趣味Web 小説 2003-04-06

はまぐりが可哀想

どうでもいいのだが、はまぐりが可哀想という表現につっこむ人はいないのか。この一言で、発端の投稿者レイさんの思想的立場は相当程度推測できるし、それに対する反論もかなりのところまで予想がついてしまうのだけれど。まあ私のいいたいことはいろんな人が分担して書いてくださっているので、これ以上付け足すようなことはない。以下は蛇足。

常識は自然と身についていくものだなんて考えている親の子どもは、たいてい非常識に育つのではなかろうか。私の両親は、魚料理を出すたびに私に魚の名前をいわせた。私は中学生になっても、しばしば答えを間違えた。予想もつかないことさえあった。何度も何度も食べてきた魚なのに、である。それでも両親、とくに母親は、諦めることなく私に魚の名前を教え続けた。ここ数年はさすがに毎回問うことはなくなったが、たまに実家に帰ったときにも、母はときどき思い出したように魚の名前を問うた。私はそのたびに頭を悩ました。教育とは、そうした途方もない努力の上に成り立つものではないのか。

自分の子育てに口を出されると、烈火のごとく怒る人が多い。私物化された子ども(そりゃまあ私物なんだろうが)はいい迷惑だ。親が誇り高い人間なのは悪いことではないが、根拠のない自信を振りかざされても困ってしまう。蛮勇ではいけない。素人の思い付きなど、たいていは失敗するのだ。過去の成功例、失敗例を数多く研究した方々が、様々な成果を発表されている。そうした中からよさそうなものを選んでいく方が、よほど現実的だろう。もちろん、選択にあたってはちゃんと自分で責任を持たねばならない。信じてバカを見たといって、信じさせた人を責めて思考停止に陥る人がいる。本当に、そういうのは子どもにとって迷惑な話だ。

……といったことを、以前、塾で仕事していたときにはよく考えたものだった。

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