妖精現実

知的所有権は「ばかには見えない服」

2004年1月27日

2004年1月27日 Intellectual Property in the Real World 知的所有権というのは「裸の王様」の「ばかには見えない服」に似ているという指摘から始まり、理想と現実をふまえた含蓄のある記事。 知的所有物というのは実際にはどこにも存在していないのだから、 それを「所有している」ということは、要するに「他人にわたしはそれを所有しているのだ、と信じてもらえるということ」と等価で、 一種の信仰のようなもの。いくら「わたしは所有している」と言い張っても誰も認めてくれなければ所有していることにならないし、 逆に自分では所有している気はなくても人々が所有していると認定すると所有していることになる。

ソフトウェア特許の禁止に向けて、今こそ行動の時」や、「輸入盤を「非合法化」する著作権法改正」と合わせて読むとおもしろいでしょう。(注意: 最後のリンクはページを開いたすぐにヒトの顔の生写真があります。)

9ページある最初の3ページを訳してあります。 映画や Microsoft の話が出ますが、これらを批判するのが目的ではなく、あくまでオープンソースを論じる枕の部分です。

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This article was syndicated under osViews's Open Content License, with Japanese translation by seelie317 <seelie317 at faireal.net>. The translation is not normative, having nothing to do with the original publisher, and may be somewhat inaccurate, but should be informative.
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この記事は、Intellectual Property in the Real World の紹介です。 原文はこちら対訳。翻訳版はこのすぐ下。

もくじ

Intellectual Property in the Real World
Posted Jan 26, 2004
Contributed by: Russell Peterson <lachoneus'at'juno.com>
:: Open Content

西洋社会では何百年もの間、情報は財産であると信じられてきた。 しかし、それは本当に所有できるものなのだろうか。 映画スタジオ、ソフトウェア企業、あるいはレコード会社にとっては、当然答えは「Yes」だ。 だが、ラッセル・ピーターソンは「情報というものは、ときに私有物とするには貴重すぎる」と説き、 情報を共有する手段としてオープンソースを論じる。

Section 1: Introduction: はじめに

「むかしむかし、あるところに服がたいそう好きな王様がおりました。王様は財産のすべてを服につぎこみますが、 兵士たちのこととなるとまるで知らん顔。お芝居や狩りにも行かないのでした。 もっとも、服を見せびらかすチャンスとなれば、話は別でしたが……。 王様は毎日一時間ごとに別の服を着ました。 世の王様といえば、執務室で大臣の報告書に目を通したりするものですが、 この王様の場合、試着室で大臣の差し出す服に袖を通すのでした。」

――もしアンデルセンが「知的所有権」という言葉を聞いたら何のことかと首をかしげるだろうが、 じつのところアンデルセンは「知的所有権」について書いているのだ。 アンデルセン童話によると、ふたりのインチキ仕立屋が王様をだまして、 「その地位にふさわしくないか、性格が単純すぎる者には見えない素材」でできた服を買わせる。 要するに、仕立屋たちはアイデアを売ったのだ。 このペテン師どもは、そのたくらみが発覚するまでのあいだ、相当な利益をあげた。

皮肉な話だが、もしこのペテン師たちが今生きていれば、米国特許商標局に「ビジネスモデル特許」を申請できただろう。 米国以外の政府機関なら、当然そんな詐欺師を罰するのだが……。 われわれは人がアイデアを所有する権利を主張できるような社会に生きている。 この情報化時代、世間は知的所有という概念になじんでいる。実際、情報の所有は大きなビジネスになった。

けれど、7人の異なるITプロフェッショナルに「知的所有権」の定義を尋ねれば、おそらく7通りの異なった答えが返ってくるだろう。 「リアル」な所有権が物理世界の有形財産から成るとして、「知的」な所有権とは何か。 わたしのお気に入りの定義は「自分が所有していると思うもの」だ。 知的所有権は物理世界には存在しないから、わたしの所有権というのは、 要するに、自分は完全に無形のものを所有しているのだ、ということを他者に納得させることによって成り立つ。

米国で、こうしたものが貴重な「財産」だと人々に信じ込ませるのに一役買ってきたのは、知的所有権にかかわる大企業だ。 法律は、このような企業の権益を保護する目的で制定された。 われわれは知的所有物をコピーすることは盗むことに等しいと考えるように条件付けられてきた。

社会の通念では、企業というものは自社の知的財産に関して独占的な権利を持っている。 そのような主張は決して無意味なものではない。 しかし、IP(知的所有)関連の主要企業の最近の動きを見ていると、 結局のところ、 これらIP産業は自社製品がよりマクロな経済のなかでどのように機能するのか、ということをよく理解していないと考えざるを得ない。

本稿の目的では、IP産業というのは、0と1の列に還元されるような製品を作っている会社のことと定義できる。 IP産業のなかの最大のものは、ソフトウェア、レコード、映画だ。

ORIGINS OF INTELLECTUAL PROPERTY: 知的所有権の起源

知的所有権の起源を理解するには、かつて情報が主に書物によって流通した、ということを思い出さなければならない。 書物を手で写すことは大変な苦労だ。 書物の価値は、その複製に要する時間コストに比例した。 14世紀の人間に「ページ数の多い少ないと無関係に、本の価値を判断してください」と言っても、 きっと変な目で見られるだけだろう。当時、情報というものはそれを記録した媒体と分離不可能なものだった。

印刷術の発明により、情報はいくらでも複製可能になった。 このときが、情報の価値は媒体の価値と無関係だと考えられた最初だ。 人々は情報それ自体が価値を持ちうることに気づいた。 書物の真の価値はページではなく、そこに含まれている情報であることを悟ったのだ。

価値があると分かれば、それを所有し、そこから利益を得ようとするのが人間のさがである。 それを実行に移す過程において、「情報は無形で、それゆえ根本的に性質の違うものなのだが、それでも財産なのだ」という概念化が行われた。 情報は印刷コストだけでいくらでも自由に複製できるので、そのままではすぐ供給が需要を上回ってしまい、 価格は低落し、利益を上げることは困難あるいは不可能になる。 営利販売が不可能なものに経済的価値があろうか。

この問題への答えは、情報の交換に市場原則を適用することだった。 需要を支えるためには、供給が制限されなければならない。 ヨーロッパの独裁君主たちは、知的「財産」の製造者たちに、喜々として情報の独占権(著作権や特許)を与えた。 そうすることで、収入と支配の上で好都合だったからだ。 王侯(ロイヤル)たちは情報の売り上げに税を課し(これがロイヤリティという言葉の由来だが)、 コンテンツ所有者は引き替えに専売権を得た。 このシステムはIP(知的財産)の所有者と政府の両方をうるおすものだった。

米国憲法が起草されたとき、 起草者たちが明示した知的所有権の目的は、 公共の利益であった。第1条、8節、8項によれば、議会は「科学と有用な技芸の発展を促進するために、 一定期間、著作物・発明の著作者・発明者に排他的な権利を与えることができる」。

ここで「一定期間」というのは重要だ。実際、起草者たちの意図は、創作物を永遠にパブリックドメインから遠ざけることではなかった。 逆に、知的所有権者たちが経済的対価を得る機会を一定期間に制限することで、公共の利益を図ろうとしたのだ。

一方において、特許や著作権が失効してこそ、社会は知的生産の果実を自由に享受することができる。 他方において、通例、金銭的な報酬がまったくなければ、結局第三者が著作物を利用できるということもないだろう。 営利目的の使用や、著作権者に経済的損害を与えるような使用でない限り、他人の知的財産を使うことは許される、というのが伝統的な考え方であった。

Section 2: The Battle for Control: コントロールの戦い

INTERSECTIONS OF PHYSICAL AND INTELLECTUAL PROPERTY: 物理世界と知的財産の相互作用

歴史的には、知的財産は、それを伝達するための物理形態と結びつけられていた。 例えば書物は物理的なものだが、物理世界と知的世界の交差領域に存在している。 わたしは書物に印刷されている情報に関する権利を所有しているわけではないが、 買った本をどう扱ってもいい――これは広く受け入れられている常識だ。 読むこと、売ること、改変すること、あるいは本を破ること。 単に本を読む権利を持っているだけではなく、本を所有しているのだ。

特許保護された商品も、物理世界と知的世界の交差領域に関係している。 購入者は物理的な商品の所有者になるが、 特許権者の知的財産を使って利益を上げることは許されない。 それでも、書物の場合同様、特許商品を購入した場合、単に使用権を所有するだけでなく、その商品そのものを所有するのだ、 というのも常識的なことだ。購入者は購入した商品を好きに扱っていい。 使うのも、売るのも、改造するのも、壊すのも、勝手だ。

人が商品を所有しようとするのは、それを自由に支配するためだ。 言うまでもなく、所有権の意味は、所有物を自由に支配できることである。 もし自分の財産についてできることが制限されているとしたら、それを「所有している」と言えるかどうか疑わしい。 わたしがあるものをどう使うべきかについて他人に指図されるとしたら、その第三者はわたしの所有物を支配していることになり、 間接的にわたしを支配していることになる。

知的財産(IP)産業は、この重要な点をいつも無視している。 かれらは人々に商品を購入させたいと思いつつ、同時に、買わせた商品の使い方までコントロールしたいと願っている。 購入者は、単にIP所有者の命令に従って製品を使いたい、というだけではない。 購入したからには、購入した商品を所有して、所有者として当然の、すべての権利を行使したいと考える。

IP関連企業が、消費者が購入した後の商品までをもコントロールしようとしている例は、限りなく多い。 書物や、物理的な特許商品の場合、消費者は確実に購入した商品を所有できる。 しかし、こんにち、IP企業は知的財産の所有権を保持できると考えている。 方法はさまざまだが、かれらは商品を消費者の手に引き渡したあとまでもその知的所有物をコントロールしようとして、 その方法をあれこれと探している。消費者が法律に認められた「フェアユース」を主張している場合ですら、それを制御しようとするのだ。

THE BATTLE FOR CONTROL: コントロールの戦い

IP産業の側では、製品開発の投資を保護するために思慮深く行動しているにすぎないと言い張るだろう。 しかし、これに反する証拠はいくつもある。 IP産業最大手によって支持されたデジタルミレニアム著作権法(DMCA)を考えてみよう。 これによると、DVDのなかの「必ず再生」フラグの部分を無視するようなDVDプレーヤーを作ることは違法とされかねない。 結果として、消費者は、いやでも映画の予告編を見せつけられるはめにもなる。 このようになっている理由は理解できるが、 しかしこれは「DVDの映画を自分で購入したからには、その映画を自分の好きなように見ていいはずだ」という事実を無視している。 誰かの決めた見方で映画を見たいと思えば、最初から映画館に行けばいいことではないか。

ユタ州では、 CleanFlicks という会社がファミリー向けビデオ市場で一定のニッチを確立した。 同社はビデオを購入し、セックス、バイオレンス、みだらな言葉を取り除く編集を行う。 ところが、これが米監督組合(DGA)の怒りにふれた。 DGAのトップだったマーサ・クーリッジは、歯に衣を着せずに言い放つ。 「この問題では、わたしたちの主張を表明するために戦う。このテクノロジーを支配するために戦う」マーサ・クーリッジは、 自分の見たいような見方で映画を見る人々に我慢がならないようだ。 一時的な編集さえも認めないというのだ。 「映画の意図を改変してしまうような技術について言っているのだ。子どもが見るものをコントロールしたい親は、 そもそもその映画を家庭で見せること自体をやめればいい」

セックス、卑猥な言葉、暴力シーンなどをカットしないと見られないというなら、そもそも見るな、と言いたいらしい。 しかし、論点はコンテンツの編集ではない。 自分が所有するものをどのようにするのも自由ではないか、というのが問題なのだ。 マーサ・クーリッジの考えを押し進めると、究極的には、自分のプライベートルームで自分が買った映画ソフトを見る見方についてまで、 映画産業が口出しできることになってしまう。マーサ・クーリッジが挙げるその理由は非常に道徳的だ。 「映画であれ演劇であれ書物であれ、芸術を改変することは倫理上問題がある」というのだ。

ハリウッドの報道官が道徳を語るというのも何とも皮肉だが、 そもそもマーサ・クーリッジの言っていることが無意味であることは、ちょっと考えればすぐ分かることだ。 このロジックを書物に適用したらどうなるか考えてみよう。 もしクーリッジが出版社だとして、著者が意図した通りに本を読むように読者に強制するつもりだろうか。 その支配欲に従い、最後のページを最初に読むことを禁止するつもりだろうか。 ページや章を飛ばして読むのがいけないというのか。 あまりにもばかげている。

おかしなことに、米監督組合が映画ファンに望んでいるのは、そういう世界なのだ。 シーンを飛ばすことは許さない。 映画を購入して家庭に持ち帰った後までも、消費者の経験をコントロールしようとする。 お次は何か。 できることなら早送りボタンを非合法化したい、とでもいうのか。 ハリウッド映画の大半は(広い意味では)芸術と考えられないこともない、という点は認めるとしても、 マーサ・クーリッジの考えは、芸術は個人によって自由に鑑賞されるべきものである、という事実をまるで無視している。

テレビのコマーシャルでモナリザの唇が動くのを見るとき、 「モナリザについて、自分と違って、こういう見方をする人もいるのだ」という事実を、わたしは快く受け止める。 創作物を改変することは、それ自体、表現の一形式である。 それが不愉快だなどというのは、自分の表現に自身がないアーティストくらいだろう。 もしハリウッドが映画の編集を完全にやめてもらいたいと考えるなら、そもそもビデオの形で映画をリリースしなければよいことだ。

米監督組合の立場は、芸術の観点からみておかしいばかりか、経済的な観点からもあまり筋の通ったものとは言えない。 たいていの映画は、機内上映用、テレビ放映用などとして、各スタジオそれ自身によっても編集されるのが普通だが、 そのことを忘れてしまったのだろうか。 米監督組合が憎むまさにそのテクノロジーを使って、同じ映画の2種類のバージョンを1枚のDVDに収録することができ、 映画業界は問題を解決できるばかりか、売り上げを増やすことができるではないか。 暴力シーンをカットしたバージョンの需要があるのなら、それを作って売ればいいのだ。

映画産業にとって、この概念は理解困難なようだ。 消費者の需要をとらえ、それに応じる代わりに、かれらは消費者の需要に応じようとしている人々を訴えることで時間を浪費している。 最初に指摘した「知的財産(IP)の価値は市場操作に依存する」という点を思い出してほしい。 供給が人為的に制限されない限り、IPの価格は損益分岐点以下まで下がってしまう。 ところが、IP分野の他の大手と同様、映画産業も市場とテクノロジーをコントロールすることには熱心である一方、 市場やテクノロジーに適応しようとする努力は怠っているのだ。

消費者のニーズへの適応より一方的な支配を望む気持ちも、理解できないわけではない。 市場の動きは予測不能で、マーケティングにはそれなりの努力、時間、スキルが必要とされるからだ。 法的手段や新法の制定によってすべての面倒が避けられるなら、誰がわざわざそんな面倒な道を選ぶだろう。 しかし、これらIP産業は重要なことを見落としている。 いくら支配しようとしてみたところで、どのみち市場を完全に支配することはできない、ということだ。

一例を挙げよう。映画産業による訴訟は、 ひょっとして CleanFlicks 社によるビデオ編集をやめさえることができるかもしれないが、 そうだとしても、 ClearPlay 社は止められないだろう。 ClearPlay はファミリー向け映画の次世代で、 ハリウッドによる訴訟に対抗するためと見られる新しい技術を使っている。同社の顧客は編集用のスクリプトをダウンロードできる。 このスクリプトは、DVDそのものを変更することなしに、DVDプレーヤーにカットすべき暴力シーンなどを伝えるようになっている。

「法律問題については徹底的に調査しました」と ClearPlay 社の幹部は言う。「当社ではDVDには指一本ふれません」 映画産業は、マーケットの需要を自分たちで満たす気がないとなると、 訴訟を起こすか、法律を変えてその行為を非合法にしてしまえばいい、と考えているようだが、 自由市場は、そんなふうには動かない。 映画産業がそこに参加する気があるにせよ、ないにせよ、 消費者が望むものを提供するようにマーケットは動く。 ClearPlay 社はほんの一例にすぎない。

映画スタジオは、映画の各側面をコントロールできるかどうかというその点ばかりに心を奪われたあげくに、 コントロールすべきなのかどうなのかという点を考えることを忘れてしまったと言っていいだろう。 消費者はそれぞれの仕方で創造的作品を味わいたいと思っているし、 そのためには喜んでお金を払う。 消費者が購入した後まで、支配を続けようとすることは逆効果だ。 (ニーズに応える代わりに)ニーズを支配しようとしたことで、IP各社はせっかくの新しいビジネスチャンスをふいにしてしまった。 まるで供給を渋れば需要がなくなるとでも思っているかのようだ。

Section 3: Controlling the IP Consumer: IP消費者の支配

MICROSOFT AND THE IP CONSUMER: マイクロソフトと消費者

映画の米監督組合の望むコントロールが突出して行き過ぎだと思うかたは、 たぶん、Microsoft のオペレーティングシステムの使用許可契約 (EULA)を最後までスクロールさせて見たことがないだろう。 Windows XP の EULA は18ページに及び、「このソフトウェアはライセンスされるのであって、販売されたのではない」と明言している。 これを読めば Windows OSの“非”所有者たちが経験する数々の制限も納得がいくだろう。 実際、Microsoft にしてみれば、いっそのこと「ユーザの禁止事項」を書くより 「ユーザの許可事項」を書くほうが手っ取り早かったのではないかと思える。 「こういうことは禁止です」ではなく「あなたがしていいのは、これとこれとこれだけです」という具合だ。

複数のバックアップ禁止

多くのユーザは定期的にハードドライブのバックアップをとる。 いくつかの時点でバックアップをとっておけば、異なるシステムの状態を保存しておくことができる。 システムがいちばん安定していた時点の設定に戻したいという場合、このようなバックアップは必要不可欠だ。 もしあなたがそういうことをした経験があるとすれば、意外かもしれないが、あなたは Microsoft の EULA に反する違法行為を行っていることになる。 「使用者はバックアップの目的で、一つに限りソフトウェアの複製を作ることができる」となっているからだ。

2台のマシンにインストール禁止

もし音楽CDを購入して、一つのCDプレーヤーでしか再生できないとしたらどうだろうか。 消費者はそんなふうに音楽をコントロールされることに我慢できないだろう。 Microsoft が自社ソフトウェアに課しているのはそれに似た制限だ。 Windows EULA には「このオペレーションシステムは、一台のマシンに限りインストールすることができる」と明記されている。 2台のコンピュータを所有していて、同時に使うことはないとしても、駄目なのだ。 Windows のコピーを2本買え(より正確には「ライセンス契約を結べ」)、というのが Microsoft の言い分だ。

10台以上の接続禁止

次に、Microsoft は、 「Windows をインストールしたコンピュータに接続し、 Windows のファイルサービス、印刷サービス、IIS、リモートアクセスを利用できるコンピュータまたは他の電子機器」を、 最大10台と制限する。 もし10人以上のハッカーが「共有レベルパスワード」の脆弱性(ぜいじゃくせい)を悪用し、 特定のファイル共有にアクセスした場合どうなるのだろう。 ユーザが制限に違反したことになるのかどうかについて、 EULA には明示されていない。

マシンが壊れたらOSの使用も禁止

最後に、マシンの寿命が尽きて、最後の「アップ」ロード、つまりはおだぶつ・昇天となった日には、 Windows OS もいっしょに昇天させることを忘れなく。 なにしろ Windows XP の EULA は、 「このライセンスを共有・譲渡し、もしくは同時に異なるコンピュータで使用することはできない。 このオペレーションシステムは、コンピュータマシンと一体となった不可分の複合製品としてライセンスされ、 当該コンピュータにおいてのみ利用することが許可される」というのだから。

理解できないパラノイア

以上、四つの顕著な例を挙げた。 Microsoft が自社の知的財産の使用法について、 あなたのマシンの寿命の全期間にわたって、あなたをいかに支配したいと考えているかを示す例だ。 もしシステムのバックアップを二つ以上とったことがあるなら、あなたは EULA に違反している。 厳密に言えば、あなたのライセンスは契約違反で無効になり、あなたは Windows を違法に使用していることになる。 (プリインストールマシンを買ったのだから、自分は法を守る善良な市民だ、と考えていたのでしょう!)

ちょっと話がそれるが、こうした Windows EULA の各制限の真の意味は、Microsoft は金がほしい、ということだ。 バックアップコピーをいくつ作っていいのか。 Windows マシンに最大何台の他のコンピュータが接続できるのか。 EULA の制限は、少しでも金を取れる場所からは取ろうという観点に立っている。 ビル・ゲイツとしては、あなたに最新製品を買う余裕がある限り、コピーするより買ってほしいのだ。 顧客思いの態度とは言えないが、これは理解できる話だ。

理解できないのは、海賊版に対するパラノイアだ。 Microsoft の幹部たちは、どうも世界中の人々が Windows を勝手にコピーしまくってインストールするという悪夢を心に描いているようだが、 現実世界ではそれはあまりないことだ。 現実に、わたしは、 友人のハードディスクがクラッシュしたときやファイルシステムがおかしくなったときなど、 何十回も Windows をインストールしてあげたことがある。 けれど、古いマシンに Microsoft の新しいOSをインストールしようとすると、 ご承知のように苦労はまず報われない。通常、 古いマシンでは、新しいOSは快適に動作しないので、アップグレードする価値がないのだ。

だから、わたしが自分の Windows 95 のCDを使って、友人に再インストールしてあげるとすれば、 対象は、もともと Windows 95 が工場出荷時からプリインストールされていたマシンにだ。 Windows 98 についても同様。 厳密にいうと、このような行為が EULA 的に許されるのかどうか分からないが、 ライセンス料はそのマシンの購入時にちゃんと支払われている。 まさか Microsoft は同じユーザに二重に課金する気だろうか?

この質問が的はずれだと思うなら、あるいは、Microsoft は単に自社の知的財産を守ろうとしているだけだと思うなら、 次のようなシナリオを考えてみてほしい。 Windows XP 搭載の新型PCを購入して一年後、ハードドライブが壊れてしまったとする。 あなたはマシンの製造元に連絡するが、保証期間は過ぎていると言われる。そこで秋葉原にでも行って新しいハードディスクを買って帰り、 自分で交換して直そうとする。 ところで、どうやって Windows をインストールしたらいいのだろう。 あなたの購入したPCにはシステムリカバリーCDは付いていなかった。 代わりに「システム・リストア」パーティションがあったのだが、それはハードディスクのクラッシュで失われてしまった。

隣人からシステムリカバリーCDを借りてくるわけにはいかない。隣人も持っていないからだ。 Microsoft に電話をかけてみても「Microsoft はソフトウェア製品へのサポートを行わない」(EULA)と言われるだけだろう。 「ハードウェアの製造元に問い合わせてみてはいかがでしょう」となる。 アクティべーションがあるので、このような修復目的のインストールであってさえ、 Windows XP のリテール版を借りることすらできない。もう一度 Windows XP をインストールしたいなら、リテール版を買うしかないのだ。

Microsoft はもちろん喜んで売ってくれるだろうが、だから何だろう。 同じ XP を二度「買わされる」のだ。Microsoft は海賊版防止のためにハードウェア製造者にリカバリーCDを付けないように要求したのだろうが、 ハードディスクの故障のような場合、結局のところ、これは消費者であるあなたの付けになるだけだ。

映画スタジオの場合と同じく、Microsoft は自社の知的財産の各側面をコントロールできるかできないかという点に夢中になり過ぎて、 コントロールする必要があるのかどうか考えるのを忘れている。 消費者から1ドルでも多く絞り取ろうとそればかり考えて、その結果、消費者に不利益を与え、消費者を遠ざけてしまっているのが、分からないのだ。 Windows を好きで再インストールする人などめったにいない。 正常に起動しなくなったから、やむなく再インストールする。 Windows がクラッシュするとユーザはいらだつが、仕方ないとあきらめてもいる。 だがプロダクトアクティべーションのために XP を再インストールできないと分かったときは、本気で腹が立つ。

デスクトップ市場での圧倒的な独占があるので、Microsoft はおいそれとは消費者の苦情に耳を貸さないだろう。 同社はかつて、消費者が Windows をコピーすることをやめさせようとはしなかった。やめさせないほうが独占体制の確立に有利でもあった。 なぜ今はやめさせようとするのだろう。「やめさせることができるから」だ。 Microsoft は常に自社の利益を最大にすることだけに集中してきた。そして今、プロダクトアクティべーションが同社の収入を増やすことに気が付いた。 なぜなら、このようにすれば、消費者は同社の言いなりになるほか、選択の余地がなくなるからだ。

続き


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