文章を意図したように読んでもらえないのはいつものことだけれど、今回は相手がたいへん憤慨されているので、2006年3月27日に補足記事を書きました。
本題に入る前にひとつ。
私はサブカルではないし、オタクでもないと思う。私は中学・高校と、いわゆるオタク文化圏やサブカル文化圏の人が周囲に多い世界(文藝部とか美術部とか)にいたんだけど、自分はどちらにも関心を持たなかった。テレビを見ない、映画も観ない、音楽を聴かない、マンガも読まない、服飾にも無関心。じゃあ何をしていたか? まじめに勉強して、水彩画や油絵を描いて、雑誌の編集作業に没頭したり、美術館に行ったり、文化祭の準備を頑張ったりしてた。
校則を破らない、法律も犯さない。冗談みたいな「優等生」をやっていて、それが私にピッタリの生き方だった。朝はきちんと挨拶、家事をよく手伝い、道で困っている人がいれば助け、老人が電車に乗ってくれば席を譲る。今風の若者言葉も使わない。背筋をなるべくきちんと伸ばす。品行方正とは、こういうことだ、みたいな感じを目指していた。進むべき方向性がきちんと示されていて、基準をクリアすれば確実に見返り(注:お金ではない)がある。楽しかったなあ……。
ま、とにかく、私はサブカルとかオタクの人と仲良くなったり、いろいろ観察しながら勉強するのは面白かったけれど、自らその世界に飛び込みたいとは思わなかった。人生は短い。自分の望む生き方をするだけでも1日は短すぎる。中途半端な関心だけで体験取材に踏み切ることはできなかったわけです。
そこにさぁ変に援助交際だの売春だの絡めて憤慨してんのは一部の人じゃん!まるで私と仲良くしてるおっさんが外道、みたいな。仲良くしない俺は硬派、みたいな。私はなんだ…ヤリマンか…。「お前チャー子とヤったのかよ!?」「あいつおっさんと寝るんだぜ!」「うわーみんなーコイツチャーチル子とヤったってよ!」「(教室)ざわざわ…あの子ヤリマンなんだ…ざわざわ」なんだこのショートコント。私はおっさんとおしゃべりはするけど交際はしてない!休日のドライブもしてない!何か別の人と混同しています!
ここに、誤解が凝縮されていると思う。「誤解」という言葉はまずいかな、私の書き方が悪くてそういう印象を与えてしまった、というのが真相に近いのだろうから。
私は id:churchill さんに何か問題があるとも思っていないし、id:churchill さんと仲良くする人を気持ち悪いといいたいのでもない。
社会人になってからは中学生を見かけることもあまりなくなってしまったのだけれど(生活時間帯と行動範囲の関係で)、大学時代には塾講師の仕事を毎夕のように入れていて、のべ100人以上の中学生の面倒をみていた。主任講師として、それなりによく頑張ったつもり。
個別指導塾には成績の悪い子が多い。彼らは「どうせ自分なんか」と最初から諦めモードのことが多い。だから講師たちは「子どもが全然やる気を出さない」という問題に直面する。特効薬は、一回でもいいから、テストでいい点をとること。定期考査で、前回よりいい結果を出すこと。でも、これは無茶な話ではある。やる気を出して頑張ってはじめていい結果がでるのであって、先にいい結果がでるようなことは(滅多に)ない。そこで私たちは、生徒の信頼を獲得するために知恵を絞る。
テレビドラマのような劇的なイベントはふつう、ないのだし、あったとしてもたいてい、ろくな結末を迎えない。だから、淡々とした日常の関係、すなわち授業中の対話の中で努力することになる。基本的には、学科指導と信頼関係の醸成は重なり合っている。いくら怠け癖のある子でも、「じゃあ一緒に頑張ろうね」と水を向ければ、5分や10分はまじめにお勉強に取り組んでくれる。その5分間に、さっきまで解けなかった問題が解けるようになる喜びを与えられるかどうかが講師の力量なのだ。
肝心なことは上記の通りなのだけれど、生徒が「塾に通うのが嫌だ」というと塾を移られてしまう。たいてい教えるのがうまい先生は生徒にも信頼されるが、ダメ押しで雑談も楽しくやれたらいいのは当然のこと。8割くらいの子とは、楽しく談笑できたし、少なくとも強く嫌われはしなかったろうと思っている。
個別指導塾は生徒と講師の距離が近いため、「こんな先生の授業は嫌だ!」とすぐに講師のチェンジを申し出る子もけっこういる一方、「チェンジしたら悪いかな」と思って我慢してしまう子も少なくない。そのため個別指導塾にはペアの改編期がある。で、私の場合、生徒本人の希望で帰ってくる生徒がよくいた。自慢めくけれど、これはそれほどある話じゃない。夏期講習などでは特講担当として私は生徒によく指名された。「先生、なんか面白そうなんだもん」これは嬉しかったなあ。
以上は「おっさんの立場で中学生と仲良くした話」なんだけど、逆に「中学生の立場で大人と仲良くした話」もあります。当然(?)こっちの方が多い。もう書き疲れたので書きませんけど。
で、これだけの分量を費やして何がいいたいのかというと、私と仲良くしてるおっさんが外道
なんてことは思っていないし、私はいわゆる「クネクネ」を批判する一派じゃないということ。ふつうに話して楽しいとか、そういうのはわかるし、「ありえる話」だと思う。
で、結局、何が伝わっていないのかというと、「仲良くする」ことと「転ぶ」ことの違いなのだと思う。
ここを説明するとまたセクハラとかいわれそうなんだけど、必要最小限に書きたい。
おっさんだって性欲ばっかでぐるぐる動くわけじゃないだろ。この人の職場にはたまたまそういう変態ロリコン教師がいたってだけじゃん。
そうじゃない。「転ぶ」といっていきなりそっちへ妄想が進んでしまうのは間を飛ばしすぎてる。援助交際云々のとき、生徒と塾講師の間で、という疑惑なんてなかった。それはありえない、という認識が共有されていた。
私は「魅入られる」のが嫌だったけれど、他の多くの講師はそうではなかった、とも書いたはず。性的関係のことをいっているなら、大半の講師が「絶対にアウトだ」といったはず。だから、そういうことじゃないんだよ。
「転ぶ」ってのは複合的な問題なので難しいのだけれど、簡単に書けば、人を偶像化して過剰に感情移入してしまう、そんな状態をいっているのだと思ってほしい。これは芸能人とファンの関係みたいなもの。偶像が苦しむとファンも苦しんで、喜ぶとファンも喜ぶ。生徒が受験に失敗して先生の方が号泣。……と書くと、それならいいじゃん、っていわれてしまって、私の思うところが伝わらないだろうから、ひとつ例え話をしたい。
「モーヲタ」を蔑む人っているじゃないですか。私にとって「若い子に魅入られる」というのは、そんな感じで嫌なことだったんです。ずっとモーヲタを馬鹿にしてきた人が、新規加入の女の子がたまたま自分が見ている番組に出てきたのを見て、いきなりファンになってしまう、そのときに感じるであろう自己嫌悪を、私は感じたのだ、と。これなら伝わりますか?
塾講師が生徒に、前述したような感情移入をしてしまうのは、ダメなんです。それでは仕事にならないんですよ、じつのところ。生徒が受験に失敗したとき、泣くのは大人の役目じゃない。合格して一緒に喜ぶのはいいですよ、でも落ちて泣くのは絶対に違う。それは、子どもを傷つけるだけ。次にもつながらない。親が泣くのは仕方ない。でも講師が泣くのは、プロ失格なんです。
あとドライブ云々も補足しておくと、ある女子生徒ととても仲のいい先生(女性)がいて、生徒と携帯電話の番号を交換していた、と(就業規則違反)。それで生徒があれこれ、受験の悩みを毎日のように語るのだけれど、だんだん気分が落ち込んできているのがわかった。でも祭日絡みでしばらく授業がない。生徒の健康管理は親の領分で、塾講師がでしゃばることではない。それなのに、彼女は生徒をドライブに連れ出したんです。そのやり方が汚い。車の話をしたんですよ。で、生徒が「乗りたい」といった。
これは恋愛感情ではないです。ただ、過剰な感情移入があって、冷静な判断力が失われている状態。塾にばれたら困るから、生徒は親に嘘をいって家を出た。もしドライブ中に交通事故にでも遭ったらどうなるんです? これは単なる保身じゃなくて、「身の程を知るべきだ」という話でもあるのです。「家族でも恋人でもないあなたが、なぜ親の目を盗んでまで生徒をドライブに連れ出すのですか?」その講師は、この問いに答えられなかった。
生徒があんまり可愛くなってしまうと、自分の弟や妹みたいな気分になってしまう。なんでもしてやりたいと思って軌道を外れる。無事に合格して、生徒が塾をやめていったときに、喪失感で虚脱状態になってしまう。これは、単に「仲がいい」というのとは、一線を画すべきこと。塾講師には、どこか生徒を突き放して考える部分が必要なのです。だから、塾講師の間では、自嘲を込めて「転ぶ」って言い方をしていたんです。
でもそれは昔話。いま私は id:churchill さんの先生じゃないのだから、日記を読んで「魅入られ」たって不都合ないんですよ。でも、私は、嫌だったと。なぜ? っていわれても、わからない。塾講師時代の強迫観念をそのまま引きずっているのかもしれない。でもそんなこと、精神科医じゃないもの、自分ではわからない。「いい大人がモーニング娘。のファンなんて!」という感情と同じような、脳に何らかの過程を経てインプットされてしまった価値観なのだと思う。
「id:churchill トークショー」があったら行ってみたいな、とか思ったし、「id:churchill オフ会」があるなら出てみたいな、とも思った(過去形)。で、私は一緒にカラオケに行くだけの援助交際をしたがるおじさんたちは、何らかの性的欲望があるものとばかり思い込んでいたんだけど、ふと、そうじゃないと気付いた。まあ、勝手にそう思っただけなんだけど。で、ああいうのには絶対なりたくないなー、と思ってたようなことを、ふと気付くと考えていた自分が、嫌になったのです。
ようするに、これは私の問題なんです。すでに何度も繰り返している通り、たいていの人は「それのどこがいけないの?」っていいたくなるでしょう。「読者でファンなんだから、大人が中学生主催のオフ会に出たっていいじゃん」「相手は学生なんだから、多少、おごったっていいじゃん」なんじゃないですか。「そうだよね」と私も思う。思うけど、「嫌だな」と。「嫌だ」という気持ちの方が強い。
あくまでも私の個人的な基準として、それはアウトだと思っているわけ。馬鹿馬鹿しいけど。
今度こそ、大筋で私の書きたかったことが伝わっていることを望みます。
私は、id:churchill さんがどうとかこうとか書きたかったんじゃないのです。id:churchill さんの日記を読んだ自分の中にわいた感情が嫌だった、それだけのメモなんです。「こんな人がいなければ、自分は自分の嫌いな自分にならずにすんだのに」みたいな気分が、たしかに7日の文章には出てました。それは申し訳ないです。ごめんなさい。
私の中でセーフとアウトの間に明確な断絶はなく、なだらかにつながっています。日記を読んで好感を持つことも、共感することも、ある程度までは悪くない、むしろいいことだと思う。ただ、私の知りたいこと、いいたいことを代弁してくれる存在として過剰な期待を寄せたり、ガンガン感情移入していくことには、危険を感じます。そしてとくに若年の相手に対しては、厳しい制限をつけたい。つまり「程度の問題」なんです。
全然、伝わってないじゃん。愕然とした。へいうまが嫌いなら、私は何も悩まなかったわけで……と説明しようとして気付いた。自虐系テキストサイトのスタイルを踏襲しているへいうまで反応する以上、「誤読」を承知で嫌悪の対象を自分にしたかったのかも、と。えーと、この予想が的外れでも気にしないでください。