趣味Web 小説 2003-01-27

対論:上智さん その2

引き続き「エニグマのマリオネット」の主張について。

批評-被批評における立ち位置の問題というのは、can-can’tの問題ではなくて、その批評に説得力があるかないかという問題だと思います。私はやはり、「ならお前がやってみろ」と言われて、その通り出来る範囲の事柄でない限り、その批評には説得力は生じないと思います(もちろん、批評を行うという行為自体は出来ます(can)が、その批評には説得力は発生しないということです)。

自分にできないことを主張しても説得力はない、のでしょうか。もしそうだとすれば、スポーツのコーチはみな選手が兼任しなければならなくなるでしょう。漫画雑誌の編集者は自分で漫画を描きはじめるか、さもなくば廃業するしかありません。世の中になぜ評論家という職種があるのか、あるいは教師の存在が許されるのか、もっといえば、会社の上司というのは何者か、といったことを考えれば、上智さんの仰っていることはあまりにも単純すぎます。

挙げられている実例に、ひとつひとつ反論してみます。

コージー富田という芸人がいますが、彼が物真似ライブをやっていたところ、観客に「似てないぞー」という野次を受けてぶちきれ、その観客を壇上にあげてタモリの物真似をさせ、晒し者にしたという出来事が昔ありました。

コージー富田が新春かくし芸大会に登場したとする。今年と同様に、集団芸の中で彼は得意の物真似を披露したとしよう。一通り終わった後で審査員が適当な感想を述べるわけだが、その審査員には道場六三郎のようなお笑いに関してはずぶの素人といってよい人もいる。さて、そこで「ちょっとコージーさんの物真似がね~」という意見が出た、しかもその意見に深く納得する空気が会場に流れていた、と仮定してほしい。さて、コージー富田はライブと同様の行為に及ぶでしょうか?

答えはわかりきっているけれども、ここでは発言者にコージー富田と同等の芸ができるか否かは問われないことに注意してください。

以前、トロンボーンの後輩が先輩に対し、「貴方は下手すぎて合わせられない」と言ったことに対し、もっと上手な先輩が、「お前の方がもっと下手だろう。お前レベルの奏者がそんなことをいうのは10年早い」から始まって泣くまで説教をしたということがありました(実際にその後輩の方が下手だった)。

後述しますが、こうした例からすぐに、自分にできもしないことはいうものではないといった教訓を導くのは早計です。

私はオーケストラに入っているのでよく判るのですが、上手か上手でないかで全てが判断される実力社会において、下の人間が上の人間を批判することはタブーなわけです。

では、音楽雑誌であれこれの批評をしている人はどうなのか、という話になりますね。あるいはコンテストの審査員が、必ずしも名奏者ばかりではない、ときには全く演奏のできない人が審査員を務めることもあるという事実をどう説明されますか。

同一空間における立ち位置を無視した批評行為に対しては、このように物理的な力を行使しての排除が行われることで、被批評者の救済が行われるわけです。

この一文だけにしか登場しない文言ですが、これは重要な指摘だと思います。先のオーケストラ参加者同士の例のように、同一空間においては「できる」かどうかが批評の資格と直結しているかのように見える場合が多々あります。批評の資格を、当人がその発言通りに「できる」かどうかで判断できるとする錯誤は、基本的にこの特殊な条件設定を拡大適用するミスが原因になっているのではないでしょうか。

ここで、次のような例を考えてみてください。

不器用で演奏は下手だけれど、音感のいい新人がいたとします。いつも先輩に怒られて「すみません」と謝ってばかりの彼が、あるときふと、ピアノの調律がわずかに狂っていることを指摘した。最初は笑い飛ばした先輩だけれども、後で調べてみたら、たしかにドの音が少しずれていた。新人はその後もちっとも演奏が上達しなかったけれども、ときどき先輩の癖を指摘したり、曲のリズムについて的確な意見を述べることがあった。次第に彼は周囲に一目置かれるようになり、とうとう楽器の演奏は個人の趣味にして楽団からは抜けてしまったけれども、その後もご意見番としてみなから相談を受け続けた。

行動が説得力を生むのだとすれば、言葉を発するという行動もまた、説得力を生むことが可能なはずです。よい演奏をすれば口先だけの人間は黙るしかない、というわけではなくて、それにも対抗できるだけの言葉を用意できればいいわけです。

多くの場合、できない人間はろくなことをいいません。ですから、生活の知恵というか、経験智としては「できないやつのいうことは信用するな」という警句は有効に機能します。けれども、言葉の内容を吟味して、有効か無効かを判断するのが本来のやり方です。しかし全ての言葉を吟味する暇なはない。仕方なく「誰がいったか」という基準を持ち出さざるをえない。もし「いいことをいっている」と気付いたならば、誰がいったかは問うべきではありません。それでは本末転倒です。よいとわかれば取り入れればいいのです。

上智さんの挙げたオーケストラの例では、後輩の批判がそもそも程度の低いものだったので、当然のように排除されただけのことだといえます。もし演奏は後輩の方が下手であっても、彼の意見が正鵠を突いていれば、先輩もその場では生意気をたしなめるとしても、結局はその言を容れざるをえないでしょう。素晴らしい演奏者であればこそ、正しい意見を無視することはできないはずです。しかし現実には、下手な人間の意見は99%がだめな意見だといってもいいわけです。ここに、(下手な人間には批判の資格がないという)錯誤の生まれる土壌があるわけです。

私が「初級Webデザインアドバイス」さんに対し、何の脈絡もなく批判行為を始めたら、掲示板やメールでの批判や、読者が無言で離れていくなどの「お前が言うな」の発展形としての排除行為が行われます。逆に行われない限り、創作の世界は冷笑主義者の楽園になって、何も作らずに他人を嘲笑いこき下ろしているだけの人間が勝つだけの野蛮なものになってしまうでしょう。

実際に政治の世界は既にそのような状態になっていて、その辺のオバちゃんが「小泉首相? 駄目ですよあの人は。改革なんていっても一向に出来ないんだもの」などと言って憚らない野蛮が行われることで、すっかり骨抜きになっています。創作の世界もその方向に向かっていくのであれば、私は反対せざるを得ません。

ここで本当に問題となっているのは、「自分にはできもしないことを偉そうにいっている」ことではありません。薄っぺらな意見、本来なら「バカバカしい」と一笑に付される程度の意見が力を持ってしまっている、あるいは力を持っているかのように扱われている、その倒錯した状況が問題なのです。その辺のオバちゃんの意見だって、聞くべきものがあるならば、良心的な政治家ならそれを聞かねばなりません。

2ちゃんねるは匿名掲示板なのでこの立ち位置が消えており、非常に野蛮な空間になっています(その野蛮さが魅力のひとつではありますが)。

例えば私のサイトが叩かれても、相手が特定できない

相手が特定できないことは、本質的な問題ではないはずです。よい意見は聞く、ダメな意見は聞かない、基本をそこに置けばよいわけです。ただし、従来のような「発言者による篩い分け」が不可能なので、情報処理の手間が一挙に増大します。あるいは、匿名の発言者は一律アウトとするようなことになりましょう。しかし、立ち位置が消えており、非常に野蛮というのは認識がずれているように思われます。みなが思い思いの意見を述べているという意味でそれは社会の縮図でしかないわけで、これまでは大勢の眼に触れずにきた圧倒的多量のくだらない瑣末な個人的意見が文字情報としてそこにある、というだけに過ぎません。

私は前回、私たちが日常、どれほど自分の分をわきまえない意見表明を行っているか、その例を挙げてきました。テレビの前で野球選手のエラーを罵倒してもそれは家族にしか伝わりませんが、2ちゃんねるに書き込めば多勢が見る、それだけの違いです。テレビの前で怒声を上げても、2ちゃんねるに書き込んでも、その説得力には差がありません。内容がどうなのか、それだけが問題なのです。

私は基本的に、機会平等を唱えているわけです。WWWを発明したティム・バーナーズ・リーはオンライン・ハイパーテキストのためのスタイルガイド(翻訳版)の中で次のように述べています。

しかし、もしあなたが他の人は関心を持ちそうにないシステムのあまり光の当たらない部分についてドキュメントを作っていたり、あるいはとにかく何かの情報があるだけでも読者はラッキーだと思えば、テストに時間を費やする理由はありません。その情報が必要なら、目指す情報にたどり着くために少々余分な苦労をしてリンクをたどり、あなたの書いたことを理解するべきであるといってもいいでしょう。これがもっとも効率的な方法かもしれないのです。私がこの点を強調するのは、一瞬の間だけ頭に浮かび、急いでファイルに走り書きされ、後の代まで伝える必要はないという情報が非常にたくさんあるからです。このような情報は、洗練されていない形でも利用できるようになっている方が、形が整っていないからといって隠されているよりもずっと有益です。電子技術が発達する前は、出版の労力が大きいためこのような情報は日の目を見ず、クオリティの高くないものを出版するのは無益で読者を侮辱するものとみなされていたのでした。こんにちにおいては、あらゆるレベルの「出版」が存在し、クオリティの高いものも急ごしらえのドキュメントも、いずれもそれぞれの価値を持っているのです。けれども、読者を失望させないために、こうしたものへの参照を用意するときは、ドキュメントのクオリティを明記しておくことが重要です。

いろいろな情報がとりあえず公開されるという状況は、決して悪いものだとは思いません。情報の取捨選択は利用者の自由に任されているのです。最初から公開されないのでは選択のしようもありませんからね。

発言者不詳の情報は信用しない、というのも一手です。2ちゃんねるは全部、無視したっていい。それで損することもいろいろあるけれど、情報処理の手間は大いに省けます。それだけのことではありませんか。上智さんは、情報の説得力と発言者を不可分とするから立ち往生するのです。情報はその内容によって説得力の有無が決まる、と考えれば、問題は簡単に解消できるはずなのです。

無根拠な差別(部落、在日など)は糾弾されるべきですが、根拠のある差別は本来肯定されているはずでした。

私も、情報の価値が平等だといっているわけではありません。しかし発言する機会は平等でいいと主張しているのです。誰がいいことをいうかわからない。いや、もう少し正確にいえば、誰がいいことをいうかはおおよそ想像がつくけれども、しかし予想はいつも少しだけ外れるものです。その「少し」が、なかなか無視できないのではないかと思うのです。

だから、私はこう主張するのです。発言者に発言通りのことが「できる」かどうかで情報を篩にかけるのは、たしかに便利な方法です。けれども、それで全部事足りると考えるのは単純すぎます。私は、時間の許す限り、情報の内容自体を精査する方法をっていきたい。

なお、2ちゃんねると冷笑主義については別項を割きます。

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