趣味Web 小説 2006-03-13

すべて杞憂に終ってほしい

松永さんの周囲に劇的なことが何も起きず、これまでの生活基盤が守られることを期待しています。

J リーグで熱狂的なサポーターが暴れている様子を目の当たりにしていた私は、W杯予選の日朝戦ホームゲームでサポーターが乱暴狼藉を働かないかと心配しました。しかし結果的に、温和な観客が大半であったことと警察の尽力により、また日本代表が快勝したことにより、平穏無事に終りました。今回も、そうあってほしい。

私はここ数日、悪い予想に基づいて、いくつかの不安を書いてきました。日本に暮らす者として、この社会の寛容であることを切に期待したい。100%の安全を求めて、他人につらく当ることを是とする人々の少ないことを望みたい。

近代の民主主義社会が刑罰のシステム設計から応報概念を排斥したことには様々な背景がありますが、「応報概念は社会全体の幸福の総量を最大化しない」という発見は重要な一歩でした。かつては泥棒も死罪になりましたが、それで泥棒がよく抑止されたか。そして罪人をどんどん殺してしまうことの社会的損失は? 復讐心に駆られる被害者の思いを晴らすこと、再犯の危険を高く高く見積もり、大多数の改悛した人々を牢獄に繋ぎ続け、あるいは簡単に殺してしまうことが正義の全てなのか。違う、というのが近代刑法の到達点なのだと私は理解しています。(このあたりはかつて受講した教養科目の受け売り)

今もなお最適なバランスを求める試みは継続していますが、法定罰はまだしも冷静に議論され、抑制的に運用されているものと思う。

日常生活を送る中でほんとうに注意しなければならないのは、一般の人々の良心に任されている社会的制裁との向き合い方です。私は、これを全否定しない。全部ダメだといったら、それはそれで逆に抑圧的な社会だと思うから。ではどのあたりまでが適切なのか、ということ。

応報概念の考え方ばかり口にする人が多い、という印象があるのは私だけでしょうか。そして厳罰化による抑圧という誘惑も、相当に強いらしい。パナウェーブのときに書いたことだけど、仮に松永さんが今もかつての信仰を持ち続けていたって、やはり人権はきちんと守られるべきだと私は思う。怪しげな連中に十分な注意を払うのは当然だが、逮捕されるような犯罪者でもないのに人権を制約するのはおかしい、と。それもまた極端、なのでしょうが、私はそう思う。

ともあれ、すべて杞憂に終ってほしい。

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