当時、フィンランドのラップ地方で、主要な交通手段はヒッチハイクでした。土地の人も外国人も気軽にしていました。今はどうだか分かりませんが、当時、バスは「一日何本」ではなく「このバスは何曜日に運行」という数え方で、道も、30分に一台しか自動車が通らないというようなことがあって、そういう場所では、走っている車にびんじょうするのは、ふつうのことでした。
今はどうか分かりませんが、当時はフィンランド語を話す外国人は珍しく、外国人だと分かると、どうしてフィンランド語を話せるのか、とふしぎがられることがありました。説明を避けるため、フィンランド人の恋人がいるから、と、うそをつきました。ラップランドの離れたところでは、日本のことなど名まえしか知らないような人もおり、そこまで行くと、かえってフィンランド語を話しても怪しまれないのでした。
今はどうか分かりませんが、当時は汽車でヨーロッパに行くことが珍しくありませんでした。もちろん飛行機もありましたが、ソ連見聞をかねて汽車で行くことは安上がりで、学生に人気がありました。この汽車のなかには、若干の日本人もいました。二千円ルーブルに変えると、一週間で使い切らないような時代でした。まあ、古き良き思い出です。
今はどうか分かりませんが、当時は、モスクワ行きの特急の始発駅ウラジオストックに外国人は入れず、船はその近くの小さな町に入港して、あるところまで汽車で行って、そこで一泊してモスクワ行きに乗り継ぐというようなことをしていました。ソ連では、空港でさえ英語が通じない時代でした。駅とホテルのあいだの移動は、インツーリストという機関の人々が、監視というか、同伴していました。
ソ連に入るときのチェックは厳しく、検査の人は所持品の本の一冊一冊について、また封筒のなかみまで内容を確認しようとしました。
フィンランドに関連しては、むしろ、悲しかったり、思い返すと苦笑したくなるような思い出のほうが多いかもしれません。それでも、全体としては、結局、良い経験というか、必須の道だったと思います。
当時でも、年金生活者がパソコン通信をしていたり、いま思えば、Linuxの生まれる国だったのだな、という感じがします。当時のイメージはむしろ田園とか農村とかのイメージで、「フィンランドと先端移動通信」というイメージはなかったのです。もちろん、携帯電話を持っている人なんて事実上だれもいませんでした。
適した学習法というのは、個人の性質や学習の目的によって異なると思いますけれど、もし興味があるなら、とにかく知力や素朴な好奇心にみちた若いうちに、がむしゃらに勉強することが良いと思います。年をとると体力も記憶力も良くなくなってくるからです。
語学が得意というのはいろいろな難しい単語を知っているということもあるでしょうが、逆に、難しい単語を話せなくても知っている単語で整然と表現する、という技術も場合によっては必要です。
「航空券の有効期限が今週までなのです」と言いたくて「有効期限」が難しい場合、「わたしは、飛行機のきっぷを今週、使えます。来週には、それは古くなります」のように言ってもいいわけです。「大阪では、夏にはみな部屋で冷房をがんがん使います」の「冷房」が言いにくければ「わたしたちは大阪において部屋に機械を持っています。それは夏に冷たい空気を作ります」などと分解すればいいわけです。
このように、表面的な言い方にとらわれず、本質をとっさに概念的に分解する技術は、フィンランド語に限らず、あらゆる言語を使うとき共通に役立ちます。「わたしは今週、飛ばなければならない。わたしの飛行機きっぷが、そのようだからです」「大阪では、夏には、非常に暑い。だから部屋で冷たい空気を作る。電気で」。
その言語で「冷房」を聞いたことがあるかもしれません。つまり理解語彙として知っているわけです。知っていると、「冷房」は……なんだったかな? と思い出そうとして、かえってつっかえてしまいがちですが、使用語彙が理解語彙より小さいのは当たり前(分かるが自分では使わない言い方があるのは当然)と割り切って、その時点で使いやすい言い方に還元したほうが、スムーズに行くかもしれません。
ポロンヤカラ(だったかな?)のように、植物名などは言い方を知らないと表現のしようがなく、日本語でも「サンゴみたいな変なの。」としか説明のしようがないのですが、ポロンヤカラを知らない相手にはどうせ通じないので、あきらめるしかないと思います。じつは「きっぷの有効期限」や「冷房」も相手がその概念を知らなければ伝えにくく、先進国の現代人ならその概念を持っている、という前提で、察してもらおうと考えているわけです。その意味で、外国語といっても、じつは基本的に共通の概念言語を持っている、と仮定しているわけです。
逆に、「地震」を知らない子に地震の話をするのは、ドラゴンの話をするようなものかもしれません。幼児に「ベシはモニコン・パルティティービにおいて何ですか」と尋ねても通じないでしょう;相手は答を知っているにもかかわらず、概念的な参照手段を持っていないからです。
口語は、知っていて悪くはないのですが、自分からあまり積極的に使わないほうが良いかもしれません。日本人でも、たぶん、日本語学習者の外国人に対しては、「にゃんこ」といったインフォーマルな言い方は控えると思いますし、妙に話し言葉や崩れた言い方を知っているとフィンランド語の教師にも嫌われるかもしれません。
俗語やビッグワードを知っているのがクールという感覚は理解できますが、実際には、みだりに基本語の範囲を逸脱しないほうが安全でしょう。結婚式のまじめなスピーチで、友達をほめているつもりで「○○さんは、くそまじめで」などと言ってしまう、それは外国語ですと、ことばの響きがよく分からないので、口語を使うと失敗することがあるという例です。反対に、くだけた場でフォーマルに言うぶんには(「○○さんは、非常にまじめです」)、親しみはもてないかもしれませんが間違いがないと思います。
ことばの使い方は個人のスタイルですから、好みもあるでしょうし、会話体を使えないと、冷たい感じを与え誤解されることもありますので、どっちもどっちかもしれません。けれど、街で友達が使っていた表現をその人の家でその人の親に対して使うと、いつでも失敗する可能性があるということです。
日本人の話す外国語はブッキッシュだ、というもっともらしい批判に安易にうなずかないほうが良いと思います。むしろブッキッシュなほうが「きれいなフィンランド語を話す」といわれるかもしれません。三人称で人間に se (やつ)を使わない、とかです。
ネイティブの両親や学校の先生が教師となり、十年以上にわたって「こういう場面でそういう言い方をすべきでない」「こう言うべきだ」とその国で毎日24時間みっちり訓練を受けている相手の微妙な言語感覚にはぜったいたちうちできないので、不自然なのは承知で、教科書にある言い方にて通したほうが安全です。口語を使うなら友達同士で。
日本語の、終助詞、でしたか、「ね、さ、よ」とかのつけかたは、ネイティブでないと微妙で難しいし、知らないうちに相手の心理に強く作用することがあるので、変につけると危険ですらあります。フィンランド語で、パとかスをつける言い方もそうかもしれません。
「大阪では、夏にはみな部屋で冷房をがんがん使います」に対し、「大阪ではね、」とか「使いますね、」と、みだりに「ね」をつけると、微妙な語気しだいで、知らないうちに強い心理的反応をまねきます。外国語を話すときは、自覚がなくても、多かれ少なかれ妙な発音になっていることがあるので要注意です。
「辞書にない単語」は、一般に使える場面が難しい(日本語でもそうでしょう)と思われます。オラバ(りす)をクッレというたぐいです(日本語の犬:わんこ、のような雰囲気でしょうか)。友達同士なら問題ないけれど、どういう条件で先生に対して使っていいのか、親しくない同僚の前で使っていいのか、外国人が使っても不自然でないか、といったことはネイティブのインフォーマットに聞かないと分からないし、ネイティブでも人によってポリシーが違うかもしれません(日本語の「わんちゃん」ではどうでしょうか・・)。通常は、危険をおかさなくても、オラバと言っていればいいと思います。
どんな言語でも、日本語でもそうですが、それに接する機会、それを使用する機会が少ないと、たったの一ヶ月でも急速に「さびつく」ようです。忘れてしまったと思っても、再学習するときは一回目より速いのがふつうですけれど、水準を維持したいなら、なるべく毎日、接していたほうが良いと思われます。少し使わないでいると、使えたはずの言語をどんどん忘れてしまうからです。母国語でさえ、使わないと、驚くほど忘れるもののようです。語学に限らないことですが、人間のからだは、意外なほど忘れます。少なくとも、自分の場合、そうです。