フェアリーランド
オフィーリア
わたしはさそり座。そしてその年は、さそり座にとって十二年に一度の大発展
の年といわれていました。ミカと仲良くなり、初デート。それから毎日のように
会ってキスもして。これまでのところ、まさに星占いの予言通りです。今はまだ
3月。「大発展の年」は半分以上、残っています。これから何が起こるのでしょ
う? ミカふうにいえば、「わくわく人形」の菜美ちゃんです。
その店の占いは、良ければ良い、悪ければ悪いとハッキリいうことで有名でし
た。それがまた良く当たると評判なのです。今年はさそり座の年といわれて、ゲ
ンキンにも急に占いが大好きになったわたし。だれだって、吉の占いなら、もっ
と詳しく知りたい、たくさん聞きたいって思いますよネ。さっそく友達から聞い
たその店に行きました。ミカとわたしの性格と相性をコンピュータで計算しても
らうのです。
その結果は……
はっきりいって、占わなければ良かったと後悔しました!
まあ、見てください。ここに、その紙がありますから。
〈★GIRL 春川菜美 一九七九年十一月十一日、9時00分、沖縄県糸満市生
まれ。
本質――さそり。閉鎖的で物静か。深刻な情緒。強烈なエネルギーを秘めてい
る。
行動――いて。大胆で奔放。
感性――しし。華やかなものに引かれる。ロマンチック。負けず嫌いで嫉妬深
い面も。
不透明で分かりにくい性格です。夢みがち。若々しく陽気。知的で魅力的。美
意識が高く、おしゃれ。おしゃべり。ムードに流されやすい。自己主張が激しい
人です。
★BOY 北原ミカ 一九八一年一月十七日、21時30分(現地時間)、フィン
ランド・オウル市生まれ。
本質――やぎ。集中力と野心。地味だが誠実でまじめ。
行動――おとめ。デリケートで神経質。
感性――ふたご。気まぐれで風変わりな感受性を持つ。
純真でナイーブな性格です。天才肌。感覚が鋭く、とっぴな才能を発揮します。
病的なまでに鋭敏な感受性の持ち主。潔癖。霊感が強い。重い試練と飛躍を経験
します。行動は大胆。自己の信念を貫き通します。ぜいたくで鷹揚。非社交的。
★ふたりの相性
恋愛……春川菜美の火星はしし座。北原ミカの金星はやぎ座。この組合せは、
容易に共鳴するが、実質がなく、空虚。春川菜美は情熱的な男性を求めているが、
北原ミカは臆病。北原ミカは古風な女性を求めているが、春川菜美は大胆。
SEX……性を表す火星は、春川菜美が大胆なしし座、北原ミカが冷静なみず
がめ座で、まるで正反対の傾向を示しています。太陽と火星のあいだに、同一エ
レメンツ・吉角がひとつもありません。調和度は最低。
結婚……夫を表す太陽と妻を表す月のあいだに、同一エレメンツ・吉角がひと
つもありません。調和度は最低。
総合判断……恋愛は可。それ以上はお勧めできません。これほどちぐはぐなカ
ップルも珍しい〉
あまりにひどい答です。高い見料を払って、こんなことを聞かされるなんて…
…。コンピュータを蹴ッ飛ばしてやりたいくらいです。 でも、わたしの性格の
部分はものすごく当たってる気がしますし、ミカの性格も「風変わりな感受性、
天才肌、とっぴな才能」など、まさにその通り。では、やっぱりこの結論の通り
なのでしょうか?
わたしが「情熱的な男性を求めている」というところは当たってないと思いま
した。一時期たしかにそういうタイプにひかれるような気もしたけど(有馬みた
いなヤツ)今はむしろミカのような、清らかで物静かなタイプの人を求めていた
のです。そんなわけで、この占いには外れている部分もある、だから結論も信頼
できない……と、自分を納得させたのです。実際、ミカとわたしの関係はあらゆ
る意味において、どんどん深まりつつありました。コンピュータごときに「これ
ほどちぐはぐなカップルも珍しい」などといわれる筋合はありません。たしかに
以前は、言葉の上だけで「愛してる」といいあっているような、実質のなさがあ
りました。でも、今は違います。わたしは少しずつ、ミカのなかの男の子を目覚
めさせることに成功していたのです。お互いまだ子供っぽい面はあるけれど、互
いに好意を抱きあっているのだから、時がたつにつれて成熟したカップルとなっ
てゆくはずです。ミカが浮気をする可能性は、ほとんどゼロといっていいでしょ
う。浮気どころか、そもそも彼がふだん会う女性は、わたしのほかにはリーサさ
んと、わたしの母くらいしかいないのです。ほかの女性は顔も覚えていないミカ。
これでどうして恋愛が破綻することがあり得るでしょうか! ミカには文字通り、
わたししか見えていないのです!
おまけに、わたしの母は、過激なくらいにわたしたちを応援していました。過
激なくらいという意味は……
「ミカちゃんとコトがあって、あんたが妊娠したら、どうなる。ね」「どうなる
って? 困るってこと?」「困らないでしょうよ、ぜんぜん」「ハッ!?」「だか
らァ、あんたがその子を産めば、結婚しなくたって、その時点で数億円の遺産が
約束されるの(ほくほく)。結婚すれば、もちろんもっと確実だけど。いい話で
しょう?」
母の考えは割り切りすぎですが、理由はともあれ、親が交際に反対せず、むし
ろ応援してくれるのは、ありがたいことです。まんいち朝帰りしたって、たいし
て怒られないだろうという情勢でした。なにしろ、冗談なのか本気なのか「一発
3億円だよ。頑張って」と背中をたたく母なのです。
十六で妊娠、十七でわたしを産んだ未婚の母なので、もともと既成のモラルに
とらわれないのでしょう。それに、前にもちょっと触れたことですが、母は体が
少し不自由で、左の耳がまったく聞こえないのです。そのことで職場にいづらく
なったり就職で差別を受けたりして、おかげで母とわたしは経済的に不自由な思
いをしてきました。母がわたしに「できることなら裕福な暮らしをしてほしい」
と願うのも、単なる欲得ずくではなく、さんざん苦汁をなめ不如意のつらさを身
をもって知った上でのことだったのです。
母との会話のなかで、ひとつ意外な事実が明らかになりました。わたしはそれ
までずっと、リーサをミカのお姉さんと思っていたのですが、そうではなかった
のです。北原リーサというのは通称。本名はリーサ・トゥーリネンといって、ミ
カのいとこなのだそうです。もともとはミカのベビーシッターとして日本に来た
とか。どうりでミカとあまり似てないわけです。
このことを知ったとき、真っ先に感じたのは嫉妬でした。きょうだいでもない
のに、同居して、ふたりきりで暮らしているなんて……。ぜったい許せません。
リーサは実質的にはミカの姉です。そのことは自分の目で見てよく知っていま
した。ふたりのあいだに恋愛感情など存在しないことも。リーサは、たしかヤー
コッピとかいう既婚男性を今でも好きなのです。でも、そういうことをみな知っ
ていても、やっぱりくやしいと思ってしまった。これも、女の直感だったのでし
ょうか……
あの雪の午後以来、土曜の午後はミカといっしょに過ごすようになりました。
ミカをわたしの部屋に呼んだのです。わたしがミカの部屋に行っても良かったの
ですが、あちらにはリーサがいます。わたしの家でなら、ふたりきりになれまし
た。母は病院で働いていて、土曜の午後はたいてい不在だったからです。
わたしと母の住んでいるアパートは、木造二階だて・築二十年という年代モノ
です。母がきれい好きなので隅々まで掃除が行き届き、清潔は清潔でしたが、や
はり古くて貧しげでした。でも、ミカのほうでは、そんなことは気にも留めませ
ん。室内の様子はそれなりに目に入っているのでしょうが、彼はそこから「貧し
げ」といった意味を見いだすことができないのです。ときには本当に目に入って
いるのかどうかさえ疑わしくなります。だって、いつも同じところで敷居につま
ずくんです。母の籐椅子にぶつかりそうになったり。目がキラキラして、いつも
半分、夢遊病のようなミカ。
彼の感覚はユニークです。初めて畳を踏んだときには、なんともいえない奇妙
な表情でおそるおそる足を上げ下げして、
「ぶよぶよしてる。森みたい」
と、いいました。壁を走るゴキブリを見たときなど、目を皿のように見ひらい
て、なかば裏返った声で、
「なんですか、あの虫!? 黒くて、大きくて……ハ、はやい」
嬉しそうに叫んだものです。
わたしたちがうんざりするほど見飽きたゴキブリも、妖精の国フィンランドか
ら来たミカには、新鮮で珍しくトロピカル≠ネのでした。
ベッドの端に並んで腰をおろしました。キスして、というと、彼はほっぺにチ
ュッとかわいいキスをしてくれます。わたしも同じようにやり返しました。そん
なことを続けるうち、わたしは、いとも簡単に、
「ここにして。ここに」
と、甘えながら、唇を指さすこともできたのです。
ミカは今までと同じ調子で無邪気にキスをしてくれましたが、でも、そのあと
はもう完全に無邪気ではありませんでした。彼は少し男の子になったのです。
わたしは彼を抱きしめました。彼も、自分からわたしを抱きしめました。そん
なとき、彼はよく、真冬に人がするように、身震いしていました。雪のなかでも
震えなかった彼が、わたしの腕のなかで震えていたのです。歯がぶつかってカチ
カチ鳴りました。そんなに震えたら、不安定になって、ベッドの上に倒れこんで
しまいます。体じゅうが熱くうるおってゆくのを感じながら、うっとりと目を閉
じていました。
「いつまでも、こうしていたい……。愛してるっていって」
わたしはささやきました。
「愛してる」
ミカはそういって、そして、わたしをきつく抱きしめたのです。
それは自然に起こりました。自然のなりゆきなのです。けっこう重要なポイン
トだとは思うのですが、詳しい経過はよく覚えていません。気がつくと、ミカは
わたしの胸にキスしていました。本当とは思えないほど、いい気持ちでした。ち
ょっとせつなくて、甘ずっぱくて、気恥ずかしくて。ミカは羽根のように軽い、
と思ったのを覚えています。
こういうことは、いちど起こると次回にはもっと容易に起こるものです。しか
も、回を追うごとに、少しずつ「進む」傾向があります。この点は、改めて説明
するまでもないでしょう。
いつも変な服の脱ぎ方をしていました。ブラウスのボタンを2つか3つだけミ
カが外します。わたしは「ちょっと待ってね」と優しくいって、あとは自分で脱
ぎました。自分で脱ぎ始めることは恥ずかしかったし、ミカにぜんぶ脱がせても
らうのも恥ずかしかったのです。彼が脱がせやすいようにベッドの上で背中を浮
かせたりしている自分を想像すると、醜悪というか、恥ずかしいというか、とに
かくイヤで。自分で脱ぐ方がかえって恥ずかしくなかったのです。それに、ブラ
ウスがベッドのなかのどこかに入りこんでしまってくちゃくちゃになっては困り
ますし、緊急の場合にはすぐに服が着れるよう、衣服はきちんと整えて、順序よ
く椅子の背にかけておきたかったのです。
無邪気におしゃべりしているときのミカと、ベッドの上の彼は、なんだか違う
人のようでした。いつものミカは無性的な、小妖精のような子ですが、ベッドの
上の彼は、男の子、それも臆病な、うぶで不器用な男の子でした。わたしはどち
らかというとそんな彼の方が好きだったのです。でも、無邪気なミカは本当に無
邪気で、それはそれですてきなのです。ふたりのミカが好きでした。わたしのな
かにもふたりの菜美がいたのです。ふたつの世界で愛しあっていました。
平日の放課後はいっしょに散歩、土曜の午後には部屋でデート。そんな楽しい
日々が続いていました。毎日がミカ、ミカ、ミカ……さぞかし学校の勉強がおろ
そかになっただろう、ですって? とんでもありません! むしろその反対です。
毎日、放課後になればミカと会えるというだけで、すべての時間の密度が高まり、
生活はすばらしく充実していました。時間の1分1分が輝いていて、勉強してい
ても楽しいのです。
もともと勉強は好きでした。小学時代には勉強が避難所だったのです。ミカと
つきあい始めてからは、とくに数学に熱が入りました。恋人と共通の話題を増や
したかったから。それに、分からないことがあれば、いつでもミカにきけるので
す。頭のいいボーイフレンドがいれば、勉強もはかどるというもの。
もっとも、ミカの教え方には少々問題がありました。これどうやるの? と尋
ねると、たちどころに答をいってはくれますが、どうしてその答になるのか、そ
こをちゃんと説明できないのです。
例えばこんなぐあい。
「ねー、ミカ、これどうやるの? 『3で割ると1あまり、5で割ると2あまり、
7で割ると3あまる、最小の自然数を求めよ』」
そう尋ねるとします。するとミカは一、二秒考えてから、
「52」
と、いきなり最終結果をいうのです。
「なんで52って分かるの」
「だって52は、3で割ると1あまって、5で割ると2あまって、7で割ると3あ
まる」
たしかにその通りです。でも、どこからその52という数が出てきたのでしょう?
ミカはすぐに「明らかに」といいますが、わたしにはちっとも明らかではあり
ません。
詳しく尋ねると、中学生には理解できないような複雑な数式を書きます。最小
の自然数どころか、条件を満たすすべての整数を一挙に求めてしまう方程式らし
いのですが、わたしにはとてもついて行けません。
英語の先生としては、ミカは最高でした。耳元で何度でも正しい発音を示して
くれますし、英語で話しかければ英語で答えてくれるのです。学校で習うアメリ
カ英語とは響きの違う、品のいいイギリス風の発音でした。恋人の声でなら、教
科書のリーディングだって、甘美に耳に残るのです。しいて欠点を挙げれば、ミ
カの場合、英語でも「わたし」と「あなた」が混乱すること……。でも、この点
は、前ほどひどくはなくなってきていました。昔は「アイ」とか「ユウ」とかい
うのは人の名前だと思っていたようですが。
中2から中3にかけての春休みは、こんな具合に、毎日ミカの個人授業を受け
ました。それからキスしたり、ベッドでじゃれあったり……。この最後の点につ
いていうと、わたしはいつでもその気になっていたのですが、当時、ミカにでき
ることは「胸まで」でした。オクテだったのです。年下の十三歳ですから、無理
もないことかもしれません。そんなうぶなミカが、かえっていとおしいような気
もして。
4月が来て、わたしは中3になりました。受験生という新しいステータスも、
初めはむしろ新鮮で、張りつめていて、わくわくと楽しいものでした。
春休み中の日曜日に、梨屋敷に招待されました。イースターでした。ほんの少
し緊張を感じました。ボーイフレンドの両親に会いに行くような気分。といって
も、実際には屋敷にいるのはミカのお姉さん(本当はいとこ)のリーサさんだけ
ですし、彼女とは前に何度もおしゃべりしたことがあります。緊張する必要など
全然なかったのです。
ミカとリーサは、古代ギリシャの貫頭衣のようなボートネックの綿の服を着て
いて、それがとてもすてきでした。テーブルの上には、白いフリージアと黄色い
水仙が、たくさん飾ってありました。
復活祭には、キリストの復活を祝うという意味に加えて、春分を過ぎて昼が夜
をしのぐ祝い(光の復活)、そして木の芽どきの祝い(生命の復活)という意味
もあるのだそうです。卵の形のチョコレートを贈りあったりするのも、卵=新し
い生命の象徴、ということでしょう。イースターを祝う清らかな賛美歌が歌われ
ました。それから、リーサさんが、福音書を朗読しました。静かな、染み透るよ
うな声で。
――あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の
時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
――結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者
もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる
人は受け入れなさい。
ミカとリーサはおごそかに「アーメン」と声をあわせます。
神秘的なムードでした。日本のような無宗教の国で育ったわたしは、ただただ
「ふしぎな感じ」と思ってしまいます。キリスト教国で生まれ育ち、学校にも宗
教の授業がある彼らにとっては、わたしたちがひな祭りに甘酒を飲んだりする程
度の、ごく当たり前の感覚なのでしょうか?
木のトレイに乗せて、オープンサンドが出されました。フランスパンを斜めに
輪切りにしたような形のライ麦パンに、チーズやトマトやレタスが乗っている…
…。ただそれだけで、見た目はずいぶんシンプルです。でも、食べてみると、こ
れがまあ、この世のものとも思えぬおいしさで、びっくり仰天。レタスの味など、
本当に目が覚めるようです。そのときまでずっと、レタスというのは独特の苦み
があるものだと思っていたのですが、この屋敷のレタスは、まるでおいしい水で
作ったかき氷のように、ひたすら澄みきっているのです。ほのかな甘みすらあり
ます。買い物を手伝っていたので、梨屋敷では特別な店で売っている無農薬の野
菜ばかり使っていることはよく知ってましたし、無農薬なら体にいいのだろうと
は思っていましたが、食べてみると味もまるで違います。グルメ漫画だったら、
「こ、これは」と、目玉がどアップになって、そこに集中線がびしばし集まる、
まさにそんな衝撃でした。
ライ麦パンがまた、口のなかでさっくり溶ける香ばしさに、独特の甘ずっぱい
風味があって、これがなんとも……。チーズはまるい塊からその場で切り取って
使うのですが(フライ返しに小さな長方形の穴があいたような道具で薄く剥ぐ)、
その柔らかな舌ざわりときたら、ふつうに売っている四角いチーズとは天地の差。
錆びた釘とふわふわの羽毛。そのくらい違う。そしてまた、輪切りになったトマ
トのみずみずしい味! これはちょっと言葉では言い表わせないくらいです。
コーヒーも、ほどよい酸味があって、目の覚めるような味でした。といっても、
これは特に本格的にいれたものではありません。前にも書いたように、この家で
は、ドリッパーを直接カップの上に乗せて、そこにお湯をそそいでコーヒーをい
れるのです。この機会に尋ねてみたら、コーヒーメーカーやサイフォンだと中に
つく茶シブや水アカをきれいに落とすのが難しいので、それでこんな原始的ない
れ方をしているのだそう。たしかに陶器のドリッパーなら、茶碗といっしょに簡
単に漂白できます。やかんを使わずミルクパンでお湯を沸かすのも、同じ理由か
らでした。やかんは中を完全に洗うのが難しいのです。
そんな話を聞いてよくよく味わってみると、ここのコーヒーには、今までコー
ヒーの味の一部だと思いこんでいたエグい渋みがありません。なんともすっきり
とした、まっすぐな味。炒りたて挽きたての豆のなまめかしい香り。ドリッパー
にお湯をそそぐと、コーヒーの粉がまるでカルメ焼きのようにふくれます。飲み
終わったあとに口のなかが変にねばつくこともなく、おいしい水を飲んだあとと
まったく変わりません。こんな原始的なやり方のほうが、あんがい複雑な道具を
生半可に使うよりいいのかもしれませんね。シンプル&ビューティフル。
食後に、マッミという、冷たいデザートが出されました。ライ麦とオレンジピ
ールのプディングです。糖みつが加えてあり、冷たくして、砂糖やミルクをかけ
て食べます。フィンランドでは、イースターにはこれを食べるのだそう。日本で
いえば、正月のお雑煮のようなものでしょうか。ライ麦のひなびた風味にオレン
ジピールのかすかな苦みが心地よく、上品な甘さの典雅な味です。
「菜美さんは、ミカと結婚するの?」
リーサはさらりと尋ねました。初夏の風のようなさわやかな声で。
「できたらいいって思ってます」
わたしは正直に答えました。
「ミカが好き?」
リーサは灰色がかった瞳に優しい笑みを浮かべて、わたしの顔を見つめます。
「え……ええ」
うなずいて、それから、急に恥ずかしくなって、うつむきました。ほほがヒリ
ヒリとして、真っ赤になっているのが自分で分かりました。
「そしたら、わたしたち、姉妹ね」
リーサはにっこり笑います。
あまりの幸せに息もつまるほどでした。
「でもミカは大変だから、菜美さんが愛想をつかしちゃうかもしれない。物質ア
レルギーだから家事なんかさせると、すぐに指の皮がむけちゃうし」
「炊事用のゴム手袋を使わないんですか?」
「手袋をすると、手袋にかぶれちゃう」
「まあ」
「本当に困った子。物質アレルギーだから、ひどいときには自分の体にアレルギ
ーを起こすの。食べ物の好き嫌いも激しいし」
「初めてのデートのとき、サンドイッチを作って持っていったんですけど、食べ
てもらえなかった。バターが塗ってあったから……」
「ミカは動物性のものは食べないの。わたしもベジタリアンだけれど、チーズや
ミルクは平気。バターや卵も。でも、ミカはそういうのもだめ。動物性のものが
ちょっとでも入っていると、いやがる」
「宗教的な理由なんですか」
「単に嫌いなの。偏食。わたしもそうなんです」
リーサとミカがベジタリアンであることは聞いていましたし、自分でも、買い
物を手伝っていて気づいていました。だからあのときも、野菜サンドや卵サンド
を用意したのです。それなのに、ミカはふつうのベジタリアンよりもっと厳格な
ビガンと呼ばれる人種だったのです。このときも、ミカはチーズやプディングに
は手をつけず、パンやりんごのスープを食べていました。
「だからミカの体は、純植物性」リーサは笑っていいました。「手も足も胴体も、
元をただせば植物でできている。もっと元をただせば光でできてる子」
「だから、あんなに透きとおっているのかしら。目がキラキラして。リーサさん
も……宝石みたいに目がキラキラ」
わたしは彼女の澄んだ目を見つめました。
リーサはぎこちない笑みを浮かべ、内気そうに目を伏せました。他人と目があ
うのが苦手なのです。「それはたぶん、ベリーの食べすぎのせい……。ブルーベ
リーなんかには、目の輝きの成分がいっぱい入ってるんです。あんまり食べすぎ
はいけないんですよ。でも、フィンランド人はベリーに目がない」リーサは急に
いたずらっぽい表情になって、自分の上唇をペロッとなめました。他人と視線を
あわせていないときは、リーサはおちゃめになるようです。「まずなんといって
もクラウドベリー。それからクランベリー。ビルベリーにグズベリー。ハックル
ベリー。ストロベリー。そのほかいろいろ。フィンランド語でしかいえないベリ
ーがいっぱいある。みんな味が違うんですよ。ジャムにしたり、ゼリーに入れた
り、ジュースにしたり。ヨーグルトにも入れるし、お酒も作っちゃう。それにい
ろんなベリーのパイ」
「うわぁ、おいしそう」
「菜美さんも毎日、食べるようになるかもよ。ミカと結婚したら」
冷やかすようにそういわれ、また頬がほてるのを感じました。
「そう、フィンランド人は、もともとちょっと食習慣がヘンですね。若い女性は
たいてい、ひどくやせている」リーサは鼻の頭にしわを寄せました。「全員が少
し偏食というか、拒食症みたい。夢をみすぎるんですね。冬が長いし、冬になる
と一日中、夜になってしまうから。サンタクロースとムーミンの国。子供はトロ
ールを当たり前に信じている。大人の世界だって、サンタクロースが公務員だし。
世界中の子供がサンタクロースに手紙を書くから、返事を出すんです。空にはオ
ーロラが揺れて……すべてが透明に凍りついてしまう。流れる虹のようなダイヤ
モンドダスト……空気がきらきら輝いて。小さな小さな氷の粒が空気のなかで触
れあって、なにかなにか音がするんですね。沈黙よりも静かな音……でも、そう
やって夢をみすぎるせいで、食事をちゃんとしなかったり、アル中になったり、
対人恐怖になったりするのは困ったことです」
「そんな夢のような世界に住んでいると、現実の人間社会のいろいろなことが、
苦手になってしまうんでしょうね」
「わたしもそう。臆病で、人見知りする。人と話すのが怖いし、外出も嫌い」リ
ーサは微苦笑しました。あわい灰色の瞳をいっそうあわくして。「それに、言葉
のせいもあると思います。フィンランド語では彼≠ニ彼女≠フ区別ができな
いんです。いつも性別を区別しない言葉を話してる。そのことが思春期に微妙に
影響すると思いますね。あんまり、男らしく、女らしく、なろうとしない。それ
は成長拒否や拒食につながる。フィンランドでは国会議員も男女半々くらいなん
ですけど、これも国語に彼と彼女の区別がないからかもしれません。女性の参政
権も世界でいちばん早いんです」
「なんだかふしぎな話ですね。そういう区別がないってことは、フィンランド人
の頭のなかには彼≠ニ彼女≠チていう概念もないんですよね?」
「そう。だから、わたしたちからみると、彼≠ニ彼女≠区別するっていう
のはふしぎなこと」リーサは謎のようにほほ笑みました。寂しいような、嬉しい
ような、形容不可能な表情で。それからまた口調を変えて、「ミカとフィンラン
ドに住むのなら、菜美さんも覚えたほうがいいかもしれないですね、フィンラン
ド語は。わたしたちは日本に7年だけいる。サバティカル・リーブという制度で、
7年目に北原は長い休暇をもらえるんですから、そうしたら、わたしたちはたぶ
ん、フィンランドに戻ることになります。だから菜美さんがミカと結婚するとし
たら、ミカが日本に帰化するか、菜美さんがこっちに来るか、決めなければいけ
ない」
この話はちょっとショックでした。ミカもリーサも、3年後の一九九七年には
フィンランドに戻るのだそうです。3年後といえばわたしはまだ十七歳、高3で
す。いったいどうなるのでしょう。
ミカはいま、日本とフィンランドのふたつの国籍を持っているのでそうです。
同時にふたつの国に属しているのです。どちらの国民になるか、二十二歳までは
選択を留保できるのだそう。できればミカには日本人になってもらって、いっし
ょに日本に住みたいと思いました。でも、わたしがふしぎなふしぎなフィンラン
ド語を学んで、彼らの国へ行ってもいいのです。外国で暮らすなんて、きっとす
てきでしょうね……
夕方、ミカはわたしを家まで送ってくれました。日中はさんざん風の吹いた日
ですが、夕暮れになってようやく風がおさまり、静かなたそがれどきでした。昼
間の強風で空気中の塵が一掃されたのでしょう、空が澄み渡っています。光はあ
るけれど影のない、たそがれのふしぎな時間。北欧では、この魔法がかかったよ
うな時間が何時間も続くのだそうです。日本では、たそがれといえば日没後半時
間くらいの束の間の時間ですが、高緯度だと、太陽の沈む角度の関係で、真夜中
になってもたそがれが続き、夕焼けがそのまま朝焼けになったりするのだそう。
そんな話をみちみちミカに聞きながら、ますます北欧に憧れてしまうのでした。
遠い白夜の国に。
夜、テレビをつけると、NHKで『ハムレット』をやっていました。イースタ
ーに『ハムレット』というのは、なにか意味があるのでしょうか? ネグリジェ
のような白い柔らかな服を着たオフィーリア。心を病んだ少女のふしぎに清らか
な歌声が、心に残ります。
夏が来ました。
ミカはいま、わたしの部屋にある『大島弓子選集』を1巻から順に読んでいま
す。ちょっとぼんやりとしたところのあるミカですが、書物には強い関心を持っ
ているもよう。日本のマンガが珍しいのでしょう。この選集は、もともと母のも
のでした。母がわたしにくれたのです。母の行動にはいろいろ納得できない点も
ありますが、彼女がかつて大島弓子のファンだったというただそれだけのことで、
わたしは母のことをすべて許していました。高校生の女の子が苦しみ傷つきなが
ら未婚の母となる『誕生』を、かつて母はどんな気持ちで読んだことでしょう…
…。
母はもう大島弓子を読みません。尋ねてみても、フフッと笑うだけです。わた
しが母のあとを継いで大島弓子のファンになりました。だって、すてきなんです。
仔猫を少女の姿に描いた『綿の国星』は、ふわふわとした甘くさみしい物語です
し、『バナナブレッドのプディング』というふしぎな作品にも心ひかれていまし
た。「今日はあしたの前日だから、だから怖くて仕方ないんですわ……」という、
意味不明の、でも妙に心にひっかかるせりふから始まる、美しくも難解な物語で
す。
リリカルな少女マンガもいいのですが、わたしとしては、ミカにもっと男らし
くなってもらいたいと思っていました。もう少し正確にいうと、彼には充分な性
の知識がないのではないかと心配していたのです。わたしの胸を愛撫してくれて
も、そのあとどうすればいいのか分からないもよう……。そんなわけで、彼がマ
ンガに興味を持ったのをいいことに、どさくさにまぎれて、彼に貸す本のなかに
『麦ちゃんのヰタ・セクスアリス』というマンガを混ぜておきました。思春期の
少年の性を赤裸々に描いた話なのです。効果はあったようです。ベッドの上のじ
ゃれあいのなかで、彼はとうとう、自分からわたしの下着を脱がせたのです。あ
っ、と思いました。とうとうこの時が来たんだ、こんなふうに突然その時は来る
ものなんだ。でも予期したこと。ずっと待ち望んでいたこと。かすかな恐怖と緊
張と、下半身がスースーする心もとなさ、いろいろな意味の不安、そして大きな
喜びをかみしめました。意識は妙に冷めていて、事態を冷静に観察しています。
そのくせ、何が進行しているのかよく分からないような、微量の非現実感もあり
ました。
でも、ミカは、結局、途中でやめてしまったのです。脱がせて、その部分に触
れ、わたしは身をくねらせ、声を上げさえしたのですが、ミカは不意に凍りつい
たようになってしまって。
「ぼくが殺サレテしまう」
そんな混乱したつぶやきが聞こえました。ミカが自分からぼくという言葉を使
うのは、これが初めてでした。わたしは当惑しつつ目をひらき、そして、見たの
です。麻痺したような彼の表情――虚ろに見ひらかれた、その瞳を。
それは、ちょうど1年前の夏の日、無理やり有馬にディープキスをされそうに
なったときのわたしにそっくりでした。あのとき学校のトイレの鏡のなかで見た、
おびえた目をした少女。その姿が、わたしの目の前に再現していたのです。
彼は自分におびえていたのでしょう。そして恐怖を感じていたのでしょう。わ
たしの体の誘惑に。誘惑されそうな自分自身に。自分をつき動かそうとする衝動
に。
わたしには、まるでテレパシーのように、彼の気持ちが分かるのでした。彼が
恐れたのは、それが恐ろしかったからではなく、それを自分が望んでいたからな
のです。彼が恐れたのは、わたしの体ではなく、自分の体だったのです。
たぶん、コトを急ぎすぎたのかもしれません。まだ十三歳の彼を早熟な自分に
無理やりついてこさせようとしていたのだから。ほんの少しふくらみかけたつぼ
み。ほうっておけばひらくものも、無理にこじあけようとすると、こわれたり、
固く身を閉ざしてしまいます。とはいえ、ここまで来れば、あとは結局、時間の
問題でしょう。いちど脱がせることをしたからには、これからもするでしょうし、
この次にはきっともっと勇気を出すでしょう。今日のうちにも「この次には」と
決意を固めているかもしれません。それを見越して、彼への手紙の追伸に、
〈PS デモシテホシカッタンダケドナ〉
と、大胆なことすら書いたのです。
ミカからの返事は鉛筆のなぐり書きで、詩のようでした。
ぼくの人形がぼくを飲みこむ
湖に人形が落ちるとき
人形を放さない少女から
羽根をもがない神はない
わたし自身、有馬にいきなり抱きすくめられたときにはすっかり気が動転して
しまい、ヒステリックに笑ったり、意味不明のことを口走ったりしたものです。
ミカを見ていて、1年前の自分を、ふと懐かしく思い返しました。すると、1年
前の自分が、そして今のミカが、にわかにとてもいとおしく思えて。ミカには今
のままでいてほしいような、そんな気さえしたのです。勇気の出ないナイーブな
少年のままで。
by mion, webmaster@faireal.104.net