フェアリーランド

3 フィンランドのセルロース

「ひんやりして、おいしい……。くだもののスープなんですね」

銀のスプーンですくいます。
「これは、簡単に作れる。じゃがいもの粉で、ほんの少しとろみをつけて……」

リーサは涼しげな声でいいました。

ふちが深緑の、白いスープ皿。いっけん野菜スープのように見えますが、中に 入っているのは、りんごとブルーベリー。汁はそれをジューサーにかけて漉した もの。冷やして食べるのです。フィンランドのデザートで、名前はキーッセリ。 まるで妖精のお菓子みたい。

また、梨屋敷に来ていました。キス事件のあった 翌日のこと。ここに来ると、なぜだかとても落ち着きます。
「ミカさんは?」

さりげない調子で尋ねました。
「自分の部屋でなにかやってるみたい。最近、部屋にいてくれるから静かでいい」
「そういえば、最近、庭でも見かけませんね。前はよく、梨の木のとこにいたの に」
「最近ちょっと変わったみたい。そういう年頃なのかしら。庭に出ないのは暑い せいもあるんでしょうけど」

リーサさんは、ふしぎな雰囲気の持ち主です。色白の、ソバカス美人。十九歳 だそうですが、あまり大人っぽい感じはしません。といって、子供っぽいという わけでもないのです。女の子→少女→大人の女性、という成長の道すじから外れ たところにいるような……。すてきな人です。

飾り気のない声で話します。ナチュラルです。女らしく振る舞おうとか、美し く装おうという、いやらしい努力がありません。お化粧もしませんし、服装もラ フ。体格もほっそりとして、あまり凹凸がなく、中性的な雰囲気。十三歳のわた しの方が、胸が大きいようでした。
「そういえば、ミカさんて、数学の天才なんだそうですね。本当ですか」

母のいっていたことをふと思い出して、尋ねました。
「天才は天才。だけど、あんまり人の役には立たない。1世紀が何秒かとか、1 秒の三六〇〇分の一を単位とした時間とか、変なことにばっかり興味をもってる」
「8歳のとき、なにかの定理を発見したとか聞きましたけど」
「ミカ・キタハラの調和定理というんです。すごく難しい」
「どんな内容なんですか」
「わたしも、よく分からない。数学、苦手。菜美さんなら、ミカに聞けば分かる かも」

彼女は前よりも気さくで、打ち解けた感じでした。たぶん少し人見知りするた ちで、それで、2回めなので、わたしと話すことに慣れてきたのかもしれません。 話していると、驚くほど心がきれいな人、という感じがします。とても率直で、 こだわりがないので、わたしはご両親について尋ねてみました。どうして子供ふ たりだけで暮らしているのか、疑問に思っていたのです。

リーサの話によると、この家の家族は、地球のあちこちに散らばって住んでい るのでした。父親は北欧、母親は南の島です。

父親の北原氏は、北欧の森林産業グループの日本法人理事、兼、フィンランド にある関連会社の社長だそうです。日本の会社は横浜港の近くにあって、主に新 聞用紙を扱っているそう。日本の新聞用紙の大半は、この会社を通して輸入して いるといいます。ちょっと想像もつかないくらいの売上ではないでしょうか?

リーサは、はっきりそうとはいいませんが、父親の仕事に対して批判的なよう でした。

  フィンランドのセルロース、針状葉の
  濃い緑、若枝のレース編み
  本当にわれわれが
  こんな天上のごとく上質な新聞用紙を
  輸出する意義はあるのだろうか?

  そこには後に
  地獄のごとくすさまじい
  ニュースが印刷されるのだから

そんな詩を教えてくれました。サーリッツァという、フィンランドの詩人の詩 だそうです。フィンランドが「もう何年も殺人事件など聞いたことがない」とい う静かな国であることを思い、無慚に切り倒された森を思うと、この詩の問いか けには胸が痛くなります。さながら、人間のいとなみを見つめるエルフたちの、 ひそやかな悲しみのようでもあって。

皮肉なことに、梨屋敷では新聞をとっていません。リーサもミカも日本語を読 めるのですが、あまり外の世界には興味がないらしいのです。それに、ミカは物 質アレルギーで、新聞紙にさわると指先の皮がむけてしまうといいます。

北原氏はいま、日本法人理事でありながらずっとフィンランドにいて、技術開 発の指揮をとっています。抄紙機という機械の専門家なのだそう。ミカとリーサ、 それに母親のアイノさんは、しばらくは横浜のマンションにいましたが、もとも とそこの環境になじめなかったらしく、2年ほど前、この梨屋敷に移ってきまし た。古い建物を壊し、そこに組立式のログハウス(北原氏の会社で輸入している 商品のひとつ)を建てて。

母親のアイノさんは、いま、スペイン領のカナリア諸島というところにいます。 アフリカの近くの南の島。旅行に行ったきり帰ってこないのだそう。海辺の小さ なホテルにもう1年以上滞在していて、あと何年かはそのホテルに住むつもりだ とか……。彼女は海洋学者で、イルカの言葉の辞書を作っているのだそうです。

あっけらかんとしたものです。フィンランド人にはもともと猫のような個人主 義の面があるらしく、家族が離れ離れでも気にならないといいます。そういえば、 ムーミン童話のなかにも、父親が急に家に帰ってこなくなってもだれも心配しな い、というような話があったような気がします。逆にそれだけ深いところでの絶 対的な信頼感があるということなのでしょうか。それとも初めから、家という意 識が稀薄なのでしょうか。リーサによると、フィンランド人には「独特の孤独願 望」があるのだそう。ふらりとひとり旅に出てしまうスナフキンのイメージでし ょうか……。あとになってこんな話も聞きました。難しい手術などで入院すると き、当然のことながら、患者は「緊急時の連絡先」を尋ねられます。そんなとき、 半分くらいのフィンランド人は、たとえ両親や親類が健在でも、静かに首を振る のだそうです。「とくにありません」と。

そんなことを話しあっていると、

「かゆい。うずまき」

という声がして、不意にミカくんが居間に現れました。夏やせでしょうか、こ のまえ見たときより、少しやせたよう。もともときゃしゃだったのが、いっそう ほっそりとして、手首のところの尖った骨が飛び出て見えます。その骨ばった手 で、細い腕をぼりぼり掻いて。
「そんなに掻いたらだめでしょう。薬つけなさい」

リーサは赤く腫れあがったミカの腕をにらんで、鋭い声でいいました。

ミカはまんまるい目を見ひらいて、リーサに訴えます。「わるい・おおきな蚊 がね、ミカをカイカイ人形にしちゃうの」
「しばらくこっちにいなさい、こっちには蚊がいないから」
「早くうずまき、つけないと、蚊がこっちに来る」
「蚊なんてつぶせばいいでしょ」
「そっちの世界はよく見えない」
「ノ・ニーン(やれやれ)。じゃあ、ちょっと待ってなさい。あんたの部屋に蚊 取り線香つけてきてやるから。それでドア閉めとけば大丈夫だから。ね」
「うずまきじるしは蚊がほろぶ」
「菜美さんが来てるよ、ミカ」

リーサは立ち上がりざま、いいました。

「知ってる」
「ほんと? 菜美さんて分かったの?」
「分かったの」
「どこで分かったの?」
「黒い髪。イハナ」

そういいながら、ミカは手を伸ばしてわたしの髪に触れました。びっくりする やら、くすぐったいやら……背中がぞくっとして、思わず肩をすくめてしまいま す。
「イハナって?」

わたしは小声で尋ねました。
「かわいい、ってことよ」リーサが笑って答えました。そして、ちょっと顔を赤 らめながら、「わたしも触っていい?」

と、リーサさんまで、いっしょになってわたしの髪を触るのです。黒い髪がそ んなに珍しいのでしょうか? 日本人にとって金髪がすてきに見えるように、金 髪の人ばかりのなかにいると、黒髪がすてきに見えるのかもしれませんね。

リーサが蚊取り線香をつけにいってしまったので、急にミカとふたりきりにな ってしまいました。とっさにほかの話題が思いつかなかったので、
「ね、ミカさん。ミカ・キタハラの調和定理って、どういう定理なの?」

尋ねてみました。

ミカは目をきらめかせました。「あのね、あのね。それは、それはの、ふしぎ 現象。kのマイナスs乗の形の総和でkが1からnマイナス1まで動くとき、s が1の場合、nが5以上の素数なら、和の分子はnの2乗を法としてゼロと合同。 sが2の場合――」
「え。ちょっと待って!」わたしはあわててさえぎりました。「難しくて、よく 分からない。それって中学生にも理解できること? 分かるように説明できる?」

ミカがわたしより下の中1の年であることも忘れて、思わずそう尋ねていました。
「ただの足し算!」ミカはすねたように唇を結び、それから、かわいい口をひら いて説明してくれました。「1分の1たす、2分の1たす、3分の1たす……っ て分数をどんどん足すでしょう?」
「うん、うん」

わたしも熱心にうなずきます。
「そうやってn分の1まで足すとして。通分して足し算ができたでしょう?」
「うん、できる、できる」
「その答の分子は、nプラス1が5以上の素数なら、その素数で2回! 割り切 れる」
「? ……むむむ。難しいなぁ」

わたしは顔をしかめます。
「ぜんぜん難しくない! 例えばnを16として、nプラス1が17という素数にな る場合で考えてみると――。1分の1から16分の1までぜんぶ足して、答はえー と」彼は二、三度まばたきをし、そのあいだに暗算を終了させていました。「七 二万七二〇分の二四三万六五五九。二四三万六五五九は17で割り切れて、商は一 四万三三二七。一四万三三二七はもう一度17で割り切れて、商は八四三一。これ は16に1を足した17が素数だったから。2回割り切れるところが、きれいなしる し。今度はnプラス1が素数にならない例として……」

と、ミカはこの調子で複雑な計算をいくつも示してくれましたが、わたしには 半分も理解できませんでした。

いつのまにかリーサが居間に戻ってきて、わたしのうしろに立っています。
「菜美さん、分かりそう?」
「半分くらいは」ため息をつきました。「でも、あたしには難しすぎる」
「ね、ミカ、そんなことより、菜美さんの誕生日の計算、してあげたら?」
「菜美さん、誕生日いつ?」ミカはつぶらな瞳でわたしを見ます。わたしは、ち ょっとどきっとしながら、
「昭和五四年十一月十一日」

いちばんきれいな声で答えました。

そのとたん、
「日曜日だ」ミカの顔が輝きました。「きょうは生まれてから五〇一二日め。き ょうも日曜日だから、この日数は7で割り切れるね。ちょうど七一六週間。アン バースデイ!」
「アンバースデイって?」
「誕生日でない日! それはそれはの、年をとらない、いいしるしの日」ミカは 嬉しそうに喉を鳴らしてクックと笑いました。「きょうはリーサもミカも菜美さ んも、みんなアンバースデイで良かったね。だれも年をとらない日だから、みん なでお祝いいたしましょう」

家に帰る道すがら、自転車をこぎながら、思いは自然とミカに向かってしまい ます。人の顔が覚えられないはずのミカ、その彼がわたしのことは覚えていてく れたのです。それに、イハナ(かわいい)だって……。うふふ。そんなこといわ れたら、だれだって喜んでしまいますよね。

ふと気づいたのですが、ミカとリーサさんの共通点は目がきれいなことです。 ミカは薄茶色の目、リーサは灰色がかった目ですが、どちらもとても澄んだ感じ で、あわい輝きを帯びています。とくにミカの目は、黒目がちというのでしょう か、瞳の部分が大きくて、しかもまんまる。赤ちゃんの目のようです。テレビを 見たりせず、ずっと森のようなところで暮らしていると、あんな目になるのでし ょうか。それとも、水道の水を飲まず、清潔な水だけを飲んでいるせいでしょう か。

――菜美さん、誕生日いつ?

わたしを見つめたミカ。彼の目は、わたしに向けられていましたが、まるでわ たしを見ていないようでした。わたしの体を突き抜けて、無限のかなたに向けら れた目。何十年ものあいだ、いつも遥かな水平線を見張っていた船乗りがなるよ うな、そんな遠い目。はっきりとあいているのに、夢を見ている。あんなに澄ん でいるのに、少しも現実が見えていないみたい。透明すぎて現実さえも透きとお らせてしまうふしぎな目……。

その晩、夏木正伸から電話がありました。どうして今日、練習こなかったんだ よ。有馬の様子がおかしいけど、なにかあったのか。いつもなら有馬が電話して くるのに、彼は「おれは電話できないから、代わりにかけといて」と夏木にいっ たとか。さすがの有馬も、無理やりキスして逃げられた女の子に電話するのは気 がひけるのでしょう。
「ごめん、ごめん。きょう、ちょっとね」といいながら、わたしはコードレスを 持って自分の部屋にひっこみました。母の視線を背中に感じながら。「とつぜん 家の用、頼まれちゃってさ」と小声で言ったのは真っ赤な嘘。練習をサボりたい 一心で(というのはもちろん有馬と顔をあわせたくなかったからですが)、母に 頼んで、わざわざ梨屋敷に行く用をでっちあげたのです。「沖縄のおばあちゃん がさー、なんか手作りの黍砂糖とかいうの送ってきてぇ、それをね、ソノォ、お 手伝いさんやってる家におすそわけに行ってこいって、頼まれちゃってー。うち ってふたりじゃん? だからあたしがお使い行くしか、ないんだよね」少々しど ろもどろになりながら、しりすぼみの声で説明をしました。お使いの内容は事実 ですが、本当は「頼まれた」のではなく、わたしが自分で「おすそわけに行って くる!」といいだしたのです。「……したらその家で、引き止められちゃって」
「そういうときは連絡しろよー。生田のポケベルにかけれただろ」
「あ〜ごめん。ゴメンネ」

わたしは、思いきりかわいい声を出して、お茶を濁しにかかりました。このへ んは女の子の特権というやつです。「夏木クン、許して」
「んまー、いーけどさー。おれだってよく遅刻とかするし」夏木は、人の良さそ うなのんびりとした声でいいました。「でも4人そろわないとさー、アンサンブ ルなんだから。春川のせいで練習に穴あいたら、ほかの3人が迷惑するんだぞ。 夏休みはみんな旅行とか行っちゃって、なかなか全員そろえないんだから、全員 そろえる日は日曜でも練習やるって約束だろ? ……ん。でも、まあ、家の用な ら結局、家族旅行と同じようなもんか」
「ゴメンネ。ほんと、ごめん。あしたはちゃんと行くから」
「おお。……でも、おかげで、今日、有馬に宿題の難しいとこ、じっくり教えて もらえたよ。たまには練習ナシっていうのもいいよな。うん」
「……で?」
「え? 『で?』って?」
「有馬の様子がおかしかったって? あたしのこと、なんか言ってたの?」
「ああ、そうそう、それそれ。おまえら、きのう、なんかあったの? ……って 生田がいってたんだけどさ。きのうさー、おれらがウナギ食い行ってるうちに帰 ちゃっただろ、おまえ。有馬とふたりきりのとき、なにかあったわけ?」
「有馬、なんていってた、きのう?」わたしは慎重に尋ね返しました。
「春川、急に気分が悪くなったから帰ったって」
「ふーん? それだけ?」
「女の子はデリケートだから、急に具合が悪くなることがあるんだ、とか、なん か、そんなこと」
「ウン。まあ……ね」
「それでさー。突然だけどねー。生田ねー、おまえのこと好きみたいだよ」
「はぁっ!?」
「きのうさ、おれとふたりでウナギ食い行ったじゃん、昼。そんときねー。えー と、なんだっけ。あ、そうだ。有馬がライバルじゃブが悪い、とかいってたよ、 あいつ。生田。……思い出と競いあっても勝ち目はないよなー、とかいって」
「あたし自身、その思い出のせいで混乱してたんだけどね」
「おれさー。有馬はいいやつだけどさー。……生田って、すげーいいやつだって 思ったよ、きのう」
「なんで?」
「あいつさーおまえと有馬は両想いだって思っててねー」
「べつに両想いじゃないよ」
「いや、だからさー。とにかく生田はそう思ってて。有馬と春川はホントは両想 いなのに、うまく気持ちを伝えあえてないって。それでおまえらのこと、わざと ふたりきりにしたんだって。だって、あいつ、ウナギなんか食わなかったもん。 失恋のショックで食欲も失せたとかいって」
「……」
「だからさー、食事っていうのはたてまえで、春川と有馬をふたりきりにするた めに、おれといっしょに外に出たんだよ、生田は。……春川のことが好きだから、 春川が幸せになってくれたら嬉しいんだってさ」
「えぇぇぇ!? まじで? まじで、そんなこと言ったの、生田」
「いいやつだろ」
「うーん……。嬉しいな。照れちゃうなぁ。うーん」わたしはどぎまぎしてしま いました。もてる女はつらいねぇ。「でも、有馬はべつに、もうなんでもないっ ていうか」
「アーそれでさー。春川、帰ちゃっただろ、きのう。で、今日も来なかったじゃ ん。生田ねー、有馬のこと、怒ってたよ。春川のこと傷つけたって」
「なにそれ?」
「あのさー。ごめんね、こんなこと訊いて。有馬、おまえのこと嫌いとか言った の?」
「はぁ!? なにそれ? 言ってないよ、そんなこと。――言われてないよ。あた し」
「それで春川が傷ついて、練習にも来ないんじゃないかとか。有馬もさー、おれ は春川に電話できないとかいってるし」
「違う、違う。違う。そういうわけじゃないんだ。ウン。違うよ。いろいろ。行 き違いというか。まあ。いろいろ」

わたしは左手で耳のうしろをぽりぽり掻いたり、耳たぶを引っ張ったりしまし た。「世の中いろいろあるものよ」

まったく、世の中いろいろあるものです。エロの生田広志が、わたしのことを 好きだなんて……。わたしを好きなんじゃなく、わたしの体が好き、の間違いな んじゃないの? 「こういう行為はセクハラです」といいながら、わたしの胸を さわるスケベな生田。

でも……

――春川のことが好きだから、春川が幸せになってくれたら嬉しい。

それで有馬とあたしの仲を応援してくれちゃうなんて。

ミカのような柔らかな髪の生田君。今まで同じクラスになったことがなかった から、どんな子か良く知らなかったけど……。あたしにちょっかい出すのは、好 きだからいじめてしまうシャイな男の子の心理だったの?

いったいあたしのどこが好きになったんだろ? むこうだって、あたしのこと なんてよく知らないはずなのに。

その日の夜は、目がリンリン冴えてしまって、なかなか眠くなりませんでした。 それで、夜中の十二時ごろだったでしょうか、暇つぶしをかねて、とつぜんミョ ーなことを始めたのです。

わたしは机に向かい、レポート用紙を取り出しました。そして、ミカに宛てて、 架空の手紙を書き始めたのです。ミカへの手紙、というつもりで書いて、でも実 際には絶対に出さない手紙。出しもしない手紙を書くなんて時間の無駄だと思わ れるでしょうが、でもまあ……そんな気分だったのです。

〈北原ミカさま〉

と、ゆっくり、ていねいに書きました。胸がときめきました。と同時に、出し もしない手紙をしたためる自分のセンチメントに、胸が痛みました。

机のライトの白熱灯の光を浴びて、白いレポート用紙が、金色に輝いて見えま した。

〈ある人が好きだと思っていました。彼は特別の男の子だったのです〉

わたしは続けて書きました。そして、自分の書いた文字を、長いこと見つめて いました。

それからまた書きだしました。

〈でも、それは、単に、小さいときからずっとそばにいた、という理由からなの です。ずっとそばにいたから、男の子といえば自然にまず彼のことを考えていた ……

彼にとって、わたしが特別な女の子だったのも、同じ理由からではないでしょ うか〉

シャーペンは、順風の海の上をゆく帆船のように、さらさらと、気持ち良く、 紙の上をすべってゆきます。それにつれて、わたしの心も、ふしぎと安らかにな っていったのです。狂っていたピアノの調律がただされてゆくように。

〈彼を好きなのでしょうか?  好きかどうか、どうして分かるのでしょうか?  キスをされても嬉しくないんなら、やっぱり「好き」ではないんですよね。  それに、彼ともう一生、会えないとしても、淋しくない〉

わたしは息をつめて、自分の綴った文字を眺めました。そら恐ろしい気持ちで。

〈淋しくない……〉

文末にふと、てんてんを書き加えました。さらに、もう少し考えてから、

〈淋しくない……?〉

最後にハテナを書きました。

バンドの練習はさんざんでした。わたしと有馬のあいだもぎこちなかったので すが、それ以上に、有馬と生田の呼吸があわないのです。のっぽの夏木がひとり で、なんとかみんなをまとめようと、右を向いたり左を向いたり。夏木はメンバ ーのだれとでも普通に話せるのですが、生田は有馬に対して冷淡な態度ですし、 有馬もそれに対抗して、ふたりのあいだは冷戦状態。わたしがフケてた一日半の あいだにいったい何があったのでしょう。生田が「リズムパートが機械的すぎる んじゃないか。これじゃメトロノームだよ」とケチをつければ、有馬は有馬で 「おまえのリズム感覚が不正確すぎるんじゃないのか」とやり返します。「だけ ど、ラップはスウィングだぞ」と生田が叫べば、「正確なリズムのベースがあっ てこそ、スウィングはスウィングするんだろ」と有馬は言い返す。こんなとげと げした雰囲気のなかでは、リズムに乗って「♪笑うんじゃねー笑うんじゃねー」 などと歌えるものではありません。

有馬と生田の亀裂は日ごとにエスカレートしてゆくばかり。夏木の仲裁のかい もなく、次の週になると、ついに、「リーダーはおれだぞ!」「リーダーだった らメンバーの意見、聞けよな」「これは、おれの曲だぞ。おれが正しいと感じる ことがこの曲の真理なんだよ」「そんなんじゃおれ、もう、やってらんねーよ。 抜けっからな!」

――という、空中分解寸前の地点にまで達してしまいました。
「おまえらさー、腹を割って、ちゃんと話しあえよ」ついに夏木がいいました。 「お互い、気持ちがクリアーになってないから不信感が生まれるんだぞ」
「おれはいつでもクリアーだぞ」有馬は不満げに、それでも静かな声で、いいま した。彼も夏木のいうことになら耳を貸すのです。内心では、夏木を軸としてな んとかバンドを立て直したいと、せつに願っていたはずです。
「生田もさ、感情論でいがみあってないで、このさい白黒はっきりさせようよ。 な」

夏木は生田にいいました。
「おお。望むところだ」
「じゃあ、ちょうどここは会議室なんだし、このさい腰を落ち着けてじっくり話 しあおうよ、な。そのへんに適当に座ってさ……その、でかい机んとこにでも」

夏木がやんわり指示を出し、わたしたちは大きな長方形のテーブルを囲みまし た。有馬と生田が向かいあうかっこうで。
「じゃー有馬も生田も、正直に本当のことをいうと誓ってくれよ。じゃないと解 決しないからな」夏木はおごそかにいいました。「いっくらのんきなおれでも、 おまえらの仲裁にはもう疲れたぞ」
「ああ誓うよ」有馬は鋭い目をしていいました。「おれがおれである誇りにかけ て」
「広志も誓うか」
「ああ。誓う」
「じゃー、まず、生田さー。なんでそんなに有馬に食ってかかるのか、みんなに 分かるように話せよ、おまえから」

生田は揺れる目で、わたしを見ました。それからすばやく有馬に目を走らせ、
「有馬が、春川を傷つけたからだよ」

矢のように言い放ちました。
「どういう関係があるんだよ、それは」有馬は吠えます。「おれと春川のあいだ のことで、なんでおまえが文句をいうんだよ。え? おまえには関係ねえことだ ろ」

生田は蒼ざめ、唇をかみました。いわば真剣勝負の挑戦を受けたようなもので した。数秒後、彼は決然と口をひらき、痛ましいほど真剣な、かすかに震える声 で、
「春川さんが好きだから」

そういって、いい終わったとたん、見ていて気の毒なほど顔を赤らめました。

となりにわたしがいなかったら、彼はもっと毅然としていたでしょうに……。 わたしがそこにいたことで、彼の告白はいっそう困難な、またそれだけに、いっ そう気高いものになったのです。心が揺らめくのを感じました。生田のことは別 になんとも思ってなかったけれど、目の前でそんな告白をされたら、やっぱりど ぎまぎしてしまいます。

有馬は喉の奥で「け」というような音をたて、Yシャツのポケットから煙草の 箱を取り出しました。すばやく1本くわえ、ライターを鳴らします。
「おい、有馬。こんなとこで吸うなよ」夏木がとがめました。

有馬は無言のまま深く吸いこみ、フーッと煙を、目の前の生田の顔に吹きつけ ます。
「有馬、軽蔑するよ」わたしはいいました。
「クソッ」彼はつけたばかりの煙草を机の上にあった缶コーヒーの空き缶でもみ 消し、缶のなかに捨てました。
「今度はおまえが告白する番だぞ」生田は有馬をにらみます。「あのとき、なに があったんだよ? 春川さんが帰っちゃった日」

有馬は長いこと黙りこくっていましたが、やがて、こもった声でつぶやきまし た。「それは言えないよ。春川にかかわることだから」
「おれが言ったことだって、春川にかかわるぞ」
「たしかに、あの日からだんだんおかしくなったんだよな」のっぽの夏木が、う なずきながらコメントしました。
「だけど、春川の名誉のためにいえないよ。おれが悪かったってことは認めるけ ど」
「いいよ。言っても」

わたしは張りつめた声でいいました。わたし自身、あのときのことを有馬がど うとらえているのか、彼の口から聞いてみたかったのです。有馬とふたりきりで 話しているときだったら、とてもこんな大胆な態度はとれなかったと思います。 そこに夏木と生田がいたことで、わたしは強気になっていたのです。ひとりでは 泣き寝入りをするしかない弱者が、公平な立会人のもとでここぞとばかりに加害 者の悪事を糾弾する――そんな被害者意識さえ持っていたのです。

有馬は問いかけるような目でわたしを見ました。彼の表情からは、意外にも、 わたしのことを心配するような含みが読み取れました。わたしはハッとしました。 頭にいきなり冷たい水をかけられたような……ようやく問題の核心に気づいたの です。あの日のことは、たしかに全体としては有馬がわたしに乱暴なことをした といえるでしょう。でも、初めのうち、わたしはむしろ積極的に、甘美な気分で、 彼の口づけを受けいれていた。彼はわたしに無理やりキスしたわけではないので す。愚かなことに、わたしはその事実をずっと忘れていたのでした。たぶん、思 い出したくなかったから。そのあとのショックが大きすぎたから。でも、有馬は 知っているのです。近づいてくる彼の唇の前で、わたしがうっとりと目を閉じた こと。やっぱりこの話はやめにしたほうがいい。単に恥ずかしいからという以上 に、あのときの自分を直視することは、とても危険なこと……。それは直感でし た。でも、わたしがそんなことを考えているうちにも、
「おまえがおまえである誇りにかけて、真実を話すと誓ったんじゃなかったの か?」

生田は有馬に鋭くたたみかけていました。

この言葉は有馬の自尊心をいたく刺激したようです。
「春川にさ」と、有馬が言い放つのが聞こえました。わたしはうつむきました。 有馬は偽悪的な調子で続けました。「おれが無理やりキスして――抱きしめて― ―それで逃げられたんだよ」

しばらくはだれもなにもいいませんでした。顔をあげると、生田は目をむいて 有馬をにらみつけていました。わたしはといえば、さしあたっては、有馬のとっ た立場に感謝しないわけにはいきませんでした。
「おまえ、あのとき、おれが冗談で春川に十万円でどう? とかいってたら、マ ジになって怒ってたよなぁ。そんなことは良くないよとかいって」生田は、激し い怒りを帯びた低い声で、有馬をなじり始めました。「それで、なんだよ。その あと、自分は無理やりかよ」
「キスとそれとは、また話が違うだろ。それにあのときおまえ、あれ冗談でか、 十万とかいうの? 半分本気になってなかったか? 正直に答えろよな。そう誓 ったんだから」

生田はしばらくちゅうちょしましたが、やがて困ったようにうつむいて、指を 複雑に組みあわせながら、
「そりゃあ、少しは……。だけど男だったら、そんなことだれでも考えるだろ。 有馬だって、内心では春川とやりたいって思ってるはずだぞ」有馬をにらみ、対 句のような反撃を始めます。「おまえも正直に答えろよな」

有馬は答に窮したのか、間をもたすためにまた煙草の箱を取り出しました。今 度は煙草を出すでもなく、箱を強く握ったり、その手を緩めたり、意味のない動 作を繰り返していましたが、結局その箱をまたYシャツのポケットにねじこんで、
「ああ。男ならだれでも考えるよ、それは。おれはハッキリいって、春川を抱き たいって思ったよ、あのとき。──抱きしめたかった。だから抱きしめた。── 単純な真理だろ。おれの方がおまえなんかよりよっぽど純粋で、自分の気持ちに 正直だったと思うね」
「なんだよそれ?」生田はいきりたちました。「すげー……すげー、へ理屈だぞ、 それは。やりたいからやるっていうのが純粋で自分に正直ってことか!? そんな こといったら世の中、強姦魔だらけになっちまうぞ」
「まあ待て待て、感情的になるな」夏木が割って入ります。「たしかに有馬のい うことにも一理はあると思うよ、おれは。自分に正直であるっていう点はね」 「そうだよ。そうだろ。な」有馬は勢いを得ていいました。「生田がおれに腹立 ててんのは、自分がやりたかったことをおれがやったからっていうのもあるハズ だぞ。おまえも心んなかじゃ、おんなじこと考えてたんだろ? なあ。それはお まえも今、認めたよな? で、おれは思った通りに実行したけど、おまえはなん だよ、心じゃそういうこと考えていながら、そんなことは考えてませんつうフリ こいてた。それどころか、自分に自信がないからって、カネの力で春川をモノに しようとさえ――」
「それは! そこの部分は、半分以上は冗談なんだって。95パーセントくらいは 冗談だったんだよ」
「ほんとかよ? ……まあ、それはいいけどさ。とにかく、心んなかじゃヤラシ イこと考えていながら表面は澄ましてるのと、思った通りにまっすぐ実行するの と、どっちが純粋でどっちが不純だよ」
「なんか、その議論、おかしいよ」生田は不愉快そうに唇をとがらせました。
「それじゃ、女とやりたいからって手当たりしだいやりまくるのが純粋なのか」
「よく話きけよ、だれがやりたいからやるなんて言った? それはエロ志の考え だろ」有馬はいいました。「おれは、前から春川のことが好きだったんだよ、こ のさいハッキリいうけど。好きな人のそばにいたい、抱きしめたいと思うのは素 朴で自然な感情だろ? そういう感情を持ちながら、自分にはそんなドロドロし た気持ちはないっていうフリをするとしたら、それは嘘つきで不純だっていって んだよ」
「たしかに有馬のいうことも、それなりに筋が通ってるような気がするな」のっ ぽの夏木がいいました。
「あのさー」わたしは、のろのろと口をひらきました。「有馬、あたしのこと好 きっていうけど、その好きっていうのはどういう気持ちなの? あたしのどこが 好きなわけ?」
「え……どこがって……」有馬は意表をつかれたように、急にしどろもどろにな りながら、「春川、かわいいし……。おれのこと分かってくれるしさ。性格もい いし」
「性格って?」とわたし。
「例えば……スダマがさぁ」
「あぁ」わたしは複雑な調子のあいづちを打ちます。
「スダマかぁ」夏木も声をあげました。「いたなぁ、そんなやつ。あいつ私立、 行ったんだよな」
「ルシフェル。マルコキアス……」有馬は吐き捨てるようにつぶやきました。 「スダマってなんだ?」小学校の違う生田弘志は知らないことでした。
「小6のときにね」有馬は、やわらいだ声でいいました。「おれは弱虫泣き虫い じめられっ子でね。スダマっていうイヤな奴がさ。クソッ。『♪バカ、カバ、ち んどんや、おまえの母ちゃん、いないだろー』ってコキやがってね。……ばかみ たいに泣いてたんだよな、おれ? そんとき春川がさ、『うちは父ちゃんいねー よ、あたしが生まれたときからいねーよ、だからなんだよ、わりーかよ』って、 すごい剣幕で、あいつを押し倒してね。あいつ、鉄棒のつけ根の石んとこに頭ぶ つけて、側頭部を3針ぬう――」
「5針だよ」わたしは訂正しました。
「5針だっけ? 頭んところがさ、ぱっくり、ザクロみたいにひらいちまって。 大けがしたんだよな、スダマ」けけけと笑いながら、有馬はいいました。「ざま ーみそ漬け、たくわんポリポリだよ。PTAかなんかの会議で、おれらのほうが 悪モン扱いされてさ。スダマの母ちゃんがしゃしゃり出て春川の母ちゃんの昔の こととかまで持ち出したりして。だけど春川も春川の母ちゃんもぜったい謝ろう としないのな。逆にスダマに謝れって、いってさ。全員を敵にまわして。そうま でして、春川はおれのこと、かばってくれたんだよな。……すんげー嬉しかった よ、あのとき」
「……でもさー。それは、あたしの性格が好きっていうのとは、ちょっとニュア ンスが違うんじゃない? いじめられっ子が助けてもらった嬉しさでしょ」
「かもね。ああ。そうだな。でも、おまえのこと、いいやつだと思ってたよ、ほ んと。保育園のときなんてさー、あれ中川の土手だっけ、花輪を作って遊んだの? タンポポとかさー、シロツメグサとか。美しい思い出だよな。フフ。なっちゃ ん、か。……その思い出だけでも、けっこう幸せだよ、おれ。……なんてね」
「それは、あたしもそうだけど……でも、それってさー、結局たまたま近くにい たから仲良くなったってだけで、そのままなりゆきっぽくズルズルきてるから特 別な親近感がわくんであって、必ずしも恋愛感情とは結びつかないんだよね。あ たしも有馬のこと好きは好きって思ってたけど、どうもそのへんがなぁ。恋愛感 情とは違うと思うよ。……でも、そういう『美しい思い出』を持ち出されると、 なんか心が乱れるというか。あのころは、無邪気で良かったよね。ホント」
「やりてぇ! なんて思わなかったしな」
「そればっかし」わたしは顔をしかめます。「男の子って、それしか考えない の?」
「それ『しか』ってことはないよなぁ」夏木がいいました。
「それに、おまえ、そういうことを軽蔑してるみたいだけど、そういうことがな ければこの世にはだれも存在しないんだぞ」有馬はしたり顔でいいました。「お まえだって、そういう行為の結果、この世に存在するんだろ?」彼にかかると、 なんでも、もっともらしい理屈がついてしまいます。
「じゃあ、有馬の『好き』っていうのは、結局『やりたい』と同義語なわけ」
「好きな相手と結ばれたいと思うのは自然な感情だろ。でも、まあ、やるのは、 だれとでもできっから、同義語じゃあないな。好きという方が充分条件で、やり たいは必要条件だね」

有馬は調子に乗って、そんなことをいうのです。わたしは幻滅を感じました。 好きという気持ちは、そんなふうに性欲に関係して定義するしかないものなので しょうか。人間には、精神的なだけの恋愛は不可能なのでしょうか。
「広志くんは?」わたしは、生田を、ことさら優しく、名前で呼びました。彼は ドキッとしたようです。「どうして、あたしのことを好きだって思うの? あた し、そんないいやつじゃないよ。ホントは結構ネクラだし。いろいろと暗い過去 もあるし」
「え、やっぱ……」生田は顔を赤らめました。「春川って、目立つよ。グラマー だし。観月ありさに似てるし」
「おお。それはおれも前から思ってた」のっぽの夏木はいいました。「あたしの 外見が好きってこと?」
「それもあるし」と、生田は続けていいました。「それに……春川さんが幸せそ うだと、ぼくも幸せになる」
「なにいってんだよ、コイツ」有馬がからかいました。「キザなこというなよ」 「有馬は黙っててよ」わたしは声を尖らせました。生田は、わたしに幸せになっ てもらいたいからと、一度は有馬とわたしをくっつけようとさえしてくれたので す。その生田のきれいな気持ちをからかうとは、なんとバカな有馬でしょう。 「そんなふうにいってもらって嬉しいけど」

わたしは少し照れながら、「でも、具体的にいうとどういうこと――あたしが 幸せになると嬉しいって? あたし、『好き』って言葉の意味が知りたいの」
「運命の人……というか」生田はいいました。「春川さんて、なんか、直感とし て、自分にとってすごく特別な人っていう感じがする。理屈じゃなくて、直感だ けど。だから、春川さんが幸せになるためになら……身を引ける。それくらい… …あ……いしてる」彼はむしろ蒼ざめながら、そういいました。

ひどく心が乱れるのを感じました。
「ヘ〜、なにが、『それくらい愛してる』だ」有馬はあざ笑いました。「それく らいしか愛してないってことだろ。ダメそうだったら、さっさとあきらめる。当 たって砕ける勇気がないんだろ」
「有馬は黙っててよ」わたしはぴしゃりといいました。「あんたは当たって砕け たのよ」

このせりふは効果があったようです。有馬は一瞬、絶望的な表情を見せ、それ から、とってつけたように、やぶれかぶれのにやにや笑いを浮かべ、煙草を口に くわえました。
「じゃあ、生田くんにとって、恋愛ってなんですか」

わたしは優しい声で尋ねました。
「相手の幸せを祈ること」
「そのために、自分が不幸になっても?」
「うん」
「嘘つけ。そんなのきれいごとだよ」しょうこりもなく有馬はいいます。
「おい、有馬、おまえ、なんかおかしいぞ」のっぽの夏木がいいました。「おれ には、率直にいって、生田の言葉が心に響くよ」
「理想論だよ、そんなの。言葉の上だけならいっくらだってきれいなことがいえ るさ。女の子を感動させるようなアマッチロイことだって、歯が浮くような愛の 言葉だってさ。だけど、おれは真実を語ってるんだ。かっこ悪いし、いやらしい けど、それが現実だよ」
「それじゃ、有馬にとって、恋愛ってなんなの?」
「ベッドへの道のり。そこへ至るゲームの楽しみ」

彼は偽悪的な目をして、言い放ちました。煙草の煙とともに。 「いやだ、そんなの」わたしはまゆをひそめました。「恋っていうのは、なにか、 もっと、きれいで崇高なものがあると思う」
「でも、たしかに、有馬のいうことにも一理あるよな。うん」夏木はコウモリの ようにいいました。「最終的にはベッドだもんな」
「そうだよ」有馬は鷹のような鋭い目で生田をにらみます。「口ではかっこいい こといってる生田だって、本性はエロ志だろ。おまえ、春川が幸せになれば嬉し いのはそれとして、春川を抱きたいって気持ちはないのか」
「おれは彼女を傷つけることはしないよ。無理やりとかさ!」
「だけど、おまえの心んなかにも、やりたいってゅー気持ちはあるんだから、そ の時点で、おまえはもうキレイじゃないんだよ。それともなにか? 心んなかで は『やりたい、やりたい』って思いながら口では甘いことをいうのがキレイなの か? おまえ、そんなカッコイイこといって、今日だって家に帰ったら春川をオ カズにひとりでシコシコやってんだろ。え? それがキレイなのか」
「やめてよ」わたしは弱々しくいいました。
「これが現実ってもんだよ」有馬は冷酷な口調で続けます。「いやでも好きでも、 現実は現実なんだから仕方ねーよ。春川だって、いちど味をしめれば、もっと、 もっと、っていいだすんだよ」

あまりにひどい言葉です。腹が立つやら、悲しいやら、涙まで出てきてしまい ます。
「たしかに、おとなの女の人はそうかもしれないけど、でも今のわたしは、そん なんじゃないんだから……」わたしは涙声でいいました。「そんなふうになりた いとも思ってないし」
「でも、じきそうなるよ」有馬は意地悪くいうのです。「大股びらきで、よがり 声あげてさ」
「おい、有馬、おまえ、ちょっとひどすぎるぞ」温和な夏木が声を荒げました。
「春川に謝れよ」
「いいよ、謝んなくって」わたしは怒りをためていいました。このときにはもう 有馬がある点ではわたしのことをかばってくれているのだということ(本当は無 理やりのキスではなかったという問題)など完全に忘れ去り、ただただ心を固く していたのです。怒りの杵で悲しみと憤りを搗き固めて。「あたし、もう、ボー カルなんて、やんないからね」
「お、ちょっと待てよ、無責任だぞ」有馬は慌てていいました。
「おれもやめる」生田は低く抑えた声でいいました。
「クソッ。じゃあ、もういいよ」有馬はやぶれかぶれに言い放ちました。「だけ ど、男と女なんて、結局それじゃん。おれだって、それがステキだなんて思って ねーよ。ただ、それが現実だってことさ。たぶん、おれの本心だって、春川に近 いんだよ……。でも現実は現実だろ。クソッ。……恥をさらせばさ、うちのおや じはそうなんだってことだよ。少なくとも。女つれこんで夜中にバコバコやりま くって、おれや弟は邪魔なんだよ」

有馬は灰が伸びた煙草をもみ消し、空き缶の暗い穴のなかに落としました。 「おお、春川も生田もさ。もう一度よく考えてくれよ」平和主義者の夏木が、最 後の望みをたくすかのように熱心にいいました。「こういう危機を乗り越えてさ ー、文化祭とかシンフォニーヒルズとかでいい演奏してこそ、あとで、それだけ 充実した思い出になるんじゃないかなー。このままじゃイヤな思い出だけが残っ ちまうぜ。だろー。なー。雨降って地かたまるっていうかさー。ここまで腹わっ て話しあったんだから、なんとかなんないかな」
「これだけ侮辱されたら、もうバンドなんて組めねーよ」生田の声は冷ややかで した。「春川が幸せだと嬉しいっていえば、キザなこというなよ、だろ。彼女の 幸せのためなら身を引けるっていえば、そのくらいしか愛してない、だろ。相手 の幸せを祈るのが本当の恋愛だっていえば、嘘つけだの、きれいごとだの……。 思い出がどうのこうのっていう以前に、有馬の人格が納得できねーよ。べつにお れと違う考えでもいいけど、だからっておれの考えを全否定することないだろ?  いや、否定してもいいよ。否定はいいよ。だけど、からかうことないだろ。こ んな真剣な気持ちなのによー」生田は声を荒げます。
「おお、待て、待て、感情的になるな」夏木があわてて押しとどめます。「そう だよ。おれもその点は同感だよ。有馬は、春川のことんなると、おかしいんだよ」
「あたしだって、やってらんないね」わたしはアイスピックを振りおろすような 調子でいいました。「大股びらきで、よがり声? なにそれ? 女の子にそこま でいうか?」

わたしにそういわれると、さすがの有馬もシュンとなったようです。

夏木正伸はみけんにしわを寄せ、何度も小さくうなずきながら、しだいに顔を 曇らせてゆきました。「じゃあ、バンドは……。少なくとも、一時解散だな」
「ああ。勝手にしてくれ」有馬は投げやりに言って。
「元をただせば、おまえが、春川に無理やり変なことしようとしたのがいけない んだぞ」夏木は有馬にいいました。「自業自得だぞ」
「だけど、それは行動するかしないかの違いで、男なんて心はみんな同じだろ。 生田もおれも、言うことは違ったって、やることは結局、同じじゃねーか。だ ろ?」

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