フェアリーランド
おいしい魚
実際、そのとき以来、ミカはかえってわたしを避けるようになってしまったよ
うでした。そんな彼のういういしいばかりのナイーブさをいとおしく思いつつ、
他方では、彼の優柔不断さが、いとわしくも思えました。いとおしく、いとわし
いミカ。
思い切って打ち明けてみました。有馬にキスされたことを。わたしがほかの男
とキスしたと知れば、ミカも少しは燃えるのではないかと思って。それとも、わ
たしを嫌いになるでしょうか。ちょっと危険な賭けでした。微量の劇薬。女の手
管。
結果はあっけないものです。ミカは気にも留めません。恋人がかつてほかの男
性とキスしたとしても、気にならないのでしょうか。なんだか拍子抜けして、か
えって悲しくなってしまいます。
――ライ麦畑をよぎるとき、だれかさんがだれかさんにキスしたとして、だれ
かさんは泣く必要がないのでしょうか?……
ミカの態度は、まるで天使のように寛大でした。でも、ちょっとは怒ってほし
かった。不愉快そうにまゆをひそめてほしかった。少しも嫉妬してくれないだな
んて。もしかして、本当はあまりわたしのことを好きではないんじゃないかって、
疑ってしまいます。わたしを抱いてくれないのも、本当は好きではないからなの?
彼の愛を確かめたい。早く確かなしるしがほしい。そんな思いがつのってゆき
ます。
そんなこんなで気が散って、勉強にも集中できません。受験生なのに。もう夏
休みなのに。
〈いろんなことが不安で、欲求不満で……手がつけられないくらい混乱してたの
かな。ただ泣いてた〉
〈どうしても勉強に身が入らない。自分自身にイラついている。みんな欲求不満
のせいだ。ミカ、落ち着かせてよ。お願い……〉
〈今、すっごい性欲がある。ねえ、抱いてよ。抱きたいんでしょう? ミカがし
てくれないと、有馬に頼んじゃうよ!〉
〈わたし、ミカの赤ちゃんを産みたい〉
次々と、そんな手紙を書き送りました。1通ごとに強気になったり弱気になっ
たり。なんてふしだらな手紙だろう。みだらで、あさましい。そう思われるかも
しれませんね。たしかにこの時期のわたしは変でした。高校生になってからの方
がかえって清純だったくらい。受験生であることのストレス、ふたりのミカ
に対する複雑な愛情、思春期の心と体の微妙なバランス、そういったものが心の
なかで、もつれた毛糸のようにからまりあって、こんがらかっていたのです。性
的な欲求があったことは事実です。ふしだらだろうがなかろうが、事実なのだか
ら仕方ありません。早熟で、若い健康な体だったのですから。ボーイフレンドに
宛てた手紙に、ゆるぎなく「いま、性欲があるの。あなたに抱かれたいの」とし
たためる十四歳の女の子。これもまた、ひとつの純粋の極みだったような気がし
ます。
ミカの返事は、いつも心優しいものでした。
〈カム・フェアリ 一九九四年八月三十一日
いとしい菜美 No.150
お手紙、拝見しました。
あなたが率直であるように、ぼくも率直に書いてみます。
ぼくの体に、それ固有の欲求があるのは事実です。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです」
ローマ書のなかのパウロの言葉です。
そのように、ぼくは自分の体とくるしい戦いを戦っています。手がぼくを裏切
ろうとするからです。ぼくはそんなことをしたくないのに、ぼくの体はそれを望
みます。
たぶん、ぼくは少し頭がおかしいのです。自分が自分の体に支配され、飲みこ
まれ、殺されてしまいそうな気がします。不安なのです。今はまだ「ミカ」でい
られる。でも、あしたにはこの「ミカ」の気持ちはなくなっているかもしれない。
自分が自分でなくなって、なりたくないものになってしまっているかもしれない。
いとしい人。いずれにしても、いまぼくたちが深みにはまることは、ふさわし
くありません。あなたは受験生なのです。人生のゆくえを左右するやもしれぬ重
要な時期を、肉体の欲望のとりこになって棒に振るべきではありません。あなた
は「どうせミカのお嫁さんになるんだから、高校なんてどうでもいい気がする」
と書いていますが、本当にそうなのでしょうか?
いいえ、菜美。あなたの人生は、あなたのためにあるのです。ミカのためにで
はありません。今はあなた自身を磨くべきです。受験のための勉強なんてつまら
ないと思うかもしれないけれど、記憶を強いられる個々の事項はつまらないとし
ても、理科や社会科の考え方や問題意識に触れるのは、とても良いことです。あ
なたの発想やセンスを、多様で豊かなものにしてくれるからです。ぼくが家庭教
師たちから学んだこともそれでした。
数学の美しさは詩のそれに似ています。必要最小限の研ぎすまされた言葉で真
実を語るから。平方剰余の相互法則や、オイラーの定理は、この世の最も奥深い
神秘を暗示しているのです。
With all the love in me,
who am in your love.
北原ミカ〉
この手紙をもらったときには、ミカが恋人で良かったって、しんそこ思いまし
た。彼は本当にわたしのことを考えてくれている。真剣に考えてくれている。そ
んな気がしたのです。
ミカはあまり会ってくれなくなりました。そのほうがお互いのためだから、受
験が終わるまでは、といって。たしかにその通りでした。だって、体がそばにあ
ると、自然のなりゆきとして引かれあってしまう。キスしたくなってしまう。キ
スすればそのまま抱きしめたくなる。そして……。この点は、改めて説明するま
でもないでしょう。
わたしもミカのように清らかになりたい。清らかでいたい。今は勉強に気持ち
を集中させて。よ〜し。こうなったら、脳がはれつするほど勉強してやる。ミカ
の手紙で心機一転、勇気りんりん桃の色。朝の7時から夜中の3時まで、それこ
そ睡眠4時間で勉強したものです。
体を酷使して、くたくたになって、なにも考えずに眠れるようになりたかった
のです。
2学期が始まりました。わたしは休み時間も勉強です。最高水準問題集という、
その名もすごい赤表紙の問題集とにらめっこ。
「とんとん。おベンキィ?」
声がして、顔をあげると、有馬猛でした。「じゃん。ベンキを大切にね」
「なにいってんの」わたしは思わず吹き出しました。「汚いこといわないでくれ
る」
「どこがキタネーんだよ。『おベンキィ?』ってのは『おい、勉強、はかどって
る? 元気?』の短縮形だぞ。受験生は時間が貴重だから、あいさつも短縮形で
済ますんだよ」
「じゃあ『ベンキを大切にね』っていうのは? 『勉強もいいけど、体を大切
に』?」
「マッソノ通り。ナッちゃん、するどい! 堕天使同士、以心伝心」
「あたしはもう堕天使じゃないって言ってるでしょ。……ふゎー眠ぅい」
わたしは有馬の目の前で、恥ずかしげもなく大あくびをしました。ミカの前で
はけっこう気を使って上品にしていますが、有馬はどーでもいいやつなので、有
馬の前だとテキトー。彼とは中3からクラスが別々になって、顔を見るのも久し
ぶりでした。いったいなんの用だろ?
「どう? 最近、ミカとはうまく行ってんの?」
「行ってるよ。彼はとっても優しいの」
わたしはほほ笑んでみせました。「妬けるでしょう?」
「フン。だけど、そのわりには、なんか憂鬱そうで、ピリピリしてだぞ、さっき
の雰囲気は」
「受験生だもん、そりゃー。ウーン」わたしはバンザイポーズで、そり返るよう
に大きく伸びをしました。首のうしろの、ラクダのコブのような骨のでっぱりを
指でもみほぐしながら、目を細くして黒板の端の字を声に出して読みあげます。
「都立あと一一八日、か」毎日、カウントダウンされる数字。「毎日1教科1時
間として……ヒエー、あと一一八時間しか勉強できないの、英語も数学も? イ
コール五日じゃん」
「春川さ」有馬は、けわしい表情でわたしを見ました。「おまえ、都立?」
「え、あたし? あたしは……」
わたしは私立A高の特待生を目指していました。このあたりではいちばんいい
学校。特待なら入学金・授業料もタダになります。どうせやるなら徹底的に。い
いとこ入って、ミカにふさわしい知的な女になってやるぜぃ。と、考えて決めた
志望校でした。まあ、有馬になら教えてもいいか。
「一応、本命はA高の特待……。ぜんぜん自信ないけど」
小さな声でそう告げると、瞬間、有馬の顔がまぶしいほどに輝きました。
「オッ。おれとオンナシだ」
「なに、有馬もA高?」わたしもつられて、浮きたつ声でいいました。「ふうん。
そうか。有馬ならやっぱA高かもね。けっこう自由な校風だってゆーし。有馬な
ら頭いいから一発じゃん」
有馬猛は中1・中2・中3と、ダントツ学年トップの成績を維持していました。
五百点満点で四九二を取ったことさえあります。わたしも学年十位くらいには入
っていましたが、かなり波があって、調子が良かったり悪かったり。
「だけどさ。おれ、内申、最悪かもしんねーしな」
「大丈夫だよ〜それは。うちの中学だって、A高にひとりでも多く入れたいって
思ってんだから」
「――煙草、吸ったしなぁ。まー、どーでもいいけどね。今さら、もう、仕方ね
ーってやつで。……ミカって、高校いかないの、ところで。話、違うけど」
「ミカはまだ学年でいうと中2。それに学校いってないもん」
「なに、そいつ、きょひってるわけ?」
「違うよォ。あ……そうなのかなぁ?? 前は行ってたらしいけど。二重国籍だ
から日本の学校に行く義務はないのかなぁ。うーん。よく分からん。でも、ミカ
にはそもそも学校の授業なんて必要ないよ。8歳か9歳かで数学の新しい定理を
発見して、ミカ・キタハラの定理って名前がついてるくらいだし。英語なんて、
うちの大隅(教科主任)よりペラペラだよ」
「ナニソレ、まじ? 超すげーじゃん。それ。それで、学校なんて行ってらんな
いって? カックイー。憧れちゃうな」
「有馬とミカが会って話したら、おもしろいかもね……ミカは音楽の才能もある
みたいだし」
「おお。会いてえな、まじで。いちど。そして決闘を申しこむ」
「やー。やめてよ。じゃあ、会わせなぁい」
わたしは語尾の甘い声でいいました。
「だけどさぁ。そんなことより。さしあたっての問題は。内申が心配だよ、おれ」
「有馬らしくねーぞ。内申でビビるなんて」
「おまえ、知ってんだろ。おれ、ホントはけっこう小心者なんだよ。おとめ座だ
しさ」
「だったら煙草なんて吸うなよ」
「ああ。もうやめたよ。Stop smoking。Stop to smoke だと意味が変わるんだよ
な」
「煙草を吸うために立ち止まる、でしょ」
「……柔らかいものを保つには、堅い殻がぜったい必要なんだよ。生きてくには
さ」
「あのさー。聞くけどさー。前、先輩にフクロにされたとき、相手をかばったり
したじゃん、有馬。連中の内申に響くからとかいって。あれって、結局、自分が
スネに傷もつ身だからっていう、犯罪者同士のかばいあいだったわけ?」
「お。鋭い分析だなぁ。それ。けどハッキリいって、そういう意識は、なかった
な。無意識ならあったかもしんねーけどね。フン。どうかな。無意識ってやつは、
自分じゃ分かんねーから無意識なんだよな。フロイトへのフライト。イドの古井
戸……」
「また、わけの分からんことを」
「♪イドのまわりで、お茶碗かいたの、だあれ?」
有馬は突然そう歌いながら、なんのつもりか、わたしの目の前で指をくるくる
回します。あたしはトンボかよ? それから、その指先でわたしの机をコツコツ
打ちながら、ラップのリズムで、
「♪だれが殺したクックロビン!
ア、そりゃあたし
あたしが殺した自分自身!
ア、過去のあたしを殺したの
殺した自分に殺されて
鏡のなかの殺人事件
イドのまわりでドンジャラホイ
リビドの花咲くおとめたち」
口から出まかせを、まあ、次から次へとよく並べるものです。天
才というか、それと紙一重のほうというか……。
「いい加減にやめとき」
わたしは笑って有馬を見上げました。「もう鐘なるよ。戻ったら? 内申かせ
ぎたいんでしょ」
「ああ。おれは小心者のお調子者さ。……ミカによろしく」
十一月が来て、わたしは十五になりました。受験を控え、ゆらゆらと揺れる日
々。
不安→安穏→のん気→気がかり→かりかりしたり、笑ったり……。このごろ、
1分先は分からない。なにが起こるか分からない。と、つねにそう思ってしまい
ます。今日はあしたの前日だから、だから怖くて仕方ない、か。
受験が近づくにつれて、かえって勉強時間が減ってしまいました。なんだか集
中できなくて。
ゲームはハマるからやらない。ゲーセン、カラオケはもう行かない。息抜きは
マンガとテレビ。お金をかけずに、ひとりでひっそり。それがいちばん気分みた
い。『りぼん』に連載中の岡田あーみんのギャグマンガ『ルナティック雑技団』
を読み返して爆笑したり。
――学校なんてやめちゃって
デカダン酔いしれ
暮らさないか
──白い壁に「堕天使」って書いて!?
キヒヒヒヒ、これ、おっかしー。この受け答えが笑えるよ。白い壁に、って限
定してるところが、フンイキだなぁ。
おなかが痛くなるほど笑いころげて。
それから、ふいに、長いため息がもれます。
ハ〜
なんで、こんなにむなしんだろ?
涙まで出てきてしまいます。
――どうして、泣かなきゃいけないの。優しい恋人がいるのに。なにが、そん
なに悲しいの?
ミカと会いたいな。
会っておしゃべりしたい。
手紙だけじゃもの足りなくって。それなのに、ミカはあたしを避けてるみたい。
本当に、あたしが受験だからって、それで会うのをやめたの? 本当にそれだけ?
すかすかスイカのタネみたい。心に散らばる黒い不安の粒々。すかすかの甘さ
のなかに散らばって。あたしをもっとしっかりつかまえといてくれなきゃダメだ
よー。ねー、ミカくん。あたし、なんだか、最近すごくおかしいの。自分が自分
でなくなってしまいそう。
梨屋敷にはリーサさんがいる。天使のような目であたしを見る。それがつらく
って。
??
なにがつらいんだ?
あー、心んなかがぐちゃぐちゃだ……
受験、自信ない……なんか胃の調子も悪いみたい。生理は3か月もないし……。
どうなってんだろ、あたしの体? ぜったい身に覚えないのに(あってほしかっ
たけどね)。産婦人科、行けって。いや〜だなぁ、産婦人科なんて。見せてくだ
さいとか言われんのかなぁ?
もう! ぜんぜん会えないんじゃ、かえって息がつまっちゃうよぅ。ドンドン
(机をたたく)。勉強だって身が入らないし。あ、もう2時じゃん。なにやって
んだろ、あたしったら。直前なのに。
*タメイキ*
理科やんなきゃ。
――梨屋敷のミカ。
(木梨憲武……タケはタケちゃんのタケ)
*タメイキ*
こんなとき、有馬だったらどうすんだろ。こんな気分のとき。
♪音楽を消せ、テレビを消せ、自分自身と向かいあえ……か。
向かいあえばあうほど、こんがらかるよ。あたしは。
なんか、疲れたなぁ。
有馬ならA高、ラクショーだろうなぁ。
ちぇっ。
あたしA高、自信ないよ。
なんか、最近、自分にぜんぜん自信もてなくて。
なんかさぁ。
同じ学校行けないよ、これじゃ。
有馬クン……
受験はさんざんでした。
風邪をこじらせてしまい、頭はぼーっとするわ、鼻水は出るわ。そのうえ5か
月ぶりの生理と重なってしまって、腹がいてーのなんの。
でも、結果はマル。受かったんです。
「あんがいさ、風邪ひかないで頭が冴えてたら、落ちてたんじゃねえの、おまえ」
有馬は笑っていいました。そうかもしれません。苦手な理科は問題を読む気力
さえなく、やぶれかぶれでテキトーに答を選んだら、本人もびっくり、これがけ
っこう当たってて(実話)。有馬が×だったのにわたしが正解だった問題もある
んですよ(そんな正解、ぜんぜん自慢になんないって)。
わたしたちの中学からは8人がA高の特待を受け、3人が合格しました。わた
しと有馬と、それからもうひとり、中2のときに足立区から転校してきた遠藤綾
香ちゃんという子、その3人だけ。望み通りの展開でした。
望んだのは、できるだけわたしを知る人がいない学校。同級生がだれも行かな
い高校。それが遠くのA高を目指したもうひとつの理由だった。これで高校に入
ってしまえば、小学時代のことを知る人は有馬だけになります。せいせいします。
3月のすえ、梨屋敷で、合格のお祝いをしてくれました。
ミカと会うのは久しぶり。中3の夏までは毎日のように会っていたのですが、
それ以降はほんのときたま。手紙はやりとりしましたけど……。最後に会ったの
は受験前の十月でした。
半としぶりに見るミカは、またいちだんとやせたもよう。背はわたしと同じく
らいになっていましたが(一六五センチ)、体重はたったの四十一キロだそう。
太めのわたしから見ると、なんだかうらやましいような……。でも、ちょっとや
せすぎではないでしょうか。
有馬猛もいっしょに招待されました。彼のことは手紙のなかでもたびたび話題
になっていて、同じA高を受験することも知らせてあって。会いたがっているこ
とをそれとなく伝えると、「ぜひ一緒にきてください」との快い返事。
ミカは寛大だね――有馬は笑っていいました。自分の彼女にキスした男を、い
っしょに招待するなんて。
――たしかにね。
――だけど、それだけおまえのことを信じてるんだろうな。
有馬はそう結論づけました。そういわれると、わたしもまんざらでもなくて。
このときミカは十四歳。わたしと有馬は十五歳。だから本当はいけないのです
が、「お祝いだからちょっとだけ」と、フィンランドのお酒も出ました。スィマ
という名のハチミツ酒。本当は五月祭に飲むんだそうです。そして、フィンラン
ド料理のフルコースを堪能したのです。梨屋敷の食事が信じられないほどおいし
いということは前に書きましたが、今回はそれがフルコース!
前菜は、春野菜とハーブのグリーンサラダ。それから、とろりとしたスープが
出ました。小さなじゃがいも、カリフラワー、それに大きなエンドウ豆の入った
野菜スープです。どの野菜も目が覚めるような味で、とくにエンドウ豆は、さっ
くりとして、まるでぶどうのようなみずみずしい風味があるのです。北海道のじ
ゃがいもはおいしいけれど、それよりさらにずっと北にあるフィンランドのじゃ
がいもは、いっそう小振りで身が引き締まっています。パンは、いつでも取れる
ように、スライスしたライ麦パンがテーブルの中央に積んでありました。
メインディッシュは魚料理。湖でとれるムイックという白魚を庭で直火焼きに
したものです。薪はサクラの木の枝で、ひどく煙が出ますが、魚は自然と軽くス
モークされます。引っこみがちでめったに外出などしないリーサさんですが、意
外なことに、こういうアウトドア的なことにはとても手慣れているのです。これ
も文化の違いでしょうか。「ノイン(あらよ)」などといいながら、手ぎわよく
魚をひっくり返し、ナイフを使って骨の除去作業まで上手にやってのけます。焼
きあがった魚の白身はほくほくとして、銀杏の香ばしさにも似た煙の風味≠ェ
実になんとも……。味つけは「ふたつの文化に敬意を表して」しょうゆと玄米酢
を使っています。
ここで、リンゴンベリーと黒すぐりのミックスジュースが出ました。これまた
今までに経験したことのない、野趣あふれる味です。凝縮された森の香気とでも
いうのでしょうか。でも、フィンランドでは、これは平凡なダサい飲み物で、コ
ーラより安いんだとか……
デザートは「ムスティッカ・ピーラッカ」というコケモモのパイ。このコケモ
モは、ホートルベリーといって、フィンランドではいちばんふつうのベリーだそ
うです。けど、これがまた、思わず「おお」と声が出るような、とびきりの味な
のです。
有馬とわたしのために、わざわざこれだけの材料を空輸で取り寄せてくれたと
いうから感激です。使われたフィンランド製の食器がまた、すてきなんです。真
っ白い皿の、ふちが深緑、ぶどうの実と葉をモチーフにしたユニークな絵がつい
ています。ガラスのコップはあくまで透きとおり、しかも、持ちやすいようにコ
ップの側面に微妙なでこぼこがついていたり。シンプルで美しいだけでなく、実
用的。いいなぁ、北欧。ますます憧れてしまいます。
料理を作ってくれたリーサさん自身は、魚が嫌いで食べられず、代わりにパン
を多めに食べていました。ミカにいたっては偏食すぎてなにも食べられず、コケ
モモのスープとパンで済ませていました。ちょっと困った人たちです。
初対面の有馬猛がいるので、リーサさんは少し緊張しているようでした。ミカ
はといえば、あいかわらずぼーっとした子で、テーブルについていても、ときど
きトリップ≠オてしまいます。
長方形のテーブルの長い一辺にわたしと有馬、反対側の一辺にリーサとミカが
座っていました。有馬とミカが向きあうかっこうです。いつかの、生田広志と夏
木を交えたあの「話しあい」のことを思い出します。あのときは有馬と生田が向
きあってケンカしていた。でも今の有馬は、ほっそりとしたリーサさんが気に入
ったようで、しきりと斜向かいの彼女に話しかけます。妙に優しい声で。頭に来
る態度です。
「でも、日本は怖いと思いませんか。あんな地震があると」
と彼がいったのは、そのころあった阪神大震災のことでした。
「え、ええ……」リーサは、臆病そうにうなずきました。はにかむように目をし
ばたかせて。内気なリーサさんにとっては、地震よりも、なれなれしい有馬の方
が怖かったのではないでしょうか。
「たいへんな災害だったそうですね」リーサは、か細い声でいいました。「ここ
にはテレビも新聞もないので、直接は知りませんけど。みどりさんに聞いて驚き
ました」
「みどりさん?」
「わたしの母よ」わたしは横からつねる声でいいました。
「ああ、そうか。春川みどり。おまえの母ちゃんはよく知ってっけど、名前は忘
れてた」
「――ちょうどミカの誕生日だったんです。一月十七日」
リーサは怖そうにいいました。
「ミカの誕生日が、変な記念日になっちゃいましたね」とわたし。
「ええ。ほんとに」リーサは顔を曇らせてしきりにうなずいていましたが、ふと、
「でも、日本の時間でいうと、ミカは一月十八日生まれなんです。それに地震が
あったのは、わたしたちの時間では一月十六日になる。だからまあ」
と、あいまいに首をかしげます。
「時間の流れ方が違うんですね」わたしはふとつぶやきました。「フェアリーラ
ンドとここでは」
「フェアリーランド?」リーサはくすっと笑います。
「あ、じゃないや、フィンランド!」
「時計が止まったしるし」ミカが嬉しそうな声でいいました。日本時間の原点の
時計。東経一三五度の天文科学館の時計塔。午前五時四六分で時が止まった……。
ミカが生まれたのは夜の九時半なのに。ふしぎなしるし」
「どこがふしぎなの」わたしは尋ねました。
「ミカが十四歳になろうとしたら、時計が止まった。だからミカは、いつまでも
十三歳のまま」
「時計が止まっても、時間は止まらないでしょう」わたしは優しくいいました。
「時計がなければ、時間がたったことが分からない」ミカはいいました。「時間
は相対的なしるし。地球の時計をぜんぶ止めたら、もうだれも正しい時刻を思い
出さない」
「ミカ君は、時間の本質に興味があるみたいだね」有馬は先輩づらをして、いい
ました。「おれも興味あるな。宇宙の始まりとかさ。ホーキングの『時間の歴史』
じゃないけど。ミカ君はどう思う? どうして宇宙の時間は始まったんだろう」
「宇宙って?」ミカは、尋ね返します。
「スペースだよ。コスモス」有馬はミカが日本語をよく知らないのだと勘違いし
て、そう説明しました。
「その言葉によって、有馬がなにを意味しようとしたかを尋ねた」
「お。君はなかなか骨があるね」有馬は嬉しそうに口元をほころばせます。「例
えばさ。我々がそこに住んでいると意識しているところの、この世界。我々が物
質世界と呼んでいる、この世界。この世界の存在にはどんな意味があるんだろう」
ミカは、ゆっくりと、まばたきしました。「その世界に住んでいないので、そ
ちらのことは分からない」
「それはおもしろい認識だね。でも、君は明らかにこの世界に存在している。そ
れは明らかでしょう」
「ミカがそっちの世界にいる証拠はなんですか」
「現に目の前に君の姿が見える。つまり、おれは君の存在を視覚的に認識してる
ってことになるね。同様に、聴覚的にもさ。それに、手を伸ばして君がこの世に
存在することを触覚的に確かめることだってできる。もちろん、ここでいってい
る存在は観念論的なもので、このいわゆる実在世界の実在性そのものは公理とし
て初めから仮定してるんだけどね。君がいいたいのは、その点かな?」
「有馬が『ミカ君』という言葉で何を意味していたか、確かめた。有馬が『ミカ
君』といったのは、ミカミカ人形。みんなミカミカ人形を見たり触ったり。ミカ
ミカ人形の声を聞いたり。たしかに、この子は、そっちの世界にあるのです。で
も、ミカは、そっちにいない」
「ふーむ」有馬は感心した表情で、あごに手をあてました。「君のような、おも
しろい人と知りあえて光栄だな。つまり君は、自分の精神と肉体に別の人格を与
えてるってわけか」
「人間の言葉では、そう表現するしかないですか」ミカは考え深げに、かすかに
首をかしげました。「たいていの人が精神という言葉によって言い表すのは、肉
体の機能の一部です。例えば、脳の認識機能を、精神という言葉で呼ぶ」
「つ、つまり、君はさ……肉体を離れた魂の存在を信じている、と!」
「フィンランド人なら、みんなそうなんですよ」リーサが涼しげな声でいいまし
た。「少なくともたてまえとしては。クリスチャンだから。でも、ミカは、ちょ
っと変な子なの。死んだら消えると信じてる」
「それはたしかに変な話だね。魂の存在を信じるなら肉体の死後も魂が残るって
ことで、『自分』が消滅することはない。だろ? ね、ミカ君」
「魂が自分を『自分』だと思っているのなら、そうでしょう」ミカはなんの含み
もない声でいいました。「消滅可能な魂をイメージできない人もいるかもしれな
い」
「ほう。君の話しぶりは好きだよ。明晰だね。そうか。おれは君の考える“魂の
消滅原因”を尋ねれば良かったんだな」
「その答は……」ミカの目は、かすかな翳りを帯びました。「……発音できない」
それからミカは、今度はとつぜんクスクス笑い始めました(予期できない子で
す)。「もし人間に、においという感覚がなかったら……。闇夜に漂う銀木犀の
香りも、野ばらの甘さも分からない。朝の森を満たす少し苦み走ったかぐわしい
香りも、ヒノキのかんばしさも、ブナやミズナラの、みずみずしい夢のようなに
おい……も。妖精とは、そういうものです」
「ヨーセーって? フェアリーのこと? ちょっと話が見えないな。どうしてそ
こで妖精が出てくるの」
「ミカはにおいの世界に住んでいる。だれにもミカは見えないので、ミカミカ人
形を指して『この子はね』といいました。それでミカも、ミカの話をする代わり
に『この子はね』といいました。かおり、という感覚がその人にだけあるとした
ら、かおり、という言葉はないし、他人にかおりとはなにか伝えることもできな
い……。妖精という言葉でミカがなにを言い表しているか、だれも知らない。伝
えることができない。例えば、生まれつき味覚に障害がある人に、どうやってホ
ートルベリーの味を伝えればいいのか」
「――ポエジーがあるね。君の言葉には」
「透きとおった魂は、自分という意識をさえ透きとおらせてしまう。ピアノの前
で、夢みるように意識を失いながら、人形の指が音楽をつむいでゆきました」
そういったミカの目は、暖かい目でも冷たい目でもなく、無温度で、ただあわ
く輝いているのです。
スピリチュアルな世界の住民であるミカ。そんな彼に、これまで以上に、ふし
ぎな魅力を感じました。同時に不安も感じました。ちょうどその頃、ある狂信的
な団体が恐ろしい事件を起こしたのです(地下鉄サリン事件)。そんなこともあ
って、なんとなく「スピリチュアルな考え方というのは、現実的には危険をはら
んでいるのではないか」という、そんな気がしたのです。
梨屋敷の帰り、たそがれの道を並んで歩きながら、有馬はこんなふうにコメン
トしました。
「サリン事件はさ、結果として精神世界のほめ殺しだよな。事件そのもの以上に、
事件の報道がさ。出家とか帰依といったきれいな言葉にケチがついたし、真理っ
てゆう言葉もけがされて。まじめなクリスチャンや仏教徒だって、迷惑したろう
し」
「だろうね。宗教、イコール変なこと……みたいな取り上げ方だもんね。おもし
ろおかしく」
「まあ、いずれにしても、ミカは、そういう狂信的な、徒党を組むタイプの人間
じゃないな。それどころかさ。あいつ、自分の世界を他人が信じるかどうかなん
てハナから気にしてないぜ。ある意味じゃ、あの事件を起こした連中より、もっ
と変だぞ。世の中を破壊しようとか改良しようとか考える以前に、この世に興味
を持ってないんだな。というより、この世界に住んでないんだよな、ミカは」
「有馬は、どう思った? あのふたり?」
わたしは、さりげなく切りだしました。
「ああ。ミカは、すごいよ。あれで十四歳になったばかりだろ。すえ恐ろしいね。
全人類のなかで、ああいうタイプはあいつひとりかもしれないな」
「有馬のようなタイプも、有馬ひとりなんじゃない?」
「フフ。それは悪口のつもりか。けど、おれにとっちゃ褒め言葉だね」
「ミカの外見的なことは?」
「きゃしゃだよね。拒食症なんじゃないかな、まじで。男の拒食症ってのも、あ
るんだな。植物しか食べないとはね」
「ふしぎな雰囲気の子でしょう」
「ああ。まったく。でも気に入ったよ」
「――リーサさんは?」わたしは有馬の表情をうかがいます。
「あの人もやせてるよなー。あの灰色の瞳がソソるね。それにあの暗い色の金髪
……。人間の雰囲気じゃないね、あれは。どこか違う。なにかあるよ、あの人」
「なにかって?」
「さあ。おれに分かるのはさ。あいつ、ミカのこと愛してるぜ。それも、姉とし
てとかじゃなくね」
「ウン。知ってる」
わたしは静かにうなずきました――自分の直感が有馬のそれと一致したことを
悲しみつつ。それからずっと、足元ばかり見て歩きました。
「おまえのライバルじゃん」
「ライバルじゃ、ない」
「なんでだよ。あの雰囲気あやしいぞ」
「リーサさんは、あたしとミカの仲を引き裂こうとかしないもん。むしろ応援し
てくれている」
「ほお。第2の生田広志、登場か」
「それに、あのふたりのあいだの愛情は、純粋に精神的なものでしょう?」
「今のところはね。だけど、愛しあう男と女なんて、結局、行き着くとこはひと
つだろ。あの雰囲気だと、きょうだいでもやりかねないぞ。学校いかずに、子供
ふたりきりで住んでるデカダンなやつらだからな。毎日、寝そべってイラン将棋
とかやっちゃってさ」
わたしは返事をしませんでした。
無言のまま、曳舟の水辺の道を、並んで歩きました。夕暮れのシルエットとな
って。有馬はアパートの前まで送ってくれました。アパートの外にある古びた鉄
の階段、その昇り口で立ち止まり、
「それでも、あたし、ミカと結婚したい」
わたしはいいました。疑問符のように、かすかに首をかしげて。
「いいんじゃない」有馬はうつむいていいました。「すごい金持ちだしさ、あの
家」
「そんなことは、問題じゃないの。ミカ自身が好き」
「ミカミカ人形でなくか」
「え?」
「――キスしていい?」
有馬はいきなり顔を上げ、真剣な声でいいました。顔を近づけながら。
「だめ」
わたしは苦しい気持ちで突き放します。
「なぜ」
有馬は鋭くささやきました。
「当たり前でしょう? 恋人がいるのに、ほかの人とキスなんて、できない」
「したってミカは気にしないよ」
「……」
「それに、向こうだって、姉と弟で愛しあってるようなカットビなんだからさ。
おまえも間男のひとりくらい入れろよ(笑)」
「だめ(唇をかわいく結んで目で笑い返す)。あたしには、ミカだけ。高校に合
格したご褒美に、ミカにいいことしてもらっちゃうんだもん。ふふん」そのこと
を考えると、急に陽気になれたのです。
「クソッ」
「妬ける?」いたずらっぽい目で彼を見ました。
「だけどさ。ハッキリいって、おれにもまだ充分、勝ち目はあると思うよ」
「どこによ」
「まあね」
「なにが『まあね』なの?」
「春川さ、おまえ、知ってる? バナナフィッシュって?」
有馬はほの暗い声でいいました。
「バナナフィッシュ? ……なに、それ? バナナの魚?」
「バナナが好きな魚。いつもバナナを食べたがってるんだな。ふだんは上品なん
だけど、バナナ穴ってのがあってさ。いちど穴に入ると、貪欲になって、もうそ
こから抜けられなくなるんだって。……バナナ穴か。サリンジャーもいうねえ。
バナナ穴。フフ。純粋すぎるやつは、それを恐れる。だから主人公は新婚旅行の
途中で自殺しちまうんだな。――と、まあ、そういう短編があるんだけどね」
「あたし、バナナブレッドなら知ってるよ」
「それは、どういう」
「純粋すぎる少女がいてね。その子はふつうの男性は怖くて好きになれないの。
だから、男色家の男性を好きになって、その彼と結婚までするの。いい考えでし
ょ? 男色家の男性なら、安全なんだから。……で、その子は、バナナブレッド
のプディングを食べたいっていうの。バナナを小さく刻んで、プディングにしち
ゃうんだね。お砂糖とかいっぱい入れて」
「それも、キテルな。いいな、それは」
「その女の子のいうせりふが、いいんだよね」
「なに? どんなせりふ?」
有馬は好奇心をかき立てられたように、身を乗りだしました。なんでもおもし
ろい言葉が好きなのです。
揺れる目で、彼を見返しながら、わたしはそのせりふを口にしました。
「『きょうはあしたの前日だから、だからこわくてしかたないんですわ……』」
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