趣味Web 小説 2006-04-12

ゲーム脳問題:批判のための批判

「見たいものしか見ない」ってのはよくいえてると思いますが、それが私やあなたにとって具体的に何らかの不利益をもたらさない限り、それを咎める権利は私にもあなたにもないと思います。

私はこのような主張には賛成しない。咎めるという言葉の意味を非常に限定しているのかもしれないけれど、anomy さんの意見に従うと、「ゲーム脳の恐怖」に対するほとんどの批判は「あなたにそんなことをいう権利はない」となってしまう。もちろんゲームによる具体的な不利益がないであろう森昭雄さんが同書のようなゲーム批判を書くこともできないので痛み分けではありますが……何だか、窮屈じゃありませんか。

頭の体操で(アルツハイマー病を)予防できるという認識が広がれば、認知症になった人々が、頭の鍛え方が足りなかったせいだと非難されるようになるかもしれない

脳のトレーニングの足りなかった「怠け者」批判としての脳科学。ゲーム脳の問題点は私はこの部分だと考えています。

いわゆる生活習慣病に対して散々なされている「怠け者」批判に、大きな問題があるとは認識していません。

タバコと肺癌だって、因果関係が「証明」されているわけではない。タバコによる肺への害が遺伝子の複製異常を起こし、癌を発症させるメカニズムは不明瞭です。ただ、統計的に喫煙と肺癌の相関は有意です。そして長年の研究から、「喫煙者に共通する何か」が真の原因なのではなく、喫煙こそが肺癌を引き起こす重大因子なのだと、現在ではわかっている。一方、十分に研究が進む前からタバコの害は喧伝され、未成年者の喫煙は禁じられてきました。それはそれでよかったのではないか、程度の問題だろう、と。

私は実のところ、ゲーム規制をしたければどうぞ、という立場。現状程度の材料では、飲酒・喫煙と同等の規制はありえない。せいぜい「『有害』ゲームの規制」にとどまるでしょう。長い年月をかけて次第に猥褻表現の判断基準が緩くなっているのだけれど、あんな規制をなくしたところで、これというほどの影響はないだろうと思ってはいる。でも大勢が欲しているのなら、規制があってもいい。

多数派の不安に対して、「単に不安だというだけで規制をかけるのは云々」といった主張がなされるわけですが、証明されない限りは何もしない、何でも野放し、自己責任、というわけにはいかない。少なくとも日本が民主主義の社会である以上、大半の国民が規制を求めているのに、それを無視することは現実的でない。いくら自由の確保こそ民主主義を支える条件だとしても、です。社会は「たかが不安」にも付き合っていかざるをえない。

リスクの程度をいうなら BSE なんか気にする暇があったらスピード違反を即座に免許停止とし、無免許運転を懲役刑にでもした方がいい。でも、米国牛の輸入は差し止めてもスピード違反を即・免停にしたりはしない。そこには人々の利益と経費の比較判断が働いている。

いまでもゲームには内容によって年齢規制がかけられています。書籍や映画やテレビもそうです。そして業界で自主規制を行ってさえいる。年齢制限や内容の規制に、いったいどれだけの科学的根拠があったというのでしょうか。そんなもの、全然ない、といっても過言ではない。こうした状況を受け入れている人が、プラスアルファの規制に突然、恐れおののき、世界の終わりだといって大騒ぎを始めたりする。そして atomy さんのなさっているような主張が、持ち出される。

少なくとも、この奇妙さを認識しておく必要はあると思う。

反駁の困難な命題は多々あって、「エイヤッ」で判断を下さざるをえない。何もしないのが正解、ともいえない。何もしないこと自体がリスクを取る決断に他ならないからです。

anomy さんが心配されている点について、私は楽観的なのですね。一部に突出した差別や「怠け者」批判が現れる可能性は否定しませんが、社会全体の風潮としては生活習慣病患者に対するそれと同等程度にとどまるのではないか。麻薬はもちろん、酒・タバコほどにも嫌われないのでは、と。

後の記事にも書いているのですが、程度の問題に対し全否定で返すと、自分の足元が崩れてしまうのです。無論、あれとこれは別、といってもいい。しかしその場合、なぜ別扱いなのかを説明する必要がある。

そして内面の自由の件ですが、どのみち他人には言動しか見えないわけだから、言動さえ要求を満たすことができれば、相手は満足する。直接に規制されるのは行為だけで、背景にある心ではない。大酒飲みやヘビースモーカーが受けている程度の非難・蔑視が人の内面の自由を侵すか? 各論をいえば様々な事例があることは承知していますが、総じて心配されるほどのことではないと認識しています。

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