フェアリーランド

5 蛍の光


 きょうは初めてのデート。遠足に行く日の子供のように、自然と朝早くから目
が覚めてしまいます。空は青く澄みわたり、天気も上々。大島弓子の言葉を借り
れば、「悪魔も遠慮しそうな上天気」でした。
 わたしの普段着はダークブルーのデニム。御徒町の古着屋で買ったGジャンと
ジーンズをいい加減に着て、胸のところに『大事なことはみーんな猫に教わった』
という本のオマケについていた猫のバッチを留めたりするのが、わたし流のおし
ゃれ。これまで北原邸に行くときも、そんなでした。
 でも。
 デートとなると――
 やっぱり女の子はスカート、ですよね。
 わたしはふだん、あまりスカートをはきません。脚が太めなのです。このデー
トのために、わざわざ、自分向きのを一着、買いました。ふくらはぎがすっかり
隠れる、ふんわりとしたロングフレア。色はベージュというか、そのころ流行っ
ていたアースカラー。小さな花がいっぱい飛びかっている、ロマンチックな柄で
す。
 大きく返った襟にふわふわのフリルのついた、少女っぽいブラウス。カントリ
ー調のかわいいカーディガン。そんなかっこうをしてみると、気分はすっかり女
の子です。スクールヘアーは地味なみつ編みですが、その日はストレートになる
ように一生懸命ブローして、前に2本、頬のわきにたれるように、小さなねじり
編みまで作ってみました。あわいピンクの色つきリップをぬって完成≠ナす。
「☆かっわいい菜美ちゃんの、でっきあがり」
 鏡に向かってほほ笑んでみせます。スカートの端をつまんで揺らしながら、く
るりと回ってみたり……。
 女性の方なら分かっていただけるでしょうが、こんなときには自然と歩き方ま
で変わってしまうのです。ふだんはジーンズで飛びまわっているわたしも、楚々
として、しずしず歩いてしまいます。優雅にほほ笑みながら……。本性はがさつ
なのに意識して上品なふりをしている、というわけでもなく、自然とそんな気分
になってしまうのだから、ふしぎなものです。心がぴりりと引き締まって、なん
だかとってもいい気持ち。これもきっと、わたしのなかにいるもうひとりのわた
しなんだって思ってます。

 だけど、改札口の前のまるい柱のところでミカを待っているときは――
 なんだかとっても怖かった。自分から誘ったのに。それなのに、ミカが来ない
ほうがいい、とさえ思ったのです。
 そんなことを願ったのがいけなかったのでしょうか。ミカは本当に来なかった。
約束の十時を過ぎ、十時半になり、十一時になりました。なんともいえない悲し
い気分です。でも、暗い顔をするわけにはいきません。だって、今にもミカが現
れるかもしれないんです。あの無邪気な声で、「菜美さんごめんね、ミカ、ねぼ
うしちゃったの」とか、「時計が止まってた」とかいいながら。憂鬱な顔をして
立っているのを彼に見られたくありません。むこうから人影が近づいてくるたび
に、最上の笑顔を準備して。
 そんなことを続けていたら、1時間後にはすっかり疲れ果ててしまいました。
 休日の駅を行き交うたくさんの人々。遊びに行く人、遊びに来た人。帰ってゆ
く人、帰ってきた人。中には、わたしのことをじろじろ見る人もいます。長いこ
と待ちぼうけを食わされていると思われるのはしゃくですから、ほんのちょっと
連れを待ってるだけよ、というそぶりでにこにこしてみせて。そんなことを意識
していると、ますます疲れてしまいます。にこにこしている自分がみじめで、自
然と目が水っぽくなって。それでも、人が来るたびに、自然なそぶりでにこにこ
してみせたのです。
 たくさんの男性が、女性が、わたしの前を過ぎてゆきました。わたしはただひ
とり、流れに乗れずに立ち止まっています。フリルのついたかわいい服に身を包
んでそこにひとりで立っているのが、ものすごく愚かなことに思えました。早く
ミカが来ればいいのに。そうすればすべて解決するのに。……でも、ミカが来な
いほうがいい、という気もしたのです。
 駅舎の床は冷たいコンクリート。立ちっぱなしで、脚も疲れてしまいます。運
動もかねて、10分ごとに、駅の北口と南口に行ってみました。ミカが待ちあわせ
の場所を間違えている可能性もあると思ったからです。でも、ミカはどこにもい
ません。いつだって、ミカはいないのです。わたしはまた柱のところへ戻ってき
ます。キオスクのおばさんの、ねばつく好奇の視線を感じました。この人にだけ
は、わたしが長いこと待たされているのが一目瞭然です。腹立たしいことに、そ
のキオスクは暇そうで、わたしの動静は彼女にとってかっこうの暇つぶしらしい
のです。
 どうして電話をしてみなかったのか、ですって? それが2回めよりあとのデ
ートだったら、わたしもきっと電話したと思います。でも、そのときは微妙な気
分だったのです。それまでミカと電話で話したことなど一度もなかったし、電話
をして「どうして来てくれないの? 早く来て」と催促するのは、なんというか、
そのときのわたしには思いも寄らぬことでした。

 正午の鐘が鳴りました。わたしはとぼとぼと家へ帰りました。昼食もとらずに、
ベッドにもぐりこみました。疲れていたのです。とても。夢もみずに、ぐっすり
眠りました。
 ふとんのなかは暖かくて、心地よいものでした。街の雑踏から離れて、ひとり
きりで毛布のなかにくるまっていると、ホッとして。ミカが来なかったことは、
かえって良いことのような気がしたのです。でも、すっぽかされたという事実そ
のものは、悲しいこと。とくに、母に対しては、「今日はミカとデートで、帰り
は遅くなるかもしれない」と宣言して家を出た手前、2時間たらずで帰ってきた
のではカッコがつきません。「今日は都合が悪くなっちゃって」などとあいまい
な受け答えをしましたっけ。

 夕暮れの空気は、ふしぎな雰囲気を持っています。
 目が覚めると夕方の5時でした。あたりはもう薄暗くなりかけています。頭が
ぼーっとして、なんだか夢のなかにいるような気分でした。風にあたりにベラン
ダに出ると、南の空に、ぽつんと低く、一番星が見えました。鳥が三羽、三角形
を描きながら、北へ飛んでゆきました。

〈一九九三年十一月二十三日
 北原ミカ様 No.45
 きょうはどうしたの?
 菜美はずっと待っていたんだよ……
 それとも、どこか、ほかの所で待っていたの……?
 なにか、菜美のことで、怒っているのでしょうか?
 もし、そうなら、どうかそうおっしゃってください〉

 不安な気持ちで手紙を書きました。文字も不安げに揺れてしまいます。「?」
も、筆圧が弱く、くらげのように、大きくふくらんだ「?」でした。正直いって、
なんでミカが来なかったのか、見当もつかなかったのです。あんなに約束したの
に。楽しみです、っていってくれたのに。
 例によって返事はすぐに届きました。〈なんだか疲れてしまって……ごめんな
さい〉というあいまいな答でした。わたしのことでなにか怒っていて、それで来
なかったというわけではないようです。
〈菜美も最近、なんだか疲れてしまって。それにね、ミカを待ってるとき、この
ままミカが来ない方がいいって、思ったんだ。ヘンなの……〉
 と、わたしは彼に書き送り、
 それからまた親しげな手紙のやりとりが続いて。
 実際にミカと会ったのは、その3か月後のことでした。今度はわたしが彼の家
へ迎えに行ったのです……。
 しばらく会わないうちに、ミカは少し大人っぽくなったようです。わたしもわ
りと長身で、背丈は一六五くらいありますが、彼も一六〇センチくらいになって
いました。声も低くなったみたい。それでも、例の透きとおった感じはそのまま
で。外見は男っぽくなってきているのに、身にまとった空気はあくまで中性的。
そのギャップが、枝を離れる寸前の桜のような、あやうい、微妙な感じです。
 彼といっしょに歩いていると、たいていの人が振り返ります。ミカのふしぎな
雰囲気に興味をひかれるのです。ミカはいわゆる美少年ではないのですが、赤ん
坊がそのままおとなになったような、独特の柔和な空気の持ち主です。それに、
混血児特有の、見ていて思わずこっちがにっこり笑いたくなるような、そんな人
なつっこい顔だちなのです。

 動物園でのデートには一度ケチがついたので、今度は公園――新宿御苑に行く
ことにしました。ランチボックスを持って。十三歳と十四歳の、かわいいカップ
ルでした。
 2月とはいえ、その日はとても暖かく、コートがいらないほどのポカポカ陽気。
ミカはジーンズにトレーナーといういつものかっこで、上にゴアテックスのパー
カーを着ています。わたしは例によって、女の子っぽく、おしゃれ。いっちょう
らのベージュのコートを着こんでいました。首のところにふわふわのボアがちょ
こんとついてる、お気に入りのコートなのです。
 電車のなかで、ミカは無口でした。あまり外出する習慣がないらしく、おおぜ
いの人がそばにいるのに慣れていないようです。となりに男の人が座ると、居心
地悪そうにもぞもぞしたすえ、結局、席を立ってしまいます。どうやら、男嫌い
のもよう。いつもお姉さんのリーサとふたりっきりでいるせいでしょうか。
 わたしも、初めはうまくしゃべれませんでした。生まれて初めてのデートだっ
たので、緊張してたのです。会話はとぎれがちでしたが、気まずさはありません
でした。ミカの場合、存在感が薄いというか、黙ってそばにいられてもあまり気
にならないのです。そばにいても、彼の方では、わたしのことをそれほど意識し
ていないみたい。早くいえば、ちょっとぼんやりしたところのある子なのです。
 もうひとつ分かったこと。ミカは極端な偏食で、食べられるものが本当に少な
いのです。せっかくかわいいサンドイッチをいっぱい作っていったのに、ひとつ
も食べてくれません。バターが塗ってあるとだめなのだそう。せっかく早起きし
て作ったのに……。なんなら食べれるの? と尋ねても、今はおなかがすいてな
い、と首を振るばかり。結局、レタスの切れっぱしをほんの少し、それもわたし
へのつきあいで、ぽりぽり食べただけでした。
 売っていたコーヒーも飲めません。初めからミルクが入っていたからです。ミ
ルクが苦手なのです。それはまだいいとして、驚いたのは、公園の水道の水が飲
めないこと! なんという困った子でしょう。こんなことで現実世界に適応でき
るのでしょうか。
 彼がほとんど食事をしなかったという点を除けば、本当に楽しいデートでした。
わたしが「菜美はミカが好き」というと、彼はおうむ返しのように「ミカは菜美
が好き」といって、それはきれいにほほ笑むのです。

 わたしはミカに、有馬のことを話しました。最近、有馬のことで、ずっと気に
なっていた事件があるのです。
 ……それは1月の寒い日のことでした。有馬は、3年の不良グループに「文化
祭で『学級の歌』を発表したときの合唱の指揮のやり方が生意気だ」という意味
不明のインネンをつけられ、フクロにされたのです。彼らは有馬を更衣室に連れ
こみ、殴る蹴るの暴行を働きました。そのうえで、チクるなよ、と有馬を脅した
らしいのです。ところが、そうやって更衣室から出てきたところを宮崎という体
育の先生(男)に見つかってしまいました。宮崎先生は有馬とその不良の先輩た
ちを職員室に呼んで事情を聞いたのですが、そのとき、驚いたことに、有馬は先
輩たちをかばって、「これは双方に非があるただの喧嘩だ」と、うまく話のつじ
つまを合わせてしまったのです。
 なんで本当のことを話さなかったの? それはむしろ弱虫の態度じゃないの?
 わたしは有馬を責めました。すると彼は、
「チクるなよ、といわれて、分かった、と答えたんだよ、おれは」
 と、そういうのです。たとえ脅されてではあっても、告げ口しないと約束した
以上、自分の言葉をまっとうするのはおれにふさわしいことだ。暴力事件を起こ
したことが発覚すれば、連中は受験で不利になって、それで一生が狂うかもしれ
ないし、そうなればなったで、なおさらおれを憎むだろう。それは双方にとって
不利益だ……というのが彼の考えなのでした。
 結果的には有馬の判断は正しかったのです。それ以来、その先輩たちは有馬の
ことを逆に尊敬するようになったし、推薦で高校にも入れたらしい。でも、わた
しは釈然としない気分でした。いじめが社会問題になっている今、理不尽な暴行
を受けて黙っているなんて(それどころか、相手をかばってしまうなんて)絶対
に良くないことです。勇気をもって告発すべきです。集団で暴力を振るうような
生徒は罰を受けて当然ではないでしょうか。たとえ学校推薦を取り消されても、
自業自得ではないでしょうか。なのに有馬は、
「社会常識がどうあれ、おれにとっては、おれが正しいと思う行動が正しいんだ
よ。春川がおれの行動を正しくないと思うとしたら、そう思うことは春川にとっ
て正しいよ。その正しさは認めるから、おれの正しさも認めてくれよ」
 などといって、わたしをけむに巻いてしまうのです。
「ミカはどう思う? そんな悪いことした人が、大手を振って高校に推薦で入る
なんて、菜美はぜったい許せない」
 わたしはいいました。
 ミカはしばらく考えていましたが、
「なぐられたら、いたいしるし」
 と、いいました。
「そうよ。有馬、顔の形が変わるほど殴られて、青いあざになってた。よくアメ
リカのマンガとかで、こてんぱんに殴られると、目のまわりがドーナツ型に黒く
なってるでしょう。ほんとに、そんな感じ。でも、クラスメートはだれも『どう
したの?』って尋ねないの。先生も見て見ぬふりって感じ。いやな雰囲気。ミカ
だったら、どうする?」
「なにを?」
「無理やり殴られたら」
「なぐられたら、いたいしるし」
「そういう相手をかばう?」
「かばうって?」
「そういう相手の味方をする?」
「そういう相手って?」
「ミカを殴った人」
「ミカをなぐっちゃだめ」
「もしもの話。もし、だれかがミカを殴ったとして、ミカは黙ってる?」
「分かんない。でも、たぶん、黙ってない」
「そうよね」
「……そうなの?」
「『そうなの?』って、ミカ、自分でいま、黙ってないっていったじゃない!」
わたしはわけが分からなくなって、笑ってしまいました。
「それは、もしもの話」
 と、ミカはいいました。
「まあ、いいわ。最近、ミカのほうでは、なにかおもしろいことあった? いま、
ミカがいちばん興味を持ってることは、なあに?」
「二七八の平方根は実数一六・六七三三三二に極めて近い値を持っている。その
あとは0がいっぱい続く。それがふしぎ」
「ミカは数学が好きなのね」
 と、わたしは答え、それからしばらくは数学の話になりました。ミカは目をキ
ラキラと輝かせ、数のふしぎを生き生きと語るのです。デートに数学の話だなん
ておかしいと思われるでしょうか? わたしは別にいやではありませんでした。
むしろ、とってもきれいで楽しい話題という感じがしたのです。

 そうこうするうちに夕方になり、閉園の時刻になりました。スピーカーから蛍
の光が流れます。ミカは公園(新宿御苑)が閉まるということを、たいそうふし
ぎがりました。なぜある時刻になると公園にいられなくなるのか、理解できない
のです。フィンランドには、そういうことがないのでしょう。蛍の光と「おしま
い」がどう結びつくのかも、改めて尋ねられてみると、どうも答えにくい質問で
す。「これは日本の習慣なの。もう閉まりますっていう合図の曲」
 と、わたしは答えましたが、ミカによると、これは、日本のではなく、スコッ
トランドの曲なのだそうです。それも「懐かしい昔の日々は忘れられてゆくしか
ないのだろうか」という、そんな内容の詞がついているのだといいます。
「まだ帰りたくない」
 公園の門を出たとたん、わたしは、すねたようにつぶやきました。「そういう
ときには、道を反対向きに歩くと、どんどん帰れなくなるしるし」
 ミカは、いいました。
 それでわたしたちは、御苑の前の大通りを、新宿駅とは反対の方向へ歩いてい
ったのです。道幅の広い車道は、夕方のラッシュで、車の洪水でした。まばらな
街路樹は痩せさらばえ、建物の壁はどれも排気ガスで黒ずんでいます。せわしな
く、足ばやに行き交うたくさんの人々。そんなほこりっぽい歩道を歩きながら、
ミカはとても小さな声で「蛍の光」の元の曲を口ずさんでいました。少年とも少
女ともつかない独特の中性的な声で。ひとりごとならぬ、ひとり歌でした。いち
ど歌い始めると記憶が次々と触発されるのか、彼は次から次へと、スコットラン
ド民謡やアイルランド民謡を口ずさみました。いちど耳にした曲は忘れないとい
う評判どおり、ミカの脳には厖大な量の音楽がストックされています。いちど有
馬に会わせたいものです。
 アイルランドの曲は、長調なのにどこかうら悲しく、甘美で、ふしぎと懐かし
い感じがします。そのいくつかは、聞き覚えのある曲でした。『ロンドンデリー』
や『庭の千草』、それに、『だれかさんとだれかさんが麦畑(ライ麦畑でつかま
えて)』といった曲です。わたしが尋ねると、ミカは英語の歌詞を教えてくれま
した。「ライ麦畑をよぎるとき、だれかさんがだれかさんにキスしたら、だれか
さんは泣く必要があるのでしょうか」という詞は、まるでわたしと有馬のことを
いっているような気がしました。……わたしは泣く必要があったのでしょうか?
 やがてそういう潔癖な気持ちが消えてしまうとするなら、なんのために、だれ
のために、泣いたのでしょう? でも、3番めの「だれかさん」を、また別のだ
れかさんと考えることもできます。例えば生田広志くんとか……。なかなか奥の
深い詞です。
 夕暮れの新宿通りを、いっしょに四ッ谷まで歩きました。ただ歩きました。そ
れだけで幸せだったあの頃のこと。

 いちどデートすると、緊張もほぐれたようです。それから毎日のようにミカと
会いました。学校が終わると、そのまま、家には帰らず梨屋敷に行って。
 彼といっしょだと、見慣れた町の公園でさえ、たちまち夢のようなすてきな場
所になってしまうのです。よく中川の土手を歩きました。風がない日には、水面
に星が映りました。下町とはいえ、こんなあかりだらけの都会地で、川に映る星
が見られるとは意外でした。でも見えたのです。
 ミカはにこやかでした。いつも笑いをかみ殺したような、口元がむずむずした
顔をしています。ときどき、思い出し笑いのように、笑いの波紋が顔全体に広が
ります。何がおかしいの? と尋ねても、たいていの場合、彼はきちんと説明で
きません。「ダックスフント、サンスクリット、犬に棒」などとわけの分からな
いことをいって、きれいな声で笑うのです。
 ミカは小さな子供のように、自分のことをミカといいます。お姉さんぶって、
自分のことはぼくっていいなさい、と告げると、彼は不意に神妙な顔をして、
「ジブンのことはボク」
 と、おうむ返しに低く繰り返しました。わたしは首をかしげてほほ笑みます。
「意味、分かってる? 日本語では、男の子は自分のことをぼくっていうのよ」
「ジ・ブ・ン?」
 ミカは不安そうに、体をかすかに揺らしました。「そのジブンはだれだ」
「あなた自身! あなたが『自分』でしょ。自分で自分のことはぼくっていうの」
「あなたが自分?」
「あたしじゃなくて、あなた。あなたがぼくっていうの」
「あなたがぼくっていうの」
「あたしじゃなくて。あなたが『ぼく』」
「あなたが『ぼく』?」
「あのね。あなたっていうのはミカのこと。あなたがミカなの」
「あなたがミカなの!?」
 わたしは吹き出しました。「あたしはミカじゃないでしょ。ミカっていうのは
あなたでしょ。ミカはあなた」
「ミカはあなた」
「そうそう――じゃなくてぇ! 違う。あたしじゃなくて、あなたがミカ」
「あなたがミカ?」
 彼の日本語はこんな調子で、代名詞の意味がよく分からない様子です。説明す
ればするほど、こっちまで混乱してきてしまいます。小さな子供に話しかけるよ
うな調子で、いい、ぼく。ぼくはミカくんでしょ〜 というと、彼はようやく理
解して「ぼくはミカ、ぼくはミカ」と嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねました。
思わず「そうそう! あなたがミカなのよ」と、あいづちを打ったら、とたんに
彼はまた混乱してしまいました。
「『あなた』がミカなの? 『ぼく』がミカなの? 両方?」
「あなた」
「あなたがミカ?」
「ううん」
「じゃあ、ぼくがミカ?」
「そう! あなたがミカ」
(自信なさそうに)「やっぱり、あなたがミカ?」
「もういいわ! ミカはミカよ。ね。それでいいでしょ」
「ミカはミカ。ミカはミカ。くふふ。ミカミカ人形」
 彼には「あなた」という言葉の意味が理解できないのです。ミカがわたしに
「あなたがミカ?」と尋ねたとき、わたしは「違う」といいながら、続けて「あ
なたがミカなの!」といいます。「あなたがミカ?」という質問を否定したのに、
続けて「あなたがミカ!」とわたしがいうので、彼は混乱してしまうのです。
 3人称だけで、つまり、いつでも「ミカ」と「菜美」を主語にして話すのが、
無難なようでした。実際、当時は、家族を含めて、だれもミカと「あなたとわた
し」の関係で向かいあうことができなかった。彼はすべての人間関係を「ミカと
菜美」のような3人称の世界、自分とは無関係な物語の世界に置き換えてしまう。
数学を愛したのも、ひとつには、数学の本には基本的に「わたし、あなた」とい
う言葉が出てこないからだと思います。
 沈黙が続くと、ミカはすぐにぼんやりとして、眠くなりかけた幼児のようなと
ろんとした表情になってしまいます。いちどそうなってしまうと、話しかけても、
うわの空。そんなときは、そっと彼の手をにぎりました。体に触れられると、彼
の心は戻ってきます。そして、ふしぎそうに、自分の手足を見るのです。
 ミカは、あまりわたしを見ていないようでした。髪形を変えても気づかないし、
特別におしゃれしてかわいい服を着ても、少しもほめてくれません。初めて学校
から直接、制服のままミカのところへ行ったときには、彼はわたしが分かりませ
んでした。わたしが小声で「ミカ」と呼ぶと、彼は声を聞いてわたしと分かり、
「菜美、菜美」と顔を輝かせたのです……。

 ポカポカ陽気が続き、数日後には春一番も吹きました。でも、それから3日ほ
どして、とつぜん雪が降ったのです。二十五年ぶりの大雪だとかで、十四歳のわ
たしにとっては人生最大の大雪! 東京でも二十センチ以上、積もりました。な
ごりの雪でした。
 ちょうど土曜日だったので、午後から、ミカを誘って、江ノ島の海岸へ出かけ
ました。海に雪が落ちるところが見たかったのです。
 白い雪は、吸いこまれるように、灰色の海のなかへと消えてゆきました。たま
に強い風が吹くと、上空を舞っている雪が花びらのようにくるくるまわって。そ
れがなんだか愉快でした。
 ひとけのない海辺の展望台の、吹きさらしのベランダのようなところに、並ん
で立っていました。柵の向こうは崖でした。海は荒れて、泡だっていました。砕
け散る波しぶきと雪とが、みぞれのように、ごちゃまぜになって。
 ふだん景色にはあまり興味を示さないミカも、雪にはひかれるようです。まつ
げに雪が積もるほど、まばたきもせず、放心したように、舞う雪に見いっていま
した。
「懐かしいの?」
 そっと尋ねました。
 ミカは焦点の定まらない夢みるような目をしたまま、「めずらしい」と、いい
ました。
「フィンランドでは、雪はたくさん降るんじゃないの?」
「こういうだんごみたいのは、めずらしい。ひらひらしてる」
「フィンランドの雪って、ひらひらしてないの?」
「つぶつぶしてる。結晶がひとつひとつ、離れ離れに落ちてきて、星みたいにと
んがってる」
「そうなんだ」
「それに、いっかい降っても、ちゃんと止まってなくて、風が吹くとまたどっか
に飛んでっちゃう」
「――あたしは、懐かしいって感じだなぁ。4歳くらいんときに、こんな大雪が
降って……雪のなかでタケちゃんと遊んだんだ。沖縄から来たばっかりだったか
ら、もう感激」
「タケちゃんて?」
「前、話したでしょ、自分を殴った相手をかばう馬鹿なヤツ」
「顔がいたくてドーナツができた人?」
「そう、そう」
「それは懐かしくない。今も雪は降るし、タケちゃんはいるし、いっしょに遊べ
る。今も変わってないことは『懐かしい』でないぞ」
「ううん。変わったの。変わったから、懐かしいの。もう、いっしょに遊べない。
あのころには戻れない」
「なぜだ? タケちゃんは雪が嫌いになったか?」
「たぶん。……ほかの遊びが好きになった。あたしもそう」
「ミカは雪に寝る遊びが好き」
 そういって、彼は、いきなり雪の上に(展望台のコンクリートの上に積もった
雪です。すでに十五センチくらい積もっていました)、あお向けに横たわったの
です。
「こうやって寝てると、ウエ・ニア・ガル」
「ウエ・ニア・ガルって?」と聞き返しながら、わたしも思い切ってミカの横に
寝てみました。
「うわぁ、雪が顔に――」といいかけて、わたしはハッと目を見ひらきました。
「本当だァ、上にあがる!」放心したようになって、思わず口走っていました。
「すてき……。天国に行くときって、こんな感じかしら?」
「でも、この雪は濡れる雪だねえ」
 そういって先に体を起こしたのはミカのほうでした。頭の後ろに手をやって。
栗色の細い髪が、濡れてぺったんこになっています。わたしは横目でそれを見て
いましたが、
「タオルでふこ。あたし、タオル、持ってきてる」
 元気よく起き上がりました。
「『あたし』って菜美だな。『あ』のときは菜美のしるし」
「ふふ。だんだん分かるようになってきたみたいね、ミカ」

 屋根のあるところに入りました。そこも、がらんとして、まるでひとけがない
のです。
「フィンランドの雪は、濡れない雪?」
 ミカの頭をタオルでふいてやりながら、尋ねました。
「手で払えば、ぱらぱら落ちる。砂糖のなかま」
 ミカはそういって、手の甲でほっぺをこすり始めました。
「寒いの?」
「ミカミカ人形のケッコーが悪くなったから、なおしてあげた」
 わたしは、どさくさにまぎれて(?)ミカのほほに、自分の頬を押しつけまし
た。子供の熱を見るお母さんのしぐさのたぐいのつもりです。意外にも、ミカの
ほっぺの方が暖かです。……。いつまでもこうしていたいけど、あまり長くこん
なかっこうをしているのも不自然でしょう。それに、
「冷たいよ! ミカミカ人形から、熱を奪っちゃだめっ」
 ミカに怒られてしまいました。
 わたしはほっぺを離し、それから、タオルで自分の頭をごしごしこすりました。
急に震えが来ました。
「寒い」
 わたしはつぶやきました。
「ミカミカ人形も、さむさむ人形」
「ミカも寒いの?」
「さむさむ人形」
「あなたやせすぎなのよ」
「『あなた』ってミカミカ人形のこと?」
「そう」
 といいながら、わたしはミカをぎゅっと抱きしめていました。
「きゃあ、菜美つめたいよー」
 ミカは嬉しそうな悲鳴をあげて、身をすくめます。
「いいの。あたしは暖かいから」
「『あたし』って菜美?」
「そうよ」
「菜美、冷たい。暖かくない」
「でもミカが暖かいから、菜美はあったかくなるの。熱の伝導です」
「暖かい? あったかい?」
「ウン」
「ウンて?」
「暖かい」
「あったかいは?」
「あったかい」
「どっち?」
「どっちって? ……何が?」
「『暖かい』か、『あったかい』か」
「それはどっちも同じ意味」
「それじゃ、『暖かかった』は、『あったかかった』と同じ?」
「そうだよ。知らなかったの」
「ホヤア! あたたかかった、あったかかった、あたたかかったか、あったかか
ったか、たかたかたか……口がこんがらがる」
 ミカは目をくりくりさせます。
 わたしはすばやくミカの頬にキスしました。ミカはほとんど気づきもしない様
子で、あったかかった、あたたかかった、といい続けています。
「ミカ」
「なんだ?」
「キスして」
 わたしがそういうと、ミカはなんのためらいもなく、すぐにほっぺにかわいい
キスをしてくれました。それからまたすぐに、もうそのことは忘れたかのように、
「あたたかかった、あったかかった。アタッタカカッタはだめ?」
 もとの調子でいうのです。
「それは釣人がいう言葉でしょ」
 わたしは甘い声でいいました。
「アタッタカッタは?」
「それは競馬」
「じゃあ、じゃあ、じゃあ、アッタタカッタは!?」
「そんな言葉はありません」
 先生の口調でそういって、ミカをそっと離しました。
「あっ、戦った、ってことでしょ。鷹が戦ったか! 蚊がたかったらイヤだよ〜」
「ねぇ、ミカ」わたしは蜜のような声でいいました。「愛してるっていって」
「アイ・シテ・ル」
「菜美もミカを愛してる」わたしは声をうるませました。
「カッター買った?」
「えっ?」
「高かった!? きゃはあ。話が合ってる」
 ミカは嬉しそうに、くるくるまわります。
「なにいってんの? ミカってときどき分かんない。そんなにまわるとバターに
なっちゃうよ」
 ミカは回転速度をゆるめながら、「ミカ、やっぱり、さむさむ人形のしるしが
いっぱい出てる」
 両手の甲を頬に押しつけます。
「菜美も寒い。あったかいお茶が飲みた〜い」
「ロマンスカーのなかで甘い紅茶を飲んだらおいしいしるし」
「んじゃあ――とにかく駅の方へ行きましょ。ネ」
 ミカは立ち止まり、ゆっくりとまばたきしました。「ふしぎだったね」
「なにが?」
「あんなにいっぱい、暖かかったっていったのに、ミカミカ人形は暖かくなかっ
た……。世界が2個あると、この子は迷う」
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