趣味Web 小説 2005-11-04

イチゴ狩りを通して子どもに何を教えるか

いきなり無関係な話をしますが、小学校のバス旅行で牧場へ行き「牛さんかわいい~」とかいいつつ平気で肉を食らう連中がほとんどなのだから、たいていの子どもは大人に教えられなければ目の前にあるふたつの現実を結びつけることができないらしい。トンでも系の主張が混じっていることを承知の上で以下のサイトは必見。

私はベジタリアンではないけれど、このサイトはグロい?におけるこのサイトはグロだ!と思う方へ。そのグロいものを食べているほうがよっぽどグロくありませんか?という主張は正しいと思う。牛の死に方を知って牛肉を食べる気をなくしたなら、その人は牛肉を食べないのが正しい。知らずに食べている方がよほど残酷だろう。

植物も生物だと気付いて何も食べられなくなり、ついに死んでしまう人がいてもよいと私は思う。

それでは鈍感な人間の勝利じゃないか! と、お怒りの声もあるかもしれない。しかし、繊細な人間が、単に「知らない」ということに依拠して生きてどうなるというのか。

その人は、知らない間に(当人にとっての)罪をどんどん重ねていく。罪を重ねて生きた人が、(仮に死後の世界を認めるとして)死後に自らの罪を自覚したときの絶望について、考えることはないのか。当人がどれほど人生を後悔しても、周囲の人間さえ満足ならそれでいいのか? 人生とは誰のためのものなのだ? (ちょっとエスカレートしてみました)

かつお節は生きていると言われ、お好み焼きで実践された。「ほら、苦しい苦しいって言ってるぞ。」の言葉に血の気の引いた私はかつお節をつまんでは投げ、つまんでは投げ「なんでこんな事するの!?なんで!?」とわめきちらした。今思うとかなりの馬鹿だった。

自分の命が多くの犠牲の上に成り立っていることを、筆者はこの時点まで自覚していなかったのですね。生きていたのは鰹節だけじゃない。お好み焼きを構成する多くのもの、例えば小麦だって、かつては生きていた。あるいは、細胞単位で考えれば、焼かれるまで生きていたものも多い(キャベツとか)。

例えば、イチゴ狩りを機会に、親は子に何を教えるべきか。

「イチゴがどうして実をつけるか、知っていますか? 種を残し、来年へ命をつなぐためです。人が食べるイチゴは、まだ種が十分に育っていない。だから、今、摘んだイチゴの実を土に埋めても、何も生えてはこない。人はね、それでも、おいしいから、イチゴの実を摘んでしまうのです。パクッと食べて、イチゴのためには何も残さない。一生懸命、葉っぱを広げて太陽の光を浴びて、根っこを伸ばして水と養分を吸い上げて、立派な実をつけたのに、イチゴは人に食べられてしまうのですよ」

「じゃあイチゴいらない」と子が答えると、親は畳み掛ける。「イチゴじゃなければいいのかな。米粒ひとつだって、本当は、芽吹いて、育って、多くの子孫を残すことができたのです。でも人は、みんなまとめて刈り取って、おいしい、おいしいといって食べてしまう。イチゴはおいしい。みんな笑顔で食べます。それは悪いことではないと思う。ただ、お父さんは(お母さんは)、イチゴの実を摘むときに、イチゴも生きていることをお前にわかっていてほしい」

優しい子は、泣くのかもしれない。しかし、こういうことを、幼い頃から根気強く教えていくのは、大切なことだと私は思う。ご飯粒を茶碗に残す行儀の悪さや、食べ物の好き嫌いに悩む前に、すべきことがある。アフリカの子どもたちは……とか何とか、人間様の話をする前に、語るべきことがあるのではないか。

やっぱりそれでも子どもは蟻を虐殺し、蝶の羽をむしり、蜻蛉の頭を千切るのでしょう。そして野良猫を蹴飛ばし、犬に石を投げつける。極端な奴は、とうとう人まで殺してしまう。「教育の充実で犯罪撲滅」なんて過大な期待をしても仕方ない。教育の意義は、そういう次元で語るべき話ではないと私は思う。

いのちの食べかた

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