津山三十人殺し事件が発生したのが昭和13年5月21日。それから僅か11年後には横溝正史が事件を酷い形でネタにした娯楽小説「八つ墓村」の連載を開始、完結した昭和26年(事件から13年後)には早速、片倉千恵蔵・相馬千恵子の主演で映画化されました。
原作や映画を見たことのある人ならご存知の通り、被害者への配慮なんてないんです。昔の悪事が祟って連続殺人が起きたということになっている(ちなみに作中で金田一が解決する事件の原因はもちろん祟りじゃないのですが)。遺族は怒りに震えたんじゃないですか。こういった作品が許されたのは、時代故なんでしょうか。
昭和58年には「丑三つの村」という映画が公開されていますが、こちらは「八つ墓村」とは違い、事件を大筋で忠実に再現しているのですが……これを見た遺族は絶対に怒ったと思いますね。お互い、殺すか殺されるかの関係だったんだー! という映画なんです、乱暴にいってしまいますとね。なんというか、凄いです。
コンクリート事件から15年、映像化はこれ初めてではありません。今回このような大騒ぎになったのは、ネットが必ずしも多様な価値観を許容しないという事実を改めて示す出来事だろうと思います。「コンクリート」は単館上映ですから、従来なら9割方の人が許せないと思う作品でも細々と上映出来たでしょう。今回だって、ネットで広告を打たなければ上映できたんじゃないですか。
WWW は庶民に情報発信の道を開きましたが、それはつまり市民運動がやりやすくなったということでもあります。手紙や電話と違い、Web サイトは低コストの投資で急速な賛同の輪の広がりを吸収できますからね。いくら仲間が増えても、そう簡単に破綻しない。電話攻勢、FAX 攻勢、メール攻勢なんてのは、不特定多数が緩やかにつながった集団にとって最も効果的な抗議手段で、うまくはまれば強力ですよ、これは。
今回、怒りの火の手を上げたのは遺族ではなくて善意の第3者でした。別にそれはそれでいいんです。こういう作品は許せない、という表現の自由もあるわけですから。ただ、表現の自由のジレンマということになるわけですが、いくら誰にも中止を命ずる権限がない以上、どこの関係者に電話するのにも、「お願いする」姿勢を貫きました。
といっても、相手は商売なんですから、反対運動が盛り上がっているのでは公開できないわけです。強制してませんといいつつ、実質的に強制しているのと同じなんですね。無視できないところまで話が大きくなってしまうと。
常識としてこうだろう、という意見はそれはそれでいいんですが、私がよくわからないのは、児ポ法反対サイトまで一緒になってこれはいかんだろう
とかいっているわけですね。まあ、市民運動で潰すのは OK だけど官憲が潰すのはダメだという発想なのかもしれませんけれども。市民感覚というのは、意外と厳しいもんだな、と改めて感じた次第。
かの大傑作「八つ墓村」も、世が世なら市民の手で焚書されていたんだなあと思いますとね、ちょっと考えさせられます。「コンクリート」は「八つ墓村」よりもっと俗悪な作品なのかもしれない。それにしても、公開もされない内に封印ですからね。週刊文春の件でも、意外と出版差止に好意的な意見がたくさんあって驚いたんですが、「ダメなものはダメ」っていうおタカさんのスローガン(?)は、いつの間にかこんなにも国民の間に浸透していたということなんでしょうか。