基本的に、「**されない自由」を認めると世界は死んでしまう。何をするにも批判者はいるから、どれひとつを認めても論理が破綻してしまうからだ。よって、他人に「**させない」ためには、お互いの自由な行動によって、結果的にそれを実現するという手順が必要になる。
人を殺す自由に対して、法律でそれを制限し、裁判にかけ、処刑する自由を持ち出す。処刑されたくなければ、本人の自由意志によって殺人を思いとどまるべし、というわけだ。あるいは、ある種の道徳や社会規範、常識などを持ち出して、幼少時から人をある種の価値観に洗脳するのも、けっこう有効だ。人には他人の自由を制限しようとする自由があるということ。そもそも自由の制限を禁止しようとするのは、自由を制限する自由への挑戦なのだ。
なんてことをいうと、不安にかられる人がいるかもしれない。けれども、人は決定的に他人の自由を奪い去ることなどできないのだから、自由を制限する自由を認めても根本的な問題は回避されているので、心配は要らない。……というのはエピクテトスかぶれの私だから、のんきにいっていられることか。エピクテトスの和訳は岩波文庫から出ているのだけれど、現在は品切れ。その代わりといっては何だけれども、エピクテトスに影響を受けたとされるマルクス・アウレリウスの「自省録」は岩波文庫で簡単に手に入るので、お勧めしておきます。
(エピクテトスの名前を出すと、なぜお前は「耐えよ」「控えよ」というたったふたつの教えをないがしろにするのか、といわれそうですね。その批判には返す言葉がない、という気持ちもありますが、あえて説明するならば、私はエピクテトスとは異なり、罪を犯さず静かな生活を送ることに重要な価値を見出さないのです。この転回を持ち込むことで、エピクテトスの考え方は大いに悪用できるようになるわけです)
ところで、
世間では、哲学というものは、社会の福利に寄与しえない営み、それどころか反社会的な営みであり、畢竟恵まれた者の観念遊技であって、むしろ滅びるべきものであるという認識が浸透しているはずです。
これには笑った。社会に浸透しているのは「哲学=どうでもいい」という無関心であって、積極的に滅びるべきとか何とか考えている人が多いとはとても思えない。自分が興味のあることにはみんなも関心があるはずだ、という勘違いがあるような気がする。