趣味Web 小説 2003-01-28

冬の日の思い出

奇啓示」を読んでいてふと思い出した父親のこと。

私が小学生の頃、我が家では食器の数が絶対的に不足していた。理由はわからない。ただとにかく、家族全員揃って朝食を食べたら、ちゃんと皿洗いをしないと夕食時に困ってしまうのだった。私が小学校低学年の頃、それはいつだって母の役目だった。

ある寒い冬の晩のこと。珍しく父の帰りが早かったらしく、私が夕食の時間ギリギリに帰ってみると、醤油皿が父と母の席の前にしか置かれていなかった。私と父は席が隣同士なので、私の席の前に置いてあった皿を自分の方へ引き寄せたらしい。私はまさか母の醤油皿を取るわけにはいかないから、台所へいって空いている醤油皿を探しにいった。

醤油皿はすぐに見つかった。洗い桶の中だ。水の底に沈んでいる。山葵漬けか何かのあとがまだついているのが見えた。そっと水に指を差し込んだ。凍りつきそうな冷たさだった。

母は廊下の納戸で何かを探していた。私は台所から上半身を出して、「何で醤油皿を洗っていないの!」と声を張り上げた。家中の壁がびりびりと震えたのは、その直後だった。

「***(私の名前)!!! こっちへ来い!!!」

父だった。私は、何がなんだかわからなかったけれども、もう涙をボロボロこぼしていて、台所から食堂へトボトボと歩き出た。

「おい、いつからお母さんだけが皿洗いをすることに決まったんだ? 答えろ!!!」

父の声は大きかった。いつも大声だ。怒るとさらに大声になる。父は怒り狂っていた。少なくとも、当時の私にはそう思われた。父の言葉が理解できたのは最初の一瞬だけで、あとはもう頭が割れるような大声の記憶しかない。……と、背後で何か声がする。それも何だかよくわからない。しくしく泣いていることしかできなかった。喉が詰まったようになって、声も出ない。息もできないような感覚だった。長い長い時間、真っ暗になった世界が続いたように思われたが、じつは一瞬のことだったかもしれない。

「……ね、あなたもう許してあげて」

ああ、母だったのか。背後の声が、ふいに私の頭に意味のある言葉となって到達した。私はワーンと声をあげて泣いた。

で、その日から夕食後の皿洗いは私の仕事となった。生来肌の弱い私は、あっという間に手にあかぎれができた。それはどんどん増えた。父は何も気付かない。だが、母はすぐに気付いた。「いいから、今日はお父さんいないから、私が洗うから、もういいよ」私はもちろん、皿洗いをやめない。救いようのない阿呆の私も、そのときには気付いていた。母の手はいつもがさがさで、冬にはいくつもあかぎれができていた。毎日私は母の手を見ていたはずなのに、その実、何も見えていなかったのだ。私は、自分に罰を与えたかったのだろうと思う。

結局、母は私を医者に連れて行き、私を叱り飛ばし、強引に皿洗いをやめさせた。父は、私が皿洗いをやめたことにも気付かなかった。自分が命じたことも忘れていたろう。父はそうした意味では愚かな人だった。

私は長らく、この話を母の思い出として記憶していた。しかしここ数年、この話を思い出すとき、私は父のことを考える。

ところで、なぜ「奇啓示」を読んでこの話を思い出したかというと、バカで過去の失敗に学ぶことのない私は、皿洗いから開放されて間もなく、連日続いた鍋料理に「また鍋か」と愚痴ってその食事を抜かれた挙げ句、翌朝より「自分の食べるものは自分で料理すること」と言い渡されてしまったからである。といっても、父が部屋にこもると母はりんごを剥いてくれたし、翌朝の朝食も味噌汁を作っているうちに時間切れになって、実際はほとんど母が料理したようなものだった。

一週間くらい料理勉強の真似事のようなことをしたけれど、結局は私が「ごめんなさい」と父の前でもう一度(当然、事件当日にも謝っていた)母に謝ることでお終いになった。そのとき父は、「ああ、そんなことをいったっけか」と不思議そうな顔をしていたものだった。そして暢気に「どうだ、料理を覚えるのは大切なことだから、これからも続けたらどうだ」などといった。私は料理するのが本当に嫌いだから、それだけはご勘弁とその場から逃走したものだった。今でも、料理は好きじゃない。

ただ、私は基本的に出されたものはご飯粒一つも残さない。多少は、食べ物に感謝できる人間になったのかもしれない。

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