気負ってコラムを書くとき、ついついひねった結論にとびつきたくなるものだけれど、たいていそうした試みは失敗に終わる。今回は全文を引用する。
モデルのプロフィールを公開しているサイト。モデルの写真は雑誌や書籍をスキャンしたままのものを使用しており必ずしも綺麗ではないが、注目点はコンテンツへ導いたり切り替えたりするインターフェイスにある。
やや大きめのスクエアに小さく記されたメニュー項目。それをL字型、縦一列や横一列に配置しているシンプルな構成である。次の階層へ移るとメニュー配列ががらりと変化するが直感的に理解できる。それは構成自体がシンプルであること、移動過程を見ていること、の2つの要因のおかげであると言えるのではないだろうか。
ページごとに違うレイアウトで、ページごとに違うメニュー配置をデザインする。 これはユーザーに操作させる必要があるwebサイトの特性上、困難な制作ではあるが同サイトのコンセプトではそれを可能としている。シンプルだから、メニューがスクエアだから、できるデザインなのだ。と安易に結論をつけるのは勿体ないだろう。見た目のビジュアルに捕らわれず、インターフェイスの本質を考えていけば、どのようなビジュアルであっても同サイトのようなデザインを実現できるだろう。
メニューに使うディテールは共通でなければならない、なんて観念の奴隷になってはいないだろうか。インターフェイスの可能性を感じさられるサイトである。
- modelplus
- http://www.modelplus.com.pl/
第1段落に補足すると、ここで取り上げられているサイトは非常にシンプルで、なんとなればたったひとつのHTML文書で代替可能である。フラッシュを使って画面を細かく分けているのだけれど、要はモデルのプロフィールをたくさん紹介しているに過ぎない。閲覧者にとっては、ある意味で単調な作業を強いられかねないところ、面白い画面の動きで興味をひきつけようという発想のように思われる。もちろん一覧性が大幅に損なわれている欠点は否めないのだけれど、おそらく単純に機能性を追うよりも、このデザインの方が評判はいいだろうと思う。(このサイトの情報に興味を持つ人の大半はフラッシュコンテンツをうまく利用できることが予想できる)
それはともかくとして、なぜ話題にしているサイトへのリンクが登場するのは文章の最後なのか? 最初に紹介するべきではないのか。
さて本題。コラムの要旨は最終段落にある。メニューに使うディテールは共通でなければならない、なんて観念の奴隷になってはいないだろうか。
というわけだ。もちろん、大間違いである。このコラムは結論に引きずられて失敗した典型例だ。
第2段落では、レイアウトの遷移するデザインが成功している要因について、2点挙げられている。
ところが第3段落で、シンプルだから、メニューがスクエアだから、できるデザインなのだ。と安易に結論をつけるのは勿体ないだろう。
という。ならば、構成の単純さを理由に挙げるべきではない。単純でなくともよいのなら、変化の過程が目に見えること以外に、成功の理由はないということだ。だったらそう書けばいいのだが、苦し紛れの要因水増しが行われたのは結論が先に決まっていたからだ。
そう、modelplusがコーナ毎にレイアウトを変えても問題を生じない最大の理由は、レイアウト以外のディテールが徹底的に統一されているからなのだ。配色もスクエアの大きさもフォントも禁欲的に整えられている。そしてじつは一見自由に変化しているように見えるレイアウトさえ、厳しいルールに従っている。一番重要なポイントを思いつきで否定しているから、無意味な記事になっている。
なお、変化の過程が眼に見えていることは、重要でないわけではないが、必須項目ではない。だから、modelplusのような試みは、フラッシュを用いずとも実現不可能ではない。もちろん、そうはいってもこの試みがフラッシュ向きであることは否定しない。
おそらくこのコラムの筆者はMr.Qだろう。プロともあろう者が、無邪気に常識を疑って陥穽にはまるようでは、依頼者としては困ってしまうのだが……このサイトに寄稿している他の方々の文章を読んで、次第に私は脱力していったのだった。Mr.Qは大半の記事が「読める内容」だから、かなりマシな方だったのである。