趣味Web 小説 2005-12-26

気兼ねなく孤独になれる自由

各人のいうことは理解できるが、私の胸に迫るような提言は見当たらなかった。見落とし、かな。いや、やはり話題の種類に関わらず、切実な関心を欠く層は発言しないというだけの話かもしれない。

以前も書いたけれど、私はモテとか非モテとかの話題は「読み物として面白い」とは感じるものの、「自分の問題」とは思わない。芸能人のゴシップ記事と同列なんだね。多くの人にとって、芸能人は遠い存在で、だから他人事として彼らの私生活の話題を楽しんでいるのだと思う。私にとって、例えば id:caprin さんが次のように書く感覚は、遠い。

「他人に高望みはしない、だけども人から望まれもしない。」というある一種の無関心は自分がするにはいいが、他人に自分がやられると実はかなりつらいんだよなあ。ぶっちゃけ結婚しない(できない)ことによって自分は世界から必要にされていないような錯覚を感じてしまう。人は一人では生きていけないというけど、自分で家族を生み出せないような人間はどうやったって孤独になりがちで、交友関係が少なくなるから新しい友達もできない、もちろん彼女もできない、当然結婚なんてできはしないという負のスパイラルは日本人の若い一部には完全にシステムとして完成しつつあるような気がする。これぞ「希望格差社会」であり、「下流がさらに下流を生み出し、階級が固定される」という負のシステムです。誰か希望を下さい…。

どこへ行っても友達を「作らなきゃいけない」という圧力に息苦しさを感じていた私は、社会人になって、実家を出たことで「気兼ねなく孤独になれる自由」を得たのだと思う。友達がいなければ、両親も学校の先生も兄弟も親戚も心配する。別に嫌々友達を作ったわけではない。素直に相手を気に入って友人関係を築いてきた私ではあるのだけれど、クラス替えや進学などのたびに、どんどん人間関係は更新されていく。いつ友達がいなくなってもおかしくはない、という不安はいつも抱えていた。極端な話、両親が交通事故で死んでしまったら、祖父母の家に引き取られる。千葉から愛知へ移れば、ほとんどイチからやり直しだ。

社会人になってからというもの、どんどん年賀状を出す枚数が減っている。出せば返事が来る、という相手には、出すのをやめた。嫌々、出していたわけじゃないのだけれど、物事には費用と利益の関係というものがある。私自身は、孤独を好む人間で、一日誰とも話をしなくても、気にならない。友人と話をするのは楽しいが、しかし例えば、休日に話をするためだけに電車に乗って友人のいる街まで出かけるほどかというと、それはない。学校で毎日、嫌でも顔をあわせるという状況があったからこそ、私は彼らと話をしたのであって、友人と話をするために学校へ通っていたわけじゃない。「友人がいないと周囲が心配する、それは嫌だな」という圧力が薄れるにつれ、疎遠になりつつある友人関係を維持する利益が、年賀状を出すコストを下回るようになったのだ。

職場にはウマのあう同僚がいる。幅広い年齢層を抱え、全体で20人程度しかいない職場なのに、かなり話の弾む同僚と、そこそこ気の合う同僚が数人いる。険悪な関係の同僚はいない。非常に幸運だと思う。ただ、少し注意書きが必要だろう。私は休日、基本的に会社の同僚とは没交渉である。少なくとも旅行へいくようなことは全くない。出勤したって、絶対に必ず世間話をするような相手はいない。別に同僚とお喋りがしたくて出勤しているわけじゃないのだ。何となく、お互いに手持ち無沙汰になって、何かよい話題をどちらかが持っていた場合にだけ、話をすることになる。

それって寂しくない? という疑問は当然、あろうかと思う。ただ、理解されるかどうかはわからないが、私にとって、学校の休み時間に一人でいることが苦痛だったのは、「寂しかった」からじゃない。「改善」されるべき状況としての「孤独」がつらかったのだ。だから、家で留守番しているのは楽しかった。のびのびと晴れやかな気分だった。

小学生の頃、休日はよく図書館へ行った。他人と接するのが嫌いなくせに、なぜ、わざわざ人の大勢いるところへ行ったのか? 家にいるよりマシだったからだ。両親は優しかったが、やはり子どもにはいろいろと期待をする。食事療法でお弁当持ちだったので、給食制の公立校ではイジメが心配だといって、両親は私を私立の小学校へ通わせた。幼稚園では知能面でも情緒面でも未発達が顕著な生徒だったのだが、たまたま私の受験した年は最初で最後の定員割れを起こし、通ってしまったのだった。ともかく私立なので、地元公立校の学区内(=地元の小学生が保護者の付き添い無しで行動してよいと校則で定められている範囲内)に同級生は2人しかおらず、そのどちらもあまり私と親しくなかった。必然的に、休日、友人と遊ぶということがない。両親は、そのことを少しだけ心配していた。その期待が、私にはプレッシャーだった。

地元の同級生が嫌いだったわけじゃない。遊びに行ってしまえば、それなりに楽しいのだ。でも、アンチ・コミュニケーション志向の私にとって、遊びに行くのは気が重かった。だから、図書館へ入り浸った。子どもがよく本を読むのは、親にとって鼻が高いことらしい。私は親を困らせたくないから苦しかったのであって、家を出てどこかへ行くなら、自分と両親の双方に利益のある場所が最適だった。本を読むのは好きだった。

私は誰からも必要とされたくない。必要とされたら、嫌なことでも断れなくなってしまう。「断ればいい」って? その通り。期待を裏切られた相手の「圧力」に耐えるコストと、嫌なことをするコスト、前者の方が軽いケースなら、そうする。しかし前者は、やってみなけりゃわからない。一方、「嫌なこと」はたいてい経験済だから予測が立つ。だから、「多分」「おそらく」では断る道を選べない。期待なんかしないでほしい。0点をベースに、加点法で評価してほしい、と思う。無論、実際にはそう単純じゃないことはわかる。期待ゼロでは、やりたいことがあるときに、誰も支援してくれない。だからこれは願望として、自分が目指したいのは期待ゼロなんだと、そういうこと。

電波男」は「愛」がほしい非モテが苦悩する話で、別に「愛」とやらを求めないなら悩みはない。漢字テストでは「愛」の反対は「憎」だったような気がするけれど、このところよく見かける最近の定義では「無関心」なのだそうな。で、「お前は一人で生きていけるのか!?」みたいな脅しがよく使われる。それは少し、話がぶっ飛んでいると思う。たしかに私は一人では生きられない。けれども、いわゆる恋人が必要ですか? 休日を一緒に過ごす人が必要ですか? それは「必要」じゃないわけだ。携帯電話は押入れの中、いつも留守電にしている。メモリーには会社の番号しか入っていない。「体調が悪いので今日、休みます」という連絡用。それで何か不都合ある? 全然ない。

私は社会の歯車になって、生かしてもらえばそれでいい。費用対効果が納得のいくものなら、応分の負担はする。税金も年金も保険もきちんと払う。職場の飲み会は皆勤賞、あれほど嫌だった運動会も、修学旅行も参加してきた(旅行は毎回、体調を崩して周囲を心配させたけど)。研究室のイベントもそう。

「もっと楽しんでよ」……そういう無茶が、本当になくなったのは社会人になってからのこと。学校を卒業して、いい会社を選んで、本当によかったと思う。楽しそうな顔をしなきゃみんなが気分を悪くするだろうから、ニコニコしようと努める。でも、多少は気を抜いたって共同体から追い出されないことは、私にもわかってる。そうして不意に飛んでくる言葉。「徳保くん、つまんない?」プレッシャー。「ま、そうかもねー。馬鹿馬鹿しいとか思っているんでしょ?」プレッシャー。いや、理解者のプレッシャーはまだいい。純朴に「あれっ、体調悪いの?」とやられると、死にたくなる。その言葉が皮肉だったなら、どれだけよいか。本当に心配してくれているから、つらい。そうして、実際に神経性の腹痛になってしまう。

今の職場には、忘年会とか新人の歓迎会といった仕事後の半ば公式の飲み会に一切、参加しない同僚が2人いる。全体が約20人だから、1割弱。内1人はふだんから全然、他人と世間話をしない人で、私はこれまで彼と言葉を交わしたことがない。けれども、私にとっては、一番話のウマが合う同僚よりもっと、彼の存在は重要だ。友人と気が合わなくなったら悲しいけれど、有能で、きちんと上司に仕事の報告ができ、指示を正確にこなす彼が、アンチ・コミュニケーション志向ゆえに組織から追い出されるようなことになったら、私の会社生活は暗闇に閉ざされてしまう。あるいは、彼が職場の半公式飲み会に強制参加させられるようになったら、そして「楽しむ」ことを強要されるようになったら、私は心底ガッカリするだろう。

……えーと、もともと何を書こうと思っていたんだっけか。

思い出したので、言い訳程度に書く。

冒頭に紹介したリンク集は、「理想の旦那サマ」像が現実離れしていることから始まる女性批判→高望みは男女お互い様でしょ→*** というような見飽きた展開となっている。基本的に、恋人がほしい、結婚したい、というような気持ちをみんなが持っていることを前提としているように見えるところに私の違和感がある。

いや、そういう気持ちが全然かけらもない人というのは珍しいけれど、孔子は「敬して遠ざける」道もあるよ、と説いた。恋愛を鬼神扱いするなんて理解できない、という向きもあるかもしれないけれど、案外、そういう人は多いのではないかなあ。いや、割合としては少なくても、ね。多数派に口先だけ話を合わせて生きていく術を身につけている少数派は多いので、「恋をしなよ!」といくらいってもその気配のない人ってのは、「勇気」とかそういう問題じゃなくて、そもそも別の世界に生きているという可能性がある。「愛がほしいと切望しているのに努力を怠っている人」とは限らない、とお節介な人には知ってほしい。

あるいは、別に遠ざけるつもりはないけれど、当人にとって人付き合いの精神的コストが非常に高く、多少のベネフィットでは見合わない、というケースもある。ふつうの人は、猛勉強してまで医者や弁護士になろうとは思わない。多少の才能があっても、サボる人の方が多い。ヒーローものの映画が、主人公を一般人が共感できる人物に設定した場合、主人公が頑張る動機として相当に過酷な状況を設定することがある。動機付けのエスカレートは、「理想の結婚相手」の高望みと同じようなものかもしれない。

要するに何がいいたいのかというと、本当は「恋愛」や「結婚」に憧れているのに、「高望み」が障害になっている……という構図の中には、「恋愛」や「結婚」は費用対効果が赤字だと判断して「降りて」いるのだけれど、この立場を説明しても理解されないので「高望み」を隠れ蓑にしている人々がいるだろう、と。彼らは「恋愛」や「結婚」を遠ざけることが目的なので、「高望み」を批判しても通用しない。そういう可能性はあるんじゃないかな。

長文のついでに、ひとつ書き添える。私は社会人になって多くの圧力から逃れ、ずいぶん幸せになったと思う。けれども、やはり次第に幸せにも慣れてくる。これまで気にもならなかった圧力が気になってくる。例えば「結婚しないの?」というゆる~い圧力とか。放っておいて全然問題ないのだけれど、もし私と同じような人がいたら、「会わない」「話さない」「財政自立」の3条件を弁護士を間に立てて確約した上で、婚姻届だけ出してしまいたい……なんて思わないでもない。

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