私はふつう、同じサイトを毎日見ない。低速回線の利用者なので、それはちょっと非効率だからだ。そこで、半月に一度とか、それくらいのペースでまとめ読みすることになる。「迎賓館裏口」と「かおあり」とのやり取りは、昨日になって初めてちゃんと読んだ。で、これはちょっとなあ、と思うことがあった。
やり取りの概要はこの通りですが、私はどちらのサイトもいくつかの点でやり方を誤っていると思う。まず、特定の誰かさんを批判するのに、その名前をあえて書かないというやり方はよくない。「迎賓館裏口」の柊さんは「斬鉄剣」の名を伏せ続けている。「かおあり」のナカムラさんは「迎賓館裏口」の名を伏せ続けている。だが、読者が批判対象のサイトを知っていることを前提に文章を書いている。奇妙な、あるいはふざけた話だ。
私は参考文献の筆者と異なり、特定の誰かさんへの批判をするなら読者にその対象を明らかにするべき、との考え方を他者にどんどん求めていく。応じない人がいれば、さらに批判する。読者として、相手を伏せつつ特定個人を批判する文章には大いにストレスを感じる。許しがたい、とさえ思う。とくにナカムラさんのように、情報操作
を批判する文章を書く際にこのような手を使うのは、どうかしているといわざるをえない。別の日に書いた別の文章ならまだわかる。情報操作を糾弾するその文章中で、自分自身があからさまな情報操作をする。これではお話にならない。
昨日、とあるサイトである文章を読んでものすごくいやな気分になった。その文章を読んで僕は思った。
こういった書き方は、悪質な情報操作にあたる。なぜか。それは読者から判断の手段を奪い、一方的に自分の意見だけを主張するやり方だからである。一般論を述べているならば、相手側の発言をうまく参照させることができない。これは不可能なのだから仕方ないという他ない。しかしナカムラさんは特定のサイトを批判しているのだ。リンクをひとつ用意するだけで、読者に判断の根拠を参照情報として提供することが可能である。にもかかわらず、ナカムラさんはそのようにしなかった。
前回の更新の後、カウンターがえらく回ってるので何事かと思ったらアクセス解析を見てびっくり、テキスト系ニュースサイト(ダークマター)にトピックスで取り上げられていた。
取り上げられないことを前提にして書いていたのだけれど。
そのために具体的なサイト名も出さなかったし、どこへもリンクを貼らなかった(むしろリンクを消した)のにね。
忘れていたわけではない。わざとだったのだ。なんということだ。ナカムラさんは一体、何をいっているのか? たとえ読者が一人であっても、リンクを貼るべきだったのだ。そうでなければ、それは情報操作に他ならない。散々自分の意見を吹き込んでから、読者がニュースサイト経由で独力で言及先を見つける、などというのがよいことだと思っているのだろうか。
誰某がこういった、こういうことをした、というならば、証拠を示すべきである。リンク先を読まないのは、読者の勝手だ。その読者は、無条件でナカムラさんを信じることにしたのだろう。私はナカムラさんを信じないから、リンク先をちゃんと読みにいく。そしてナカムラさんの主張の信用度を自ら判断する。リンクがあれば、読者はちゃんとした証拠に基づいて自分の立場を決めることができる。だが言及の対象を隠されてしまっては、読者はナカムラさんの記事だけから物事を判断しなければならないことになる。これは、読者にとって明らかな不利益である。
ニュースサイトに取り上げられるとかそうでないとかは関係ない。読者が自分以外に一人しかいなくたって、リンクは用意すべきだった。あるいはせめて、「迎賓館裏口」という名前を出すべきだった。そうすれば、読者は検索エンジンからそのサイトを突き止められる。当該記事も頑張って見つけることができたろう。いずれにせよ、ナカムラさんがそれにあんな、わかる人だけにはわかるというような底意地の悪い悪意を隠した文章を書くような人間に、今さらなにか語れるような中身も言葉もあるとは思えない
なんて書くのは、それこそ嘘じゃないんだったら最悪に自己分析力がないってことですね
と申し上げたい。
しかもね、僕はどこのサイト名も出していないのに、なぜだかどこかのサイト名を出しているし(違ったらどうする?違ってたらどう責任をとる?)。
あと、「かおありに対して相手のサイトは反応なしですね。」というメッセージが届いたんだけど、「相手のサイト」というのがどこを指しているのかは知らないけど、少なくとも相手のサイトはあのトピックを呼んでいるのは間違いないし、僕の書いた文を読みもして自分のことだというのはすぐにわかっただろうけど別に反応はいらないです。上でも書いたようにそういう目的があったわけじゃないので。
特定のサイトを批判しているわけですよ、結局。名前さえ出さなきゃ逃げられるとでもいいたいようですが、これほど特定のサイトを想起させるような書き方をしているのだから、もし対象サイトが違ったら
、それは読者ではなくナカムラさんこそどう責任をとる
のか考えなきゃいけないはず。
もしナカムラさんの言及しているサイトが「迎賓館裏口」以外だったなら、柊さんはナカムラさんの誤解を招くような文章を訴えていいだろう。読者も被った不利益について謝罪を要求していいだろう。これだけあからさまに書いておいて、固有名詞ひとつ伏せただけで言い逃れできると思っているその神経はどうかしている。
私は柊さんにも同様の批判をしたい。
今日はちょっとたとえ話を。
インターネットの中には、日記を書いたり、エンターテイメント系の文章を書いたり、日記の傍ら商品の告知をしたり、論戦したりする個人Webサイトがたくさんあります。幾つかのエンターテイメント系サイトを頂点として、これらの個人Webサイトは遠かったり近かったりするリンクで緩やかに繋がっていたとします。ここから先では、この集まりを仮に「テキスト村」と呼びます。テキスト村は、小さな小競りあいを起こしたり、事実無根のうわさ話が飛び交ったり、あるいは噂に尾ひれが付きすぎてひどいことになったりしながらも、まぁまぁ仲良くやりながら人口を増やしておりました。
この村に、根は悪い人ではないのだけれど、少しばかり言動が粗暴で態度が大きかったために一度村八分になってしまった人が一人いたとします。仮に、彼の名前を田中さんとしましょう。田中さんは、村八分になった自分を反省してしばらく隠居していましたが、ふとした偶然から村で一番の数字を持つサイトからリンクされました。1日に何千人もの人がリンクから流れてきます。田中さんは考えました。そうだ、これからは悔い改めて、新しい村人のためになることをしよう。しばらくして彼は道端で説教を始めることにしました。
ところが、田中さんは無駄に喧嘩っ早い性格のうえに思慮が浅く、説教をしている脇で小さなヤジが飛ぶと、すぐさまそこにリンクを張って喧嘩を始めてしまいます。人の喧嘩とは面白いもので、他の住人が田中さんのサイトにリンクを張り始めました。田中さんの、過去の反省を生かしていない振る舞いをみた住人の幾人かが田中さんに意見をしたり非難をしたりしましたが、田中さんはどこ吹く風。この村での喧嘩は、数字の大きいものが何となく勝ってしまうのです。最初のうちは説教に感心して聞き入っていた人たちも少しいたのですが、彼らにしても徐々に「何か変だぞ」と思い始めていました。
そんなある日。田中さんのサイトはプロバイダの事情によって移転しました。村一番の数字を持つサイトからのリンクは移転前のサイトに張られていたので、田中さんはそこに移転先へのリンクを残しておきました。そうすれば、今まで通りリンクから数字が流れるからです。ところが、新サイトへの移行猶予期間を終えたプロバイダは、古い方のサイトをとうとう削除してしまいました。もう、村一番のサイトから、田中さんのサイトへは数字が流れなくなったのです。
さて。このお話はあくまでたとえ話なんだけど、もしも田中さんみたいな人に心当たりがあって、その人のことを内心苦々しく思っている人がいたとしたら。リンクを切るなら今です。
波風を立てたくなければ、リンクを古い方のURLにこっそり直しておくといい。田中さん自身や、田中さんを好意的に受け止めて更新を読んでいる読者にとって最大の不幸は「田中さんが無駄に数字を持っていること」だと思うので。
そして、もうそれっきり田中さんの話題に触れないこと。最もしてはならないのは、田中さんのサイトに不用意なリンクを張って数字を流すことです。
僕も、もし田中さんみたいな人がいたとしたら、田中さんのことを知らない読者が見てしまって気分を害することがないよう、サイト名すら出さないでしょうね。
この情報操作には納得できない。「斬鉄剣」を読んでいない人を洗脳している。田中さんのことを知らない読者が見てしまって気分を害することがないよう、サイト名すら出さない
という傲慢さは一体なんなのだろうか。例え話をするのはいいが、一体何の例え話なんだか明かさないというのはひどい。わかる人は別にいい。わからない人がいるということが問題だ。
わからない人は、運がよければそのうちに「斬鉄剣」にたどりつく。しかし、柊さんの提示した情報から「斬鉄剣」にたどり着くルートを想像すると、相当量の事前の刷り込みが行われてしまうことに気付かされる。柊さんの記事に「斬鉄剣」へのリンクがあれば、あるいはせめて「斬鉄剣」という名前が出ていれば、印象の固まる前にすぐ訪問することができる。柊さんのとった方法は不公平なやり方だった。柊さんはたしかに内心苦々しく思っている人
はリンクを外そうといっているに過ぎない。だから「斬鉄剣」を知っている人にはとくに問題のない記事だ。けれども、この記事を読んですぐに「斬鉄剣」を想起できない読者に対しては、まずいことをした。
柊さんは、「斬鉄剣」を読んで「いいサイトじゃないか」と言い出す人が現れるのを未然に防ごうとしている。人様の判断に任せておくとそういうことが起こりかねない(というか頻繁に起こる)ものだから、最初から判断させまいとしている。「斬鉄剣」を素晴らしいと思うような人は何が正しいか自分では判断できないから、そうした人が「斬鉄剣」に騙されることのないよう名を伏せておこう……ヤバイことをやっている、と思わないのだろうか?
特定の相手を批判するなら、名指しでやってほしい。それが読者にとって一番よい。ニュースサイトをチェックする程度の手間も惜しむような読者など知らない、というならもうこれ以上いわないが、それでも読者に対して不誠実な方法で自説を説いているという自覚はほしい。
「かおあり」が更新されている。名指し批判に切り替えられている。よかったよかった。でも、せっかく書いた批判文を公開する前にこうなってしまったのは、なんとなく悔しい気分だ。
とはいえ、批判するなら名指しでやれ、というのは正直おまけに過ぎない。最初にムッとしたのがそのことだったというだけで、私が長い文章を書いたのは「かおあり」の主張にたいへんな違和感があったからだ。この件は、名指し問題を切り離して、あらためて書く。
……などと書いていたら、また名指し批判を引っ込めてしまった。じつにふざけた話だ。人の迷惑をもう少し考えてほしい(とまで書くのは私のわがまま)。
「かおあり」でナカムラさんはこう書いている。1月17日のことだ。
前々から思っていたのだけれど、無関係な第三者が特定の誰かについてあれこれ非難する、それも不特定多数の人間の前、ぶっちゃけた話web上でするという行為が嫌いだ。
コトの発端は、他サイト言及が嫌い、という個人的な感覚だった。しかしナカムラさんは後の段落で好きなものは好きで嫌いなものは嫌いでいいだろうし、それを意見や感想として書くのも自由なのかもしれない
と書いている。ここで終わっていれば、これはよくある意見に過ぎなかった。
ましてや自分の意見がさも常識的で、なおかつ他にも自分と同じ意見の人が大勢いるかのごとく錯覚させるように書いてある文章は姑息で卑怯に見える。
なかなか難しいことをいいだした。ナカムラさんの文章だって、他にも自分と同じ意見の人が大勢いるかのごとく錯覚させるように書いてある
ように見えるのは私だけではないだろう。何らかの意見を表明する文章を書く場合、必然的にそうなってしまうのは致し方ない面がある。だからこれは虎の尾を踏むことになりかねない危険な話題なのだが、ナカムラさんは平気な顔をしているので、私は少し驚いてしまう。自分は大丈夫だと思っているらしい。
それでも、ここまでは私にも中村さんのいわんとすることは理解できた。問題はこの次である。
さらにその文章がある行為を示唆する煽動的な内容を含んでいたらそれを書いた人はむしろ哀れに見える。もはやその文章は意見でもなければ感想でもなく、独り言ですらない。それは目的という名の意図を持った行為である。
ナカムラさんは、他者に行動を呼びかける意見、感想、独り言などありえないといっている。それは目的という名の意図を持った行為
という唾棄すべきものであると。
この主張は、私には理解できない。そもそも人は何か目的があって意見するのだから、目的を持った行為と意見、感想は不可分なのだ。なぜこれを分離しようなどという不可能に挑戦するのか。また、目的ある行為をするのがなぜもはや
とか哀れに見える
とかになるのか、これもさっぱりわからない。
煙草は体によくない。だから喫煙はやめようよ。例えばこうした単純なタバコ批判は、JTに対する営業妨害ともなりうる。まあこういった主張なら、私にもわかる。しかしナカムラさんは目のつけどころが違う。ある行為を示唆する煽動的な内容を含んで
いることに着目し、発言者を哀れ
み、その発言はもはや
、意見でもなければ感想でもなく、独り言ですらない。それは目的という名の意図を持った行為である
と断じて批判するわけだ。これは、かなり個性的な意見だと思う。
僕がいやな気分になったのは「ある特定のサイトに対して例え話を使ってある行為を示唆する」文章だったからだ。
それは自分の影響力を利用した姑息な行為である。
その文章を書いた人の見たくもない人間性を見たようで気分が悪くなったのだ。
ナカムラさんが気分を害したこと自体は個人のことだからとやかくいわないが、その理屈として自分の影響力を利用した姑息な行為
を持ち出すとなると、ご勝手に、ともいっていられない。
他者に何らかの行動を呼びかける際、自分の影響力
を利用しないわけにはいかない。NHKの歳末助け合い運動などそのまんまだし、あるいは拉致被害者家族会はその影響力を維持するために横田滋さんの訪朝を阻止し、あるいは影響力を増進させるために渡米し国務省高官と会談することを狙っていたりする。教師や親がしばしば、権威を不当に傷つけようとする子供の挑戦に敢然と立ち向かうのは、自分の影響力を保つためだ。他者に何事かを働きかけるには影響力がなくてはならない。そんなことは常識ではないのか。影響力を利用した働きかけを姑息
と呼ぶのはどういう了見なのか。
ナカムラさんはここでも不可分の事象を無理やり分離しようとしている。その意図は何なのか。
閲覧者に対しニュースサイト管理人が自分の主観を意見・感想として述べるのは自由だろう。
ただそれを一般的概念であるかのような表現で語るのは「情報操作」に等しい。さらにある行為を示唆するような文章を自分の影響力を認識した上で語るのは姑息だ。
まず、私はナカムラさんに一般的な概念であるかのような表現
を用いずに説得力ある記事を書くにはどうしたらよいのか、具体的にどのような表現を用いたらよいのか、と問いたい。自分にもできないことで他者を批判するなといっているのではない。そもそも不可能なことを求めるのはバカバカしいといっているのだ。
次に、ナカムラさんは公正な報道とはどのようなものだと考えているのか。私には「AとBという勢力があったとき、そのどちらにも与しないのが公正な報道の姿だ」などと単純に考えているように思われる。よく考えて頂たい。報道機関にはそれぞれ拠って立つ言論姿勢がある。読売新聞は経済政策はデフレ対策優先、産経新聞は経済政策は(基本的に)構造改革優先だったりする。政府が構造改革路線をよれよれになりつつも継続していることを産経は支持するし、読売は激烈に批判する。つまり、自社の言論姿勢と合致すれば当然支持し、そうでなければ批判するのである。したがって、もし読売新聞の掲げる言論とまったく歩調をあわせた政党がもし存在すれば、読売はこれを全面支持する。
重要なのは、自民党だから支持しない、民主党だから支持する、といった立場をとらないということだ。その一点で、おそらくは公正さを担保しているのだろうと思う。とにかく、報道機関が特定の人や物を支持したり批判したりすることは少しも変じゃない。そして、支持や批判のひとつの形態として、人々にある行動を起こすことを呼びかけることもある。以下、いくつか例を挙げる。
ナカムラさんがなぜ、ある行為を示唆するような文章を自分の影響力を認識した上で語るのは姑息だ
などと断じるのか、私には理解できない。一体どういうロジックからそのような意見が生まれるのだろうか。そのあたりを解説していただかないことには、私がナカムラさんの意見に説得力を感じることはないだろう。
というわけで、ナカムラさんのその後の発言も、やっぱり理解できないのである。
続く1月24日の更新分は相手を伏せる卑怯なやり口がたいへん目立つ。この件への批判は昨日書いたからここではもう繰り返さないとして、ここで疑問をぶつけたいのは次の一文。
ただ、最近テキスト系ニュースサイトが成長してきた影響か、「変な状況」が生まれてきているような気がする。なんだそりゃ?ときかれるとうまく説明できないけど。そのうちテキスト系ニュースサイトの影響を当て込んでなんかやろうとするおかしな人とかぞろぞろ出てくるんじゃないか?テキスト系ニュースサイトのことを心配しないとテキストを書けないような状況になったりしないだろうか?
まず、テキスト系ニュースサイトの影響を当て込んでなんかやろうとする
のはおかしな人
なのだろうか。例えば冒険家などという職業が成立するようになったのは、成長したマスコミの力による。自然災害に対して義援金という形で全国からお金が集まるようになったのも、報道が庶民に普及したからだった。もっといえば、いまどき広告を考えないでやっていける企業がどれだけあるというのだろう。これは一般消費者向け製品を扱う企業に限った話ではない。今やあらゆる産業分野には業界紙(誌)があり、重要な役目を果たしている。情報産業の影響を考えないわけにはいかないのである。
とはいえ、個人サイトというのは多くの場合は趣味だから、成功しようと失敗しようと、それは人生において決定的な問題ではない。自分の考える成功のためにニュースサイトの影響力が利用できることに気づいたとして、本当に利用するかどうかは当人の勝手なのだ。ただしひとついえることは、そこに利用できるものがあるから利用する、というのは別におかしなことじゃない。ごく自然なことだ。ナカムラさんがなぜ、それをおかしなことと断じるのか、私にはさっぱり理解できない。
携帯電話が普及すると、多勢の人々が、それまでやらなかったことをやりはじめた。ちゃんと時刻と場所を決めずに集まる約束をしたり、暇をみつけては一心不乱にメールを打ったり、どうでもいい写真をどうでもいい機会にパシャパシャ撮っては無駄に誰かに送ってみたり。使いもしないストラップをいくつもほしがる人なんかもいたりして、携帯電話では妙なことで儲かった人がたくさんいた。スポーツが代理戦争であるように、趣味も一面では社会の縮図といえる。新しい状況が生まれたとき、それを利用しようと画策する人が登場するのは不思議なことではないのだ。
次に、テキスト系ニュースサイトのことを心配しないとテキストを書けないような状況になったりしないだろうか
という心配だが、これは杞憂だろう。心配したければする、したくなければしないだけのことだ。たしかにニュースサイトによる負の影響、というものはありうる。けれども、結局のところニュースサイトにできることはある種の客層を一定数流すことだけである。しかもそれは長続きしないときている。参っちゃうなーという紹介のされ方をしたって、一週間もたてばみんないなくなって元通りになる。
基本的に客が増えることはあっても減ることはない。もし増えてしまって、それが嫌だという場合、みな知っての通り、客を減らすのは簡単なのだから、やっぱり心配はいらない。ニュースサイトを利用してやろうという人以外は、ニュースサイトのことなど忘れてしまってかまわない。ときどき爆発的なアクセスがあっても、ふーんと思っていれば波はいずれ引く。だからはっきりいって、無関心であろうとすればとことん無関心でいることができて、そこに目立った不利益は生じない。
で、なんでこんな当たり前のことにナカムラさんが気づかないのか、それがわからない。ひょっとすると、すぐに波は引くとしても、ネガティブアクセスは確実にサイトの敵を増やすといった心配なのだろうか。サイトを見にこない人が、サイトに悪感情を持っていたって具体的な問題にはならないと思うのだが、そうそう割り切れないということなのだろうか。
続いて1月27日の更新分について。すでに主な論点は出尽くしているが、あらためていくつか言葉をひろってまとめとする。
なんでこんなにくどいほどぐたぐたこんなどうでもいいことに絡むように長々書くかというと、ニュースサイト系が特定サイトに対してマイナス方向の呼びかけを行えばそれは世論操作(やろうと思えば手間隙惜しまなければニュースサイトは簡単に情報操作が可能)による一種の攻撃でしかないからです。例えどんな理由があろうとやってはいけないことだし、それは程度問題というようなことではなくそいうことをやること自体が実際にやる間違ってる。そういう攻撃をやるニュースサイトというのは害悪でしかないので駆逐されるべきだと思います。(もちろん一般サイトによる他サイト攻撃がいいわけない)
……。例えば「鈴木宗男は議員辞職しろ」などとよくわかってもいないのに偉そうに書いているサイトは星の数ほどある。鈴木宗男ならどんなにひどい中傷やら何やら(批判の範疇を超えた攻撃まで)行われても咎める人がいないのに、自分に近しい存在だからだろうか、身の危険を感じるのだろうか、個人サイトを対象とした批判は許せないという人が、あんまりにも世の中には多すぎる。
いったいどういうロジックでそのダブルスタンダードを両立させているのか。個人サイトへの攻撃は、見ていて嫌だ、というのはわかる。感情の問題ですよ、というなら。けれども、ナカムラさんがまさにそうなんだけど、自分の意見がさも常識的で、なおかつ他にも自分と同じ意見の人が大勢いるかのごとく
自信満々の文章で、例えどんな理由があろうとやってはいけない
だなんて、どうして主張できるんだろう。最悪に自己分析力がないってこと
なんだろうか。(こうしてあっさり自分の言葉で斬られてしまうのは残念なことだと思う)
誤解のないように、僕が間違っているといいたいのは「ニュースサイトによる他サイト攻撃もしくはそれに類する行為」なのです。
誤解なんかしていませんよ、私は。ナカムラさんがニュースサイトによる他サイト攻撃もしくはそれに類する行為
を糾弾する、そういう馬鹿げた意見を一般的概念であるかのような表現で語る
ことができるのはなぜか。
これは定説です、みたいな物言いではなく、ちゃんとなぜそう考えるのかを説明していただきたい。いや、マジで。