「最低限の衣食住と義務教育」というものが、各人にとっての「最低限の衣食住と社会ステイタス」を意味していないというのが問題。これは客観的な事実だ。
価値観を所与のものとして操作不可能と規定しているわけですよね。私は各人の価値観は、主観的に設定されているものだから、「最低限の生活」の定義は各人が自分の意志で変更できるだろう、といっている。本当にそう? と問われれば、「いや、理想論ですよ」と答える他ない。「死なない程度」まで「自分が許せる最低限」の水準を下げられる人は多くない。残念ながら。
けれども、そうだとすると、先行き暗いですね。どこかで目を覚まさないと、破綻以外の結末はないです。今、目覚めることができれば軟着陸への道が開けるのに、それは不可能らしい。
数値上普及したようにみえても、それでもって生活水準が上がっているとはいえないのが電化製品の引き起こすマジックだろう。20年前に携帯電話をもとうと思えば数十万の資金が必要だった。今は初期投資は0円だ。つまりコストが違う。いまの携帯も数十万かかるというのなら、普及率の向上=生活水準の向上だろうが、そうではないから等式があてはまらない。
これもまた評価軸の設定の問題。
ようするに Bar さんは、多くの人は「絶対評価」ではなく「相対評価」でしか世の中を見ず、しかも海外には目を向けない……という現状を、変えようのない現実と定義しているわけです。私は、それは主観的に変革しうるものだと考えていて、だから「絶対評価」で向上した現在の生活水準に「満足」することは可能だと主張しているのです。
「過去は貧乏、いまは豊か」ではない実態がそこにはある。過去なら農村共同体や家族というものが子育ての労力を分散し、特定の人に負担がかかることを低減していた。しかし、今は違う。子どもをとりまく家族の核家族化が進んだ第一ステージをさらに過ぎ、母親すら働きに出なくてはならない「ゼロ家族化」の状況にある。これが子どもを育てることをさらに難しくしている。ある意味、都会で子どもを育てるのは砂漠で育てるのに似ている。昔なら周りにオアシスがあったのである。
ゼロ家族化を不可避の現実と捉える bar さんと、価値観の転換で脱出可能と見る私の違いがここにも!
「なぜ人々はゼロ家族化を求めるのか?」と私は問うているのです。生きていくだけなら、お金には困っていないはずなのです。私の手取月給は15万円ちょいですが、東京暮らししていて別に何の不自由もない。毎月の財政は黒字、ボーナスは全額貯金、それで年額120万円の貯金という生活。ようは、そんな生活では不満だと思うから、あるいは子育てよりも仕事の方が楽しいから、ゼロ家族化するだけの話。私の母は清貧ライフに満足でき、仕事が嫌いで子育てが好きだったので、父の薄給(現在の私よりは少し多い)に文句をつけたことは一度もなく、幸せにケチケチ専業主婦ライフを送ってきたわけです。もちろん、現代人がみなそれを真似できるとも、真似すべきだとも、私はいいません。
あるいは、田舎的共同体を「うざい」と思う価値観を後生大事にしているから、生活の孤立化が進むのであって、そんな価値観を捨ててしまえばすぐにでも共同体を復活させることはできるわけですよ。これも非現実的な話ですけどね。やっぱりみな、昔に戻りたくなんてないのでしょう?
そういうわけで、私の記事と bar さんの記事は根本的なところにすれ違いがあるだけで、別に私の主張は bar さんの主張と相反するわけではない。「私の理想は**です」「でも現実はこうですよね?」「そうですね」それだけ。
ガラマニさんは私の記事をヘドが出る机上論と評したけれど、もし「机上論だから不満」なのであれば反論したい。また社会全体の話でなく、特定個人の生き方としてであれば実践可能な話でもあるのですし。それはガラマニさんが興味を持つ
という私のサイト構成技術論
と同様です。