シュリーマンがトロイ遺跡を発見したのは1873年の6月14日だといわれていますが、この日付け、どの程度信用できるものなのでしょうか。発掘作業は長いスパンで考えるもの(例えば竪穴住居跡の「発見」から「発掘完了」までには何日もかかる/掘り進んでいったら勘違いが判明することもある)ですから、トロイのような遺跡単位の話となると……。
ところで、トロイに町があったことは判明しましたが、トロイの木馬やトロイア戦争自体が証明されたわけではありません。火事で焼けて滅んだらしい、ということまではわかったものの、それが本当に戦争による火事だったのかどうかは今もって謎です。そもそも、シュリーマンが掘り出したのは本当にトロイだったのでしょうか。他にそれらしい(様々な傍証との矛盾が少ない)遺跡がないからトロイなんだろう、ということのようですが。仁徳天皇陵が本当に仁徳天皇陵なのかどうかはわからない、という話にも似ているような気がします。
古墳が天皇家をはじめとする有力者の墓だということは(ごく一部の人々を除けば)長いこと忘れ去られていた事実で、戦国時代には相当数の古墳が切り崩されたといわれています。その説のひとつの発端となったのが城跡の石垣研究でした。太閤殿下の死後、家康の覇権は全国におよび、家康の命令で各地に城が建設されます。家康は特定の大名に築城を命じたので、この時期の築城については研究がよく進んでいます。(注:家康が権力闘争に勝利し安定した江戸時代を迎えたため、家康方の大名家の資料は散逸を免れており、また築城記録がまとまって存在するので研究の効率がよい)
藤堂高虎は家康の信頼厚く、近畿地方を中心にいくつもの築城を命じられました。短期間に特定の地域で多くの城を建てる場合、もっとも入手に困る材料が石です。実際、この時期に建設された城の多くは、石をそのまま積み上げた荒っぽい石垣が大半です。石を磨いて形を整える作業には大変な手間と時間がかかります。1~2年程度で一定以上の規模の城を完成させるならば、石垣の質は大目に見なければなりません。さて、高虎の建てた城は一部にたいへんきれいな石が使われていることが知られており、長く謎となっていました。戦後の研究からこれが古墳からとられたものだったことがわかってきています。(石の表面に書かれていた文字などからわかったらしい)
考古学は少ない証拠と膨大な想像からなる学問で、石器がひとつ見つかった途端に町のパンフレットに古代集落の創造図が描かれるという状況。藤村新一さんの遺跡捏造事件では教科書も書き直されることになりました。少ない事実から……といえば恐竜の化石発掘とか、人類の祖先を探るなんて話はもうとんでもないことになっているわけで、例えば数千年後にたまたま日本でKONISHIKIの骨が見つかったら、「日本人はみんなでかかった」というところまで話が飛躍するんだろうな、と思ったり。