趣味Web 小説 2003-01-27

対論:上智さん その1

某所(テキストサイト界隈)で話題の「エニグマのマリオネット」を読んでいて気になった一文。

人は何かを語る際に、自分の立ち位置というものを無意識に考えるものだと思います。私は木村拓也に対し、「演技が下手」とは言いますが、「不細工」とは言いません。前者は、俺でもがんばればあれくらい出来るんじゃないの本業だろしっかりしろよという意味が、後者には女性が10人いたら全員俺よりキムタクを選ぶだろうという賢明な判断(笑)が背景にあるわけです。つまり、自分と比較してどうこう言ってる。「ミスフル」程度の作品なら私にも書くことはできるという確信をもっているから「ミスフル」はつまらん! と言っているわけですし、「ハンター×ハンター」を書くことは出来ないだろうからマンセーしているわけです。

さすがに単純すぎる。以前にもあちこちで書いたことがあるけれども、自分にできるかどうかを立ち位置の絶対の基準とするのは、全く現実的ではない。ほとんどの人が、ほとんどのことについて何もいえない世界になってしまうからだ。

洗濯機が壊れたとする。ふつう、何か愚痴をいうだろう。日記の中でメーカに呪いの言葉を発するかもしれない。そして、ほとんど誰もこれを咎めない。でも、その壊れた洗濯機よりいいものを作れる人が世の中にどれだけいるのだろう? 個人、ということにこだわれば、一人もいないといってもいいかもしれない。

洗濯機は、まがりなりにもお金を出して買ったものだから愚痴や呪いの言葉を吐いてもいい、という意見もあるだろう。では、例えば高校野球の中継を見ている場合を例に出そう。応援しているチームの野手が致命的なエラーをしたとする。このとき、「バカヤロー」というような言葉を絶対に口にしないと断言できる人は、あまり多くないのではなかろうか。しかし、彼らのほとんどは、おそらくエラーをした高校球児よりも野球は下手だろうと思う。

いや、その例はちょっと違う、という意見もあるだろう。テレビの前で批難の声をあげるのと、Webサイトで批難するのでは、当人への言葉の伝わりやすさが全然違うではないか、と。では、こういってもいい。新聞のスポーツ記事はしばしば、エラーした高校球児を「練習不足」と決め付けたり「信じられないポカミス」などとこき下ろす。書いた記者は高校球児よりも野球がうまいのだろうか? まずそんなことはありえない。

自分の立ち位置を、自分にそれが可能かどうか、などというレベルで考えるのは単純すぎる。それは批判される側に有利すぎる発想だ。批判されることに慣れていない人はすぐにそういうことを言い出すけれども、もう少し冷静になってほしい。自分にできもしないことを他人に求めてもいいのである。それはごく普通のことなのだ。批判者の資格を、なるべく云々すべきではない。自分も口をつぐむ覚悟があるならば話は別だけれども。

いっていることとやっていることが違う、という批判はもちろん成り立つ。一貫性を正義の基準とするならば、それは理屈にかなっている。だから、上智さんのマサムネさんに対する批判そのものは説得力がある。本筋はいいのだけれども、余計なことを書いて話を見えにくくしているのが引用した一文。一見、同じ話をしているようで、じつはだいぶ論点がずれているのです。

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