もちろん当たり前に予想されていたことなのだけれど、サイトを作るのは異様に難しいことだということに改めて気付かされる。
僕が言っているのはレイアウトのことだ。HTMLタグなんて見たこともないような僕が作っているのだから当然のことなのだが、このデザインでいっぱいいっぱいである。他のサイトを見るとしゃれたレイアウトばかりですごいなあと思う。イメージはあっても技術がないのだから仕方がない、という妥協点が現状の我がサイト。
こうした文章を読むと、申し訳ないなあと思う。私は製作者の用意するスタイルにはあまり興味がないので、いつも自分好みのデザインに作り変えて閲覧しているからです。しゃれていてもいなくても、私にとってはどうでもいいわけですが、それもなんだか……。文章だけは、ある程度は読みやすくないと困るのだけれど。
ところで、無断引用
は著作権者にも禁止する権利がありません。したがって、私は引用に当たってSBさんの許可を取りません。引用元は、HTML4.01の使用にしたがい、blockquote要素のcite属性とtitle属性に記述しています。WinIEですと、マウスを引用部分の上へ持っていくとtitle属性の内容だけは表示されます。
Mozillaはとっくにcite属性に対応しているのにWinIEは……というのはよくいわれることですが、Mozillaの対応だっていまひとつだなあと思う。私がインターフェースの担当責任者なら、cite属性とtitle属性の両方が指定されている場合には、ポップアップするtitle属性に下線が引かれ、クリックできる/cite属性のみの指定なら、指定されたURIが下線付きでポップアップされてクリックできる/title属性のみの指定なら、下線なしで内容をポップアップ、という感じにするなあ。そうすれば、右クリックから別画面に開くとか、そうした閲覧者の自由も増えていいと思うのだけれど。
「著作権放棄」という考えはものすごく大胆で僕なんかは非常に驚いてしまった。もちろん彼の主張は、彼が創作畑の人間でないというところから来ている。小説や詩などをまがりなりにも自分の力で作り出している人間にはさすがにこういうことはできない。それでもその発想にやはり大器ぶりを感じざるを得ないのである。
ソフトウェアの世界では、著作権放棄ってのはそんなに珍しいわけでもなく……。それから、私が調べたところでは、著作権を放棄しているテキストサイトってのは探せばいくつも見つかります。「節足動物園」「ちゆ12歳(旧)」などなど。テキストサイトに限らなければ、それこそ無数にありますよ。
私の場合は、大器とかではなくって、単に著作権を管理するのがバカバカしくなったというのが正直なところかも。当初はいろいろ目論見とかあったのですが、すぐにそれはぐだぐだになってしまって……。でもかえってあれですね、好きにコピーしていいよ、といってもだーれもコピーしてくれないので、むしろ虚しいです。サイト批評サイトリンク集だけは、それなりにいいものだという自負があったから、わざわざ頼んでいくつかのサイトに改変と転載をしてもらいました。今思うと虚しいことをしたものです。
ところで、私は高校時代、文芸部と美術部に所属していました。文芸部では編集ばかりやっていたけれど、小説(自称)も書いたことがあるんですよね。詩も、部の企画上、どうしても書かなきゃいけないことがあって、書きました。原稿をFDの山から掘り出したらサイトにアップしましょう。もちろん、著作権放棄で。小説や詩などをまがりなりにも自分の力で作り出している人間にはさすがにこういうことはできない。
というのは、多方面にさしさわりがある一言。だから、私ごときが反証してみます。
これまでかきこんで頂いた方bbs変えてしまい申し訳ありません。
そういうときは、ログをちゃんとどこかに転載しておくといいんじゃないかな。というわけで、本日はここまで。
なるほど、と思うと同時に、アメリカ人への救いのなさに絶望的な気分にもなった。カナダ人の発想を理解することは可能だとしても、自分の価値観の中に取り入れることは難しい。しかも自分ひとりがカナダ人の発想になっても鴨になるだけだという現実があるから……。
SBさんには著作権再考というご意見をいただいています。以下はその回答。
僕の「無断引用」の解釈は2を満たさない、つまり引用元を明記しない(引用であることを読者に断らない)ものだと考えていたのですがこれは間違いなのでしょうか。
私の想定していた無断引用とは、著者に断りなく引用することです。無断転載の「無断」も同様です。ここでいう「断り」は、「許可」と言い換えられます。SBさんの解釈が間違いだとは思いませんが、注釈なしに通用するほど一般的でもないと思います。
しかしある人が、現在法律で守られていない権利を守られるべきだ主張する権利というのは認められているはずで、だからもし自分の文章を自分に許可を求めずに引用してはならないと主張される方がいたら、それは認められてないよ!とばっさり切り捨てるのではなくある程度その方の意思を尊重する必要もあるのではないでしょうか。
私は、尊重する必要
があるとは思いません。尊重してもしなくてもいいと考えています。必要がある、というのでは法律で決まっているのと同じことになってしまいますから。
さて、そろそろ本題に入らなければなりません。文学作品と著作権放棄という問題。まず断っておきたいのですが僕の「小説や詩などをまがりなりにも自分の力で作り出している人間にはさすがにこういうことはできない」というのはその人間が小説や詩などの著作権を放棄することはしないだろう、という意味です。その人間がたとえば画像やサイト批評文の著作権を放棄したりすることは普通にあり得ると思っています。
たとえば小説の著作権を放棄したら、出版社が著作権を放棄したWebページを見て、お、これいいじゃん、と言って紙媒体で出版しても文句が言えないということになるのではないでしょうか。もちろんその出版社は版権を独占できるわけはありませんが、だからといって著作者がその出版をやめさせることはできないでしょう。
それでどうなるかというと金銭や名誉の問題になってしまうので低俗なのですが、自分自身の作り出した芸術がただ人目に触れるだけで満足だという崇高な精神を持った人はともかく、一般的には自分が作り出したものなのだから自分のものとして認められたいと思うでしょう。そしてその可能性を考える限り、小説や詩などの著作権を放棄する人はいないのではないかと思うわけです。
では質問です。小説や詩と、私の備忘録や、Webデザインアドバイスでは事情が異なるのですか? 私は、出版社が私の文章で金儲けしてもかまわないので、著作権を一切主張しないのです。私はテキストコンテスト地方予選に小説みたいなもので挑戦するかもしれませんが、やっぱりそれも投票が終了し次第、著作権放棄を明言して当サイトへ転載します。そのときもSBさんはこういうことができますか。
そして少なくとも徳保さんは「小説や詩などをまがりなりにも自分の力で作り出している人間」には当てははまりません。昔書いたことがある、それだけのことで、創作意欲や作品への愛着が未だにあるようには見受けられません(埋まっているくらいですから)。それを別に非難するつもりはさらさらありません。むしろそちらの方が健全であるようにさえ思います。ただ徳保さんが昔書いた小説(自称)の著作権を放棄して載せても反証にはならないし、僕は別に驚きませんよ、ということなのです。
私が思うに、文章への愛着と著作権を手放さないこととは、必然的な結びつきがないのではないでしょうか。著作権放棄をうたうフリーソフトはたくさんありますが、しかしほとんどの場合、作者にはソフトへの思い入れが少なからずあるように思われます。
「一般的にはこうだ(例外はある)」という書き方なら、私にも異論はありません。しかし、小説や詩などをまがりなりにも自分の力で作り出している人間にはさすがにこういうことはできない
という一文は、例外の存在を認識しているようには読み取れません。だから、それは物の見方が一面的だと申し上げたのです。
世の中には暗黙の了解が随所に幅を利かせていますが、それは決して悪いことではありません。暗黙の了解は多くの場合、融通の利かない理屈と理屈の歯車の間で、潤滑油としてうまく機能しています。理屈がどうあれ、暗黙の了解を破る者が制裁を受けるのは、それが世の中のため人のためにならないからでしょう。暗黙の了解を守ることには、個人の自由を制限し、理屈を曲げるだけの理由があるというわけです。
私は自らの信じる理を通すため、しばしば暗黙の了解を破ります。当然、多くの場合は批難されます。あるいは、別の理によって批判されます。世間様のバランス感覚は概ねうまく機能していて、私は少しずつ暗黙の了解との付き合い方を学んでいっているという状況です。暗黙の了解は、ただひたすら守ればいいというものではありません。だから私はくり返し挑戦し続けるのですが、たいていろくな運命が待っておらず、私はそのたびに我が不明を恥じることになります。
かの孔子も弱冠15歳で学問に志し
てより後、学問・道徳を確立した
のが而立30歳、考えに一点の惑いもなくなった
のが不惑40歳、天命を悟った
のが知命50歳、人の話を聞けばすぐにその是非が分かるようになった
のはなんと耳順60歳になってからで、思いのままに振る舞っても世の道理に外れないようになった
のは死も近い従心70歳のときでした。
天命を知ることよりも、物事の良否の判断を無意識に取り込む方が難しいのです。私は而立の境地にもたどり着けずに死を迎えるのでしょうが、目標を従心において、日々勉強に務めたいと思っております。
このところ言葉の解釈で議論が引っかかることが多いので、もう少し気をつけていかなければと思った。もう少し、相手に好意的に解釈するよう、心がければいいのだ。もちろんそれは、一人勝手に議論が成立した気になって、じつは全然話が通じていなかった、という危険性と背中合わせなのだけれども……。
全体的には反論もないのですが、いくつか出ている質問にお答えしておきましょう。
私は非常に単純に考えていて、「必要ではない」ならば当然「してもしなくてもいい」と考えます。ふたつの言葉は同じことをいっている、という解釈です。さて、そうするとここにひとつ自由が与えられたわけですから、私はケースバイケースで、相手の意向の配慮する方が得か、しない方が得かを考えることになります。損得の基準もいろいろあるでしょう。ただ、私はここで選択の自由があるということに留意したいわけです。
「必要ではない」というのは「してはならない」とはまったく異なるわけで、配慮してもしなくてもいいということは、場合によってどんな立ち位置も選べるということです。私は引用は著作者に無断で行います。相手の意向は完全に無視します。それはなぜか。引用は無断が当然、という考え方の普及に燃えているからです。相手が噛み付いてきたら、むしろいい機会です。懇々と説明して、仲間を増やそうと努力します。
常に、ある程度の配慮が必要だ、といっていてはそのようなラジカルなことはできません。世の中にかえって面倒が増えるという場面も多々あるのです。急進的だから角が立って物事が進まない、あちこちに配慮しているから遅々として物事が進まない、いずれの場合もありえます。せっかく0から1までどんな値も取れるのですから、中庸の道ばかり選ぶのも、もったいない話です。
という話は、たぶんSBさんの意見とほとんど同じだと思います。
「次のようにいうことが可能ですか」の意味。
まあ、こんなのが正当な理由となるのかどうかわからないけれど、どうせ誰もパクらないという現実もあります。悩みが減るというのは案外、重要だと思うのですがいかがでしょう。
産経新聞の愛読者としては、今回のリンクと著作権の問題は心配していたことが現実になってしまったという感じです。わざわざ痛いところ(WWWへの理解不足)を自ら露呈することもないだろうに、と思いました。大手新聞社のサイトで最近までフレームを使い続けていたのは産経くらいですよ。ZAKZAKはいまだにフレームですよね。もうね、(以下略)。
産経新聞社はサーバをちゃんと設定して、表紙以外はサイト外からの参照を全て表紙へ自動で飛ばせばいい。なぜそれをやらずに、リンクする側を著作権侵害で脅すのだろう。産経新聞社といえば、私は大手町のビルの内部を見学したことがあります。たしかサーバとかみんな自社持ちだったはず。担当者もみんな社員で(ちょっと記憶が怪しい→記憶違いでした)。苦手な分野はもっとアウトソーシングすればいいのに、と思ったものでした。まあそれもしばらく以前のことですから、今はどうなのかわかりませんけれども。
私は通勤途中の空いた電車内で新聞を読むので、やっぱり紙が便利。だから毎朝駅の売店で100円出してます。会社や家で読むなら、電子朝刊がお勧め。値段も安いです。また田舎に行くと産経新聞、ないんですよね。でも電子朝刊なら大丈夫。会社でこれを取っている方がいらして、朝早く出勤して読んでいらっしゃいますね。まあ勤務時間外なら私用にネットワークを使っていいというルーズな会社だから許されることかもしれませんけれども。
私の勤める会社といえば、今期は人件費が売り上げを9%も上回る倒産の危機にあるのですが、労働組合は相変わらずの定期昇給と2ヶ月の夏季一時金を要求。当然、会社は「そんなの無理です」という回答。そこで本日より残業禁止戦術を開始。私は組合員じゃないのですが、一般社員だからそれにつきあわないと叱られてしまいます。結局、組合員の目を盗んで、こそこそとサービス残業する羽目に。なんで人目を憚って仕事せにゃならんのだ。とにかく生活費に困っていない私としては、給料を下げて夏季一時金もなしでいいから、倒産だけはやめてほしい。
せっかく手に入れた楽しい研究職を手放したくないです。(後ろ向き思考/でも会社が倒産したらもっといいところへ行くんだ、なんていってる同期の能天気には付き合い切れない)
引用符について。
私は文中であげられている例について、鍵括弧が引用符であると断言する根拠を持ちません。だから賛同はできないのですが、注意を喚起させられたということで。このタイミングだけに。
跡地の件の言及サイトは3月3日以降拾わない、と公言したのですが、今回は騒動の話は抜きで日本語の問題として考えてみたいのです。ということで皆様、ひとつお目こぼしを……。
例の日記で筆者が最も述べたいことは、「パクられたかも知れない」という旨でも「自分の物語と類似した物語があった」という旨でもなく、「私はパクっていない」という旨であるのに、何故この部分に目をくれずに、かくも見当違いな要約をしてしまうのか、言語感覚を疑わずにいられない。
それは話が違うのではないでしょうか。国語の問題で「次の日記を要約しなさい」と問われたのなら、私はパクっていない
が正解なのかもしれません。しかしながら、騒動の初期に争点となったのは、日記から「ゆきさんが間宮さんのパクりを疑っている」と読み取ることに正当性があるかどうかでした。ゆきさんの作品が先発であることはあらかじめわかっており、ゆきさんがパクっていないことは自明でした。だから、ゆきさんの日記の主旨はどうでもよかったのです。
そこで焦点となったのが、「パクられたっ」と私が思われたらやだな。
という一文の解釈でした。プリシラさんは、ゆきさんが間宮さんのパクりを疑っていると判断して、ゆきさんを責めました。騒動の初期には、この一文からプリシラさんのような解釈を引き出すのはおかしいという意見が優勢でした。ゆきさんはあくまでも自分が疑われることを心配しているのであって、間宮さんのパクりを疑っているわけではない、と。頭も冷えた今あらためて考察するに、私はプリシラさんの解釈が自然だと思います。自分がパクりを疑われる危険性を心配すること自体が、両作品が酷似しているというゆきさんの認識を示唆しているからです。
少々脱線しましたが、いずれにせよ、話題になっていたのはゆきさんの日記全体の要約ではなく、ゆきさんが間宮さんのパクりを指摘しているのかどうかということでした。だから、ゆきさんの日記の要点は、パクられた
またはパクりを疑われたら嫌だ
のいずれかとされたのでした。
ところで、そもそも相手を伏せつつパクりといったから角が立ったのであって、最初から両作品へリンクして共通点をあげ、「似た作品を見つけて吃驚しました」とでも書けばよかったのでしょう。パクりという言葉は、必然的に罪の存在を示唆します。危険な言葉です。似ているというだけなら、法的にも道義的にも問題なかったわけです。言いっ放しでお終い
にもできたことでしょう。(ごめんなさい、騒動への言及もやっちゃいました/一応、日本語の問題ですが)
こちらは著作権の話。
日記の内容自体は一種の極論なのですが、その後の閲覧者とのやり取りが興味深い。ただし、いくつかの理由により非常に読みにくいので、目を通される方はあらかじめ気合い入れておくとよいでしょう。1行レス式の掲示板での長文書き込みは……。
著作権法も結構厳しいなあ。保護されるのは表現のみ、だなんていうけれど、この「表現」という言葉はかなり広い意味で使われているみたい。全面的に文章を書き直しても翻案といわれる罠。
清水徳保周辺に興味のある方はしばしお待ちください。僕は純然たるテキストサイトを目指しているはずなのだけれど、いつの間にこうなってしまったのだろう。
私は疫病神でして……。いや、ほんとうに申し訳ない。斬鉄剣と同じで、関わるとろくなことになりません。あ、たぶんテキコン地方予選だけは大丈夫だと思いますよ。応募作品で他サイト言及というわけにもいかないでしょうから。
斬鉄剣ついでにひとつメモ。3月11日よりGokuriグレープフルーツ再発売。販売停止から4ヶ月、グレープフルーツがとうとう実ったんですね。本日、近所のコンビニにもようやく並びました。なぜか新発売の札がついていて苦笑。これから段々、自販機にも戻ってくるのかな。とにかくナミさんには朗報でしょう。
連邦の読者数が産経新聞読者の10%にあたるという話だけれども、産経のサイトはASCIIムック「Web Design 2003」によれば一日350万ページビューですから、ちょっと話が違うかもしれない。ちなみにZAKZAKは一日1000万ページビュー、サンスポ.comは一日900万ページビューだそうですよ。ほぼ日刊イトイ新聞は一日50万ページビューだったりします。
独創的なアイデア≠著作物という判例。
それにしても、知的財産権関連の主要判決速報だけでも読みきれないほどの量がある。弁護士が各々専門分野を持つのも頷ける。
昨日紹介した新聞記事などの要約はダメ?とあわせて読むと、著作権法の強力さがわかる。判例によりけりながら、「表現」の解釈がかなり拡大される場合もあるのだ。
とくに後者、フェアユースについての一考察が興味深い。しかしこの方も、HTML文書における引用のやり方についてはまったく無知なようですね。というか、HTMLについてまったく無知なようです。