「敗北条件を与える」ことも、考えようによっては勝つための条件の一つである。しかし、評価においては「勝ち」も「負け」もない。ゆえに、相手の非を見つけても自分の優位性は全くないのである。
例えば自分の書いた記事に反対意見をいただいた場合、「別の考えを持つ人がいる」ことのおもしろさを味わい、お互いの立場や前提条件をふまえてどうしてそうなったのかを考え、これからの自分に取り入れればよい。過去の失敗は今正し、今の失敗は未来で正せばよいではないか。
それは「勝ち」ではない、「負け」でもない、と言葉を定義することによって、あるいは価値観の変更によって、批判されたときに心の安定を図るという処世術の勧めならば、とくに異論はありません。けれども、どうやらそういった話ではないらしい。
少なからぬ人は、欠点を指摘されると恐縮します。批判する側は、精神的に優位に立つことが多い。ただし、たしかにこの状態を「負け」「勝ち」と表現すると、反発があります。その怒りの源泉となっているのは、「勝ち」「負け」といった言葉への過剰な思い入れだと思う。もっとドライに言葉を扱えばよいだろうに。
差別感情を過剰に織り込むことによる言葉狩りについては、その圧力の強さもあって、しばしば問題視されてきましたが、例えばこの「勝ち」「負け」といった言葉など、もっと広範に、日常的に用いられている言葉の中にも、さまざまな場面から排除されつつある言葉が見受けられます。「差別語」の言葉狩りでは全面的に使用が停止されてしまう一方、これらの言葉狩りでは、狭められた意味においては使用が継続されるために、問題が見えにくくなっています。
しかし、これもまた過剰な意味付け、思い入れによって言葉を排斥していくという本質においては「差別語」に対する言葉狩りと同じなのです。今ここで「勝ち」「負け」という言葉を避けたとしても、事実は覆りません。
相手の非を指摘しても自分は成長しない。良いと思ったものだけを評価し、吸収しよう。
この提言の基礎にあるのは、自分の成長に寄与することだけをするべきだ、という考え方でしょう。しかしそもそもまなめさんの記事自体が、勘違い
している人々への批判なのです。彼らの「よいところ」を積極的に評価する発言が見当たらない。そしてまた「勘違いしている人々」と「勘違いしていない筆者」が対置されたとき、自然と後者の優位が浮かび上がってくることはいうまでもない。標語としては美しいけれども、どだい無理なのではないかと思う。