誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断する人ですから。
読み手としては、そうあるべきだ、というのが私の考え。しかし書き手が読み手に一方的に期待するのは、無責任な発言をいたずらに助長しそうなので賛成しかねる。こうあってほしいと考えるのはかまわないが、現実的な状況認識も持っておいた方がいい。厳しい状況認識があればこそ、「いかに言葉を伝えるか」という悩みも真剣味を帯びる。
徳保たんの名無し批判は、今回の文脈だとこういう事でしょ。
2ちゃんのスレで「漏れの意見はスルーかよ」とか、「2ちゃんねらはシカトでつか」とか、妙な自己主張するなと。そんなに「自分の意見」を言いたいなら(サイト持ちなら尚更)、コテハンで文責を負いなさいと。
名無しである以上、「その他大勢の外野の意見」と見られても仕方ないんじゃないの?
書き手としては、この辺りの認識は厳しくとっておいた方がいいのではないか。少々いいことをいうだけでは、名無しの言葉が歴史を動かすのは難しいという現実がある。だからもっと説得力あふれる言葉を紡ぐ、というのもひとつの方向だし、自サイトでの発言に切り替える、というのもありうる手だろう。提言スレでは「ここをどこだと思っているんですか?」といった発言が頻出だ。2ちゃんねるなのだから、無責任な暴言が多いのは当然、という文脈で使われている。無責任な暴言を少しでも減らそうといった努力を放棄しているわけで、これではさすがに相手にされないのも仕方がない。安易に開き直らず、スレ住人が頑張っているスレはいくつもあるのだから。
ちなみ、桃のスレと提言スレを比べても無意味。集いに対する鬱憤を晴らしたい人は提言スレで叫んだり、ヲチしたりしている。まじめな話がしたい人は桃に行く。使い分けなんだよ。
私にとって苛立ちの原因になるものが2ちゃんねるのスレに集中する理由はこれか。なるほど、たろたまスレと流れが違ってくるわけだ。納得。タイムリーに冷静な考察も読みたい、桃の情報量不足を補いたいと考えるなら、もう少し我慢も必要なようだ。
ところで、私がネット言及で愚痴を一刀両断する傾向にあるのは、問題解決ではなく自説の展開が目的だからだと思う。身勝手な話だが、私にとって優先するべきは、自分の今の考え方を記録することなのだ。
もうひとつ。「矛盾」の件だけれども、私はやはり自分の思うあるべき姿と比較して、現実の事象を批判している。だから、自分の理想を押し付けようとしている、という意味では同じ穴の狢だ。とはいうものの、私は他人の心に干渉するなとはいうが、干渉したいと思うこと自体は否定しない。行動の抑制があればよしとする。私は基本的に、「いろいろ考え、悩んだ末の行動をどうするべきか」について語っているつもりだ。行動の底流にある精神も批判の対象とはするが、強制はしていないつもりでいる。精神の改革はなくとも、行動さえ改まれば私はそれ以上を問わない。
……以上、つらつら考えてみたわけですが、いかがなものでしょう?
私もスレに行き過ぎな発言を感じる時はあるが、やはり2チャンにおいては珍しい事でもなく、あのスレだけが特別には感じない。ことさらに提言スレを批判するのは、言及がスレに総スカンをくらったからではないのだろうか?言葉の端々にそれを感じるのは穿った見方だろうか?
私は最初の言及から、はっきりとスレの空気と流れの批判に重点をおいています。このことはログをご覧いただければ明らかです。
さて、私も有限の時間を生きる人間ですから、世の中にあるすべての批判すべき対象に言及できるはずもありません。今回は縁があって提言スレを批判しました。しかしそれは提言スレが特別にどうこうということを意味しません。
戦略的意図もあり、ゆりさんを完全潔白とし批判もシャットアウトという提言スレの状況と、当初からゆきさん側の問題もちゃんと織り込んでいたたろたまスレ。細かな差異はありますが、各項目を相殺すれば、たしかに似たようなものですね。私にとってたろたまスレは、終戦工作後にスレでみなさんと意見交換したときの印象があまりに強烈です。そのため、一時期の熱狂的かつ一方的な展開を大いに割り引いていたに過ぎないようです。(当時の私は考察2と終戦工作と言及サイトの拾遺で手一杯。スレは斜め読みでした)
……なかなか、勉強になりますね。提言騒動の見物記を書いて感想をいただかなかったら、ずーっと勘違いし続けていたかもしれません。なお特設掲示板への大量の書き込みを思い起こすに、たろたまスレの住人が問題解決よりヲチに重心をかけていたというご意見には、大いに疑問が残ります。
名無しとして「歴史を動かそう」なんて思ってるヤシはいるのか?(確かに最近の2chは何かってーと団結して「〜しよう!」みたいなヤシが多いが)
んで、今回もスレ住人の一部の発言を取り上げてそれがまるで住人の総意であるかのような書き方をしてるな。それってどうよ。提言スレ全部に目を通してるわけではないが、それでも「落ち着け」「やりすぎ言いすぎはやめろ」ってレスも割とみるような気がするんだが。そんなことはどうでもいいことなんだろうか。
後段なのですが、スレ次第、という印象が。あと、ある程度の議論の単純化については勘弁してください。私も「すべて」とか「みんな」そうだといった表現は、なるべく注意して避けているつもりです。「何々な場合が多い(という印象がある)」など毎回書くのはくどいので、どうか読者の方で補完していただきたいと思います。
前段については言葉の綾を免罪符にする徳保
ということで納得してください。詳細は以下の通り。
「歴史を動かす」はただの言葉の綾だろう。2chの外に影響を与えるぐらいの意味で。で、その影響力を発揮する段階では名無しでは効率が悪いという。
跡地の件でスレッドがどんどん進んでいった背景には、やはり何らかのオチを希求する人々の意思があったと思います。だからプリシラさんの動機説明の発表や特設掲示板開設までたどり着いたとき、あるいは間宮さんが本音を発表したとき、「なんだかすっきりとしないけど」という辺りも含めて、スレは一仕事終えた後のような雰囲気になりました。提言スレもかつてのたろたまスレも、いわゆるヲチスレではありません。ヲチ対象の奇矯な行動を見て楽しんでいる人は少数派であって、スレを支配する感情は第一に怒りだったのではないですか。現状を否定し、変化を望んでいた方が大半だったと思います。
跡地の件の勝利条件は、プリシラさんと間宮さんから、ある程度納得のできる言葉を引き出すことでした。当事者間の問題は騒動の最初期に解決しており、残された問題は社会への釈明でした。スレ住人の怒りの対象は特定個人限定であり、たいへんわかりやすい構図の騒動だったといえます。スレ住人、あるいはスレのROMたちはどんどん掲示板に乗り込みましたし、メールも送りました。そして騒動が長期化するにつれ、プリシラさんらに批判的(=スレの流れを肯定)な言及サイトは増加の一途を辿りました。こうして社会的制裁の構図は誰の目にも明らかとなり、プリシラさんも間宮さんもついに動きます。
プリシラさんらが騒動解消へとつながっていった一連の行動を起こすにあたり、社会的制裁の構図を意識していたかどうかはわかりません。しかしながら、もしスレだけで話が盛り上がり、スレの外ではシーンとしていたとしたらどうでしょうか。プリシラ公園の掲示板にはいつも通りの書き込みが続き、各サイトは通常更新を継続していたとしたら? あるいは、各サイトに匿名希望の意見がいくつも投稿されるものの、例えば当サイトのような、第3者の名無しでないサイトが騒動に一切言及していなかったとしたら? いずれの場合も、スレ住人の怒りはなかなか解消されなかったことでしょう。
提言騒動では、問題を起こした事件の当事者のみならず、提言が社会に及ぼした影響までが怒りの対象となっています。とすると、社会的制裁の構図を描くに当たって、当事者だけを囲む包囲網を敷くのでは不十分です。スレ住人が名無し(捨てハン、捨てメアド)のままで影響力を及ぼすことができるのは、当事者を包囲する(批判メールや掲示板への書き込みなど)ところまでです。提言に影響された不特定多数の人々へ対処するためには、自サイトで不特定多数の人々へ警鐘を鳴らし、反提言の文化を醸成する一翼を担っていく必要があります。ダークマターのようなサイトが存在しないオリJUNE界では、スレが盛り上がるだけでは事件の広報になりません。
とはいうものの、どうやら提言の社会的影響云々を問うのは、どうやら事件の当事者たちを責めるひとつの手段に過ぎなかったようです……。そんなことでいいのか。まあ、いいんだろうな。実際、この追及は効を奏して、集いメンバーの大半を動かすことに成功しました。社会的影響云々は口実なのだから、当事者が動けばそれでいい。こういうわけだから、実際に被害にあった人は個別に救済しようということになるのか。それなら、社会的な言論による包囲網の構築なしに、当事者とその周辺の問題という小さな形で提言騒動の解決をはかることができますからね。
安易にパクりを疑い、勝手に傷ついてしまう人々の心の持ちよう、その文化に問題の根があるような気がするのだけれども、話が大仰すぎてこれを改善しようという方向にはならないようです。毒吐きネットマナーなどを見ても、あまりに傷つきやすい管理人の弱さを、まず受け入れてしまっています。だから歪んだマナーになってしまうのだけれど、彼女らはその根本を見直すつもりがないのだから、妥協点を見出す作業は困難を極めるでしょう。無断リンク禁止という結論だけ取り出して話し合いをはじめても、埒があきません。勘違いネットマナーに深く納得するような方々にとっては、歪みを歪みと認識することがまず難しいわけだから。
どーでもいいけど、徳保たんって、
私にとって優先するべきは、自分の今の考え方を記録することなのだ。と言ってるけど、備忘録の内容を後日書き換えたりしてるよね何でなんだろうね。
ありとあらゆる修正について別項を設けて訂正記事を書くのは煩雑だからです。今
の範囲をある程度広く取っていただきたいところ。すっかり考えが変わったのならともかく、一部の修正に過ぎないような場合、記事をまた全部書き直すのは面倒です。この辺りの判断は、そのときどきのやる気や暇の有無などによって左右されます。
提言スレでも、Aさんの問題(三つも連続はグレーだろ、メール無断引用で自己弁護は×だろ等)はちょこちょこ出てきてたよ。類似問題の頃は、それこそ「Aは宇宙人」(すげーな)コメントもあったし。そっちは独自あぼーん機能でスルーしてるのかな?
これも私の言葉足らず、かなあ。戦略的意図
と留保をつけている通り、本心からゆりさんが真っ白だと考えている人ばかりではないことは、私もよく認識しているつもりです。ただし現在は、意図的にゆりさんを真っ白として扱っていますよね、原則として。
今はっきりいえることは、盗作を疑うのは誤りである、ということだけです。先行作品を参考にした可能性は排除できません。例えば比翼という言葉は、幸村さんの作品で知ったのかもしれないということです。そうではない、という証拠はありません。先行作品を参考にすることを含めて「パクり」と呼ぶこともありますから、ゆりさんの作品を広義のパクりにあてはまると見ることも不可能ではありません。
しかしながら、もし幸村さんの作品を参考にしていたとしても、ゆりさんは先行作品を換骨奪胎し、取り入れたモチーフを自家薬籠中のものとして自作品に昇華しています。ですから、責められるようなことは何一つしていないといってよいでしょう。ゆりさんの説明通り、ゆりさんは幸村さんの作品を読んでもいないという説を指して「真っ白」と私は表現していますが、本来真っ白かどうかは些事です。先行作品を参考にすることを「グレー」というなら、グレーも大いに結構だと私はいいたい。そうした意味で、私はむしろゆりさんの強力な弁護人となりえます。
ゆりさんは立て続けにパクりを疑われましたが、私が見る限り、いずれも盗作を疑われるような状況ではありません。けれども、本当に先行作品とされた小説を読んでいなかったのか、執筆時に想起することがなかったのか、そのあたりは疑問といえなくもないのです。しかしながら、もしゆりさんの経緯説明にごまかしがあったとしても、ゆりさんは相変わらず狭義のパクりとは無縁です。だからゆりさんはどうしたって無罪だし、胸をはっていいわけです。
以上の考察の過程で私が最も疑問に感じたことは、なぜ戦略的理由とはいえ、提言スレとしてはゆりさんが先行作品を参考にした可能性まで排除しなければならないのか、ということです。提言を生み出した土壌ともいえる、オリジナリティーを自らの首をしめるほどに厳しく扱う価値観が、提言スレにも(少々姿を変えているとはいえ)はびこっているのでしょうか。
朝起きて更新、寝る前にまた更新。この忙しい時期に何をやっているんだ。忙しいからなおさら更新したくなる罠。性格を直した方がいいな。
ここ数日、自分の言葉と向かい合う更新をしています。頭の中では矛盾していないことになっている考えが、言葉にしてみると矛盾してしまう。自分で読み返してみても矛盾している。無意識の世界で自分が補完している言葉を、どうにかして探し出さないといけない。こんなとき、まず読者の方の感想がたいへん参考になります。そこでこのところ、某スレから集中的に言葉を拾っています。スレの皆さんには感謝。
心に対する押し付けをするなと繰り返し言ってきたのは自分自身じゃないか。
という辺りが問題の核心。私自身、なんだかヘンだなーと思いながら書いていたくらいなので、真意が伝わるはずもなく。そもそも当人が自分の真意をよくわかっていなかったわけだから。というわけで、過去の発言はいったん破棄し、もう一度最初から書き直してみます。
私は心の押し付け、強制は嫌いだけれど、批判や説得はあっていいと考えています。むしろそれを禁止するのはおかしい。ただしここで困った問題がひとつ。究極的には心の強制など不可能ですから、そうした意味ではどんな物言いもかまわないということになりそうです。けれども、私はそこまで割り切ることができないのです。(もちろん、究極的には割り切るしかないのだけれど)
例えば私は、「お前も人間だろう→人間ならこう思うものだ→だからお前もこう思え」という三段論法に、これまで何度も苦しめられてきました。ここでは、「なぜ?」という問いがキャンセルされています。「人間ならこう思うものだ」という前提条件に、疑問を差し挟む余地がないのです。しかし私は生物学的には人間であり、それでいて「こう」は思わないのです。相手の方が「こう思う」ことに理屈はいらないとしても、異なる価値観を持っている私の賛同を得ようとするならば、説得の論理を構築していただきたいのです。
相手の方はこう思う、私はこう思わない、そうかー、人それぞれだよね。……それで決着するならよいのですが、先述の三段論法には続きがあって、「だからお前もこう思え→わかったらさっさと何々しろ」とくるわけです。私はたまらず「人間ならこう思うものだ」という前提は間違っている、と反論します。現に、自分はこう思わない。その理由は……と続けます。するとたいてい、「常識的に考えてそれはおかしい」という反応が返ってきます。話の取り掛かりにかますハッタリとしてなら、私もよくやることです。しかし、私がいかに意を尽くして自説を説明しても、頑として「常識」一本槍で封じ込めようとされる方がいます。案外、多いのです、そういう方。
相手の方の目的は、「私に何々させる」ことです。ならば、私がどんな気持ちであろうと「何々しなければならない」理由を説明してくださればよいのです。ところが、そうした説明がなぜかない。私が問うと「グチャグチャいっていないでさっさとやれ」と取り付く島もありません。これでは私もやる気が起きないわけですが、相手の方がしゃかりきになって私を動かそうとするときには、たいてい何らかの切迫した事情があるものです。だから私は適当なところで折れます。すると、私が「わかってくれた」と勘違いされることが少なくなく、後日、困惑するような事態に陥ることがあります。「なんであれ、やってくれてないの」「頼まれてたっけ、そんなこと」「え!? だってこう思ったら何々するのは当然でしょ」……そ、そんなこといわれても。
話を整理します。なぜ何々しなければならないのか、という問いに、「人間ならこう思うものだ→だからお前もこう思え→わかったらさっさと何々しろ」としか回答がない場合は多々あります。こうして私が相手の発想を理解する道が閉ざされたとき、それでも様々な事情から私が折れなくてはならないことがあります。やむなく私が要望通りの行動を取ると、相手の方はしばしば「わかってくれた」と勘違いします。その後ますます要求はエスカレート、期待に応えられない私は叱責され続け、しかも反論には取り合ってもらえない悲惨な状況に陥ります。
こうなってもなお、私の精神は自由です。たしかに自由です。しかしながら、怒れる状況、哀しい状況ではあると思います。これを広い意味での「心の強制」であるといっても、それほどおかしくはないでしょう。
情緒的説得によって人を動かすのは、悪いことだと思いません。しかし「人間ならこう思うものだ」と断言して説得の努力を放棄する(広義の)心の強制は、いささかそれとは異なるものではないでしょうか。そして私はこうした心の強制を嫌い、批判の対象とするわけです。
……なんとかまとまった、かな?
ここ3日ほど、提言騒動スレは見ていなかったんです。あー、5000レス以上進んでますね。いっときの勢いでログ制覇したのも今は昔、ちょっとこれは……。スレの追っかけは、ここらで脱落させていただきます。