手紙

  1. 1999-03-08

1999-03-08

長野五輪招致問題

長野市は招致費用の帳簿を焼却処分している。担当の職員は、招致疑惑など週刊誌の無責任な批判記事にしかなっていなかった開催直前の時期に、産経の取材に答えて概要こういっている。「とにかく長野に呼ぶことが最優先で、そのために市中のたくさんの人々が尽力してくださった。協力していただいた、オリンピックを待ち望んでいた皆さんに迷惑をかけないことが大前提なのは当然のこと。だから帳簿は焼却処分したんです」

オリンピックの招致予算は億円規模だけれども、それでもまだ全然足りなかったらしい。だからIOCの委員が事前視察やってくるときに泊まったホテル代は、じつはホテル負担だったのではないかといわれている。おみやげの人形も人形士の「本来なら考えられない」格安での提供によるものだったという疑惑がある。こうなると累が及ぶのは民間まで広まってしまう。だから「まじめで思いやりのある古き良き日本人である」招致の経理担当職員は、帳簿を処分して罪を一人でかぶったのだ。

彼を断罪しても何にもならない。なぜなら、彼は民主主義にしたがって市民の希望を代表として叶えてみせただけに過ぎないからだ。本当に裁くべきは彼ではない。非難すべき対象があるとすれば、彼を含めた長野市民、ひいてはオリンピックに賛成し、最近になるまで疑惑に目をつぶってきた日本人全員ということになる。だが、日本国内で誰がこれを非難し、断罪できるのか。オリンピック開催地を決める委員の人たちが視察にやってきたとする。いいとこに泊めて、いいもの食わして、いいとこ案内して、いいお土産持たせよう、もちろん費用は全部こっち持ちにしようと、誰が思わずにいられようか。この点に無自覚になって平気でこの招致に携わった人々を断罪してる奴らはアホだ。アホが言い過ぎなら、ぼくは大嫌いだ、と言い直そうか。

たった四〇億円でオリンピックが来るなら、これは儲け話である。整備費が数百億ではすまないともいわれる新幹線と高速道路と国内空港が一気に整い、宣伝費数千億に匹敵するナガノという名の大宣伝にもなる。国際的観光地ともなるし、整備された競技場は恒久的にワールドカップや世界選手権の開催地ともなる。一時的にしろ工事が忙しくなり失業者も消える。見事成功まで漕ぎ着ければ首都機能移転の有力候補地にさえなり、もし話が決まればまた儲かるではないか。今度は国際空港もできるだろう。

そうはいっても、やはりアメリカとかとのおつきあいもある。招致委員を責めないわけにもいかないだろう。だが、その様子を報道で見ている側はまず、自ら問いかけてみるべきだ。自分ならどうできたというのか、と。どうすれば彼らの功績はそのままに、罪は一切ないような曲芸ができたかを、自問すべきだ。おらが街のため、みんなの生活環境を少しでもよくするため、人々の笑顔を見るために招致委員たちが刑務所で過ごすことになる事実くらいは、理解すべきではないか。

ぼくがこの問題で嫌なのは、テレビに出てくる怒りの声に登場する市民の顔が、嫉妬に凝り固まっている人特有の表情に歪んでいるような気がしてならないからだ。くだらない、じつにくだらない「人々の怒りの真相」がそこにあるのだ。ぼくは批判資格論の立場はとらないから、「自分だって同じ穴の狢のくせに」などと批判者となること自体に文句いったりはしない。けれども、自分の役得を批判されたら怒るような奴らまでが批判者になるのは無責任だと思う。自分の醜さにも気付けといいたい。ぼくの好きな批判責任論にしたがって奴らは許し難いのだ。

深く人柱に哀悼の意を表そう。せめて、心の中だけでも。

闇カルテル

今年になって話題になったことなのでまだ記憶に新しいことと思います。株式会社クボタと同業者二社が水道局とぐるになって談合し、四十年間にわたって不当な価格設定を行なってきたという問題です。

悪質な事件、と思われますか。まあそう思われることでしょう、これだけを読んだならば。けれども、産経新聞に載ったクボタ幹部の次の釈明を聞いてもそう単純に断言できるでしょうか。

クボタの幹部は概要こういいました。「正当に入札すれば、我が社は全ての入札に勝てたのです。けれども、我々のシェアが一〇〇パーセントになり他社が潰れたならば、水道局は鋳管自体を採用しなくなります。入札をできる塩ビ管などに切り替えるのです(だから談合は仕方なかった)」

幹部の釈明内容について新聞解説の概要は次の通り。「公共事業では特定業者に不当な利益が配分されないよう、入札による業者の選定を行なうことにしている」

こうしてみると、この事件は資本主義下の自由競争社会が持つ大きな矛盾を、じつは浮き彫りにしていたわけです。上記の記事は内容が読者に受けなかったようで、以後全く問題として取り上げられてないのですが、ぼくはこの点こそが事件のハイライトだったと思います。

競争=シェア争いだと思うんです。一番いい製品が一番よく売れるわけだから、みんな改良のために努力を重ねるわけです。改良にはコストダウンも当然、含まれます。さて、今回の事件の舞台は公共事業。ここでは縛りが一つあります。独占企業が登場すると分野全てが消滅、つまりゲームオーバーとなるのです。となると、圧倒的に強い企業って…クボタと同じことするしかない。それとも自殺行為の自由競争を続けますか。

塩ビ管などへの体質変換は、たしかにすべきだったと思う。それすらも怠った責任はある。けれども、クボタが突然の技術革新で圧倒的に強くなった四〇年前、いきなり全面的な体質変換はできないんです。鋳管製作の現場技術者ってのは専門職だから、いきなり明日から塩ビ管を作れなんていわれてもできないんです。機械だって全然違うし。それに、いきなり体質変換したって、塩ビ管の老舗にレベル的にも値段的にもすぐには勝てない。一〇年単位で計画立てて、それでようやく入札に勝てるようになってくるわけです。したがって、いきなりの体質変換は無理なのです。

せっかく頑張ってきてくれた社員に「テメエら頑張りすぎたんだよ馬鹿野郎が。会社もおかげで設備投資した金全部大損害だぜ。今後一〇年以上も辛苦に絶える金もどーすんだ阿呆たれどもが。テメエらを教育し直すのに飯代付きってのは割にあわん。入札で勝つ前に会社が潰れちまわあ。引き抜きのほうがずっといいじゃねえか。みんなクビだ。とっとと消えちまえ」というなんて、日本人ならできないのが普通ではありませんか。

あらゆる談合を禁止した結果として浮かび上がる地獄絵図を思えば、少なくとも今回の談合が「鋳管→塩ビ管の体質改善の途上」に会社が倒産しないために行なわれていたことでさえあれば、むしろやっていいことだったはずなんです。いくら欧米の持ち込んだ世界標準ではクレイジーであろうとも。だからこそぼくは、今回の事件で断罪されるべきは体質改善の努力をしていなかったことただ一点に絞られるべきだと主張するのです。

報道では談合それ自体が絶対悪のように描かれていますけど、ぼくは違うと思います。一生懸命シェア争いした彼らをゴールで待っていたものは、一文無し以下の借金地獄。資本主義社会と公共事業の公共的公平性の確保という二律背反を認めながら談合も禁止では、現場の人たちに生きる道がありません。何なんだよ資本主義って、民主主義って。

マスコミはいいよね。たとえ視聴率がなくても、人気取りだけじゃ駄目なんだ、「次世代に残すべき」あるいは「今本当に必要な」報道とは何かを考えることこそ大切だとかいってさ、基準に裁かれない自己満足の世界に逃げ込めるんだから。でも水道管は違います。水道管に基準は一つしかない。だから正当な入札が行われれば、値段も含めた上で、「いいもの」だけが選ばれるのです。ここに例外はまずありえません。だから一社だけ圧倒的に強かったら絶対にそこが勝ってしまう。報道は根本的には資本主義に取り込まれていず、ゆえに無責任に資本主義を礼賛できるのです。第三次産業が主流の社会に製造業の苦悩は理解されないのかも知れません。

体質改善を怠った点でクボタが批判されるのは当然です。けれども副次的な過ちにかこつけて、単なる手段である談合そのものを否定するのは勇み足ではないでしょうか。談合自体には善悪はないはずです。

世界標準なんておかしいです。資本主義の成功を信じた罪なき技術者を路頭に迷わせても「我こそ正義」と信じる思考法を、ぼくは信じない。

話は飛びますが、武力の問題も談合に近いと思う。武力自体は手段に過ぎません。問題は、何のための武力か、のはず。