夏の日だったことでしょう。すべてを漂白するような強烈な陽射しがひとけのない昼下がりの校庭をじりじりと焼きこがしていました。日なたはまぶしいほどに輝き、木の影はあくまで深く、濃く、黒々としています。なんという生き生きとしたコントラストでしょう。
あの7月の日のことは、一生わすれないでしょう。なにか、すべてが輝いていたような気がします。
わたしは会議室にひとり、取り残されていました。有馬は「トイレに行く」といって夏木たちといっしょに出ていってしまったのです。
会議室のなかはけだるく、なま暖かく、まるで南国の海辺のようでした。窓ぎわに立っていました。窓には、白いレースのカーテンがありました。ときどき、そのカーテンを揺らして、ものうげな風が吹きこんできます。花壇には、気味の悪いほど大きなヒマワリが、黄色く黒く、ささくれだって立っていました。
――おれさ、おまえのこと考えてたら、またまた秀逸な歌を思いついたぜ。
部屋に戻ってきたとき、有馬はそんなことをいったのです。
「なに? どんな歌?」
振り返り、熱心に尋ねました。ふたりきりで密室にいるという緊張、会話がとぎれることへの恐怖感……そのために、ことさら話を弾ませようとして。といっても、半分以上は本心から出た好奇心でした。おまえのことを考えて作った歌、などと言われれば、だれだってどんな歌だか知りたいと思うに決まってます。
彼がくちずさんだのは「さっちゃん」の歌の替え歌でした。
なっちゃんはね、
バナナが大好き、いけないな
「トイレでションベンしてるとき、ふと思いついたよ」
そういって、にやにや笑うのです。
そのときわたしはどうしたと思いますか……怒ったのでも、笑ったのでもありません。自分でも驚いたことに、不意に涙が出てきてしまったのです。とうの本人がたまげてしまう突発事態ですから、それを見た有馬はさぞかしびっくりしたことでしょう。がらにもなくうろたえた声で、
「冗談だよ。ごめん。ごめんなさい」
と、いっしょうけんめい謝るのです。そのうろたえぶりがなんだかおかしくて、涙をぬぐいながら、今度は笑ってしまいました。
「生田になら、そうやってからかわれてもいい。でも、有馬は……いやだな」
泣き笑いの顔でいいました。
「あのさー」
と、有馬はなにかを言いかけましたが、わたしは、「タケちゃん、背が伸びたね」
ふと、気まぐれな思いつきで、話の腰を折って、口走っていました。
何年ぶりかで「なっちゃん」と呼ばれたので、無意識のうちに、どうしても「タケちゃん」と呼び返したかったのかもしれません。それに、こうして久しぶりに向かいあって立ってみると、見上げるばかりの彼の背の高さに、今さらながらに驚いたのです。制服のYシャツの下に、夏だというのに真っ黒いTシャツを着ているのが見えました。
「小6の頃は、あたしの方が背ェ高かったのにね」
「ああ。おまえデカかったよな、あのころ」
「最近、なんか荒れてるね、有馬。先生に反抗したりして」
「ふん。なんか変なんだよ、おれ」
「ほんとは素直で気弱な子なのにね」
「今だって素直だよ。自分に素直に生きてると思うよ」
「そうかぁ?」
「あのさー」
「……なに?」
「おさななじみって、ふべんだと思わない?」
そういって、わたしの顔をじっと見ました。目がせつなげでした。
気持ちが混乱してしまって、どうしていいか分かりませんでした。目をそらして、
「思う」
と答えたのです。
「それじゃあ……同じ気持ち……なのかな」
彼はいいました。息づまるような瞬間でした。同じ気持ち、と発音したとき、その声は驚くほど気弱で、そして、心のなかのいちばん大切な真実を伝えるときの、透きとおった響きを帯びていました。でも「……なのかな」といったときには、もういつもの有馬です。いざとなればすべてを冗談にしてしまう、冷笑的な、ニヒルな調子。わたしも、その「なのかな」の調子に便乗して、
「なのかもね」
澄まして答えていました。
ああ、こんなふうに、きれいに、さらりと、気持ちが伝えあえるのは、なんといいことなのでしょう! これも有馬の器用さのおかげということになるでしょう。でも、そのあとに続いて起こったことは……。
彼はかすかに震える声でいったのです。「言葉っていうのは、あいまいなものだよね。そう思わない? おれはさ、すべてを実証的に確かめたいんだ」
わたしには彼の言葉の意味が分かりませんでした。でも、彼がためらいがちにそっと顔を近づけてきたので、すぐに、キスするつもりなのだと悟ったのです。いやではありませんでした。それどころか、気持ちが高ぶっていたので、とても甘美な気分で、うっとりと目を閉じたのです。
ここではっきり断わっておきますが、彼の唇が触れた瞬間、わたしは嬉しいと思ったのです。ファーストキスでした。震えるような感激が半分、あとの半分はちょっと……? 突然のことだったので、まごついてしまって、現実の展開に感情がついていけない。
でも、それから、だんだん怖くなってきたんです。ファーストキスは一瞬のあわいものであるべきなのに、彼はなかなか唇を放さず、それどころか、ますます強く押しつけてきます。数秒後、彼は両腕で、わたしの体をぎゅっと抱き締めました。わたしはパニックになってしまって。とにかく、いやだったのです。初めはロマンチックな夢のような気分だったのに、もう、いやでいやでたまりません。彼の荒い鼻息、お湯を沸かした鍋のようなにおい、ぶにょぶにょした唇の感触、締めつける腕力……夢のような気分どころか、あまりにもなまなましく、どぎつく、息苦しかったのです。それに、このことははっきりとはいいたくないのですが、彼のズボンに……なにか、異変を感じたのです。
彼がこんなに男の子だとは思っていませんでした……うっとりと目を閉じたとき、わたしが思い浮かべたのは、少女まんがの王子様のような優しい存在でした。でも、現実の彼は、そうではなかった。 そのあとの数分間のことは、記憶が混乱しています。わたしはなにか叫びながら彼をつき離し……彼もなにか言ったのですが、その言葉は覚えていません。たぶん謝っていたのだと思います。わたしは泣きだしそうになりながら、そのくせ「気にしないで」などと口走って、ヒステリックに笑っていた。
午後にはバンドのみんなといっしょに宿題やる約束だったのですが、そのままひとりで帰ってきてしまいました。有馬のことだから、夏木たちには、うまくいいつくろったことでしょう。家までの道のりのことも、よく覚えていません。覚えているのは、学校を出る前、トイレに寄って、服装を整えたときのこと。あのときの鏡のなかの自分の顔は、今も鮮明に脳裏に焼きついています。追いつめられた小動物のような、恐怖で麻痺しきった表情。おびえた目をしていた十三歳の少女のわたし。
キスされたときは嬉しかったのです。天にも昇る気持ちだったのです。それなのに、なんで、あんなに怖くなってしまったのか。有馬のことを好きだったのに。好きな相手とのキスだったのに。
とにかく、本当に怖かった。やっぱりこういうのは怖いことなんだ、と思いました。そしてまた、時間がたつにつれ、初めは嬉しかった自分、それを望んでいた自分が、別の意味で不気味に思え、自分の気持ち、自分の本能が怖くなって。
あんなに怖いことを望む気持ちが、自分自身のなかにあるなんて……。
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