趣味Web 小説 2006-04-12

選択の理由

1.

こういった考え方は好き。だけど、嫌でもお金がなくなったら「なんとなく働く」ことを受け入れるような気もする。みんなそうしているんでしょ、というか。なので逆に、行き着くべきところに行き着くまでは、放っておけばいいような気がする。生活が成立している間はふらふらと夢みたいな話を追いかけたっていい。死ぬまでそうしてやっていける人もいないではない。そして当初の希望通りの職につける人もいる。

ただ id:zoot32 さんは、相談されたから自分の考えを述べたのだろう。とすれば、相談した側にも意図があるのだろうな。なんとなく働けばいいんじゃないの、といった意見も聞いておきたかった。これは「あのときああいったじゃないか」と責任を押し付ける意図ではなく、当たり前のことをひとつひとつ確認していく作業なのだろう。こんな考えの人もいる、あんな考えの人もいる、どちらの道を進んでも、人は生きていける。

私も「仕事とは、かくあるべき!」みたいな方に力の入った言説をたくさん目にし、聞いてもきたけれど、快刀乱麻を断つのごとき語り口の人も、「ま、そうはいってもさ」みたいなところを持っていることが多い。家電量販店の店員が、「テレビの調子が悪いからといって叩いてはいけません」といいつつ、自分もついつい叩いて直そうとしてしまうような、そんな「どうしようもなさ」を微かに自覚している。

そういうものだ、とは思うのだけれど、いまだに「そうですよね?」と問い質さないともやもやの晴れないときはある。

2.

大学受験で「浪人は絶対に許しません」という保護者の方はそれほど多くないが、高校受験の浪人は保護者はもちろん当人にも忌避感が非常に強い。国立大学でさえ前期試験と後期試験があるのに、県立高校は1回しかチャンスがない。推薦入試はあるが……(私が塾講師をしていたのは6年前の話だから、最近は違っているかもしれない)。だから中学3年生の受験校選定は、けっこう悩ましいのでした。

さすがに学生アルバイトの講師は主任とか肩書きがついたって進路指導まではしない。だから私は一番繊細な部分からは外されていたのだけれど、やる気の管理という面で、受験校問題は日々の授業の中でも繰り返し取り上げなければならないテーマではありました。

一番多いのは、少し楽観的な生徒。模試の結果を見ると C 判定(合格率50%)以上のところがひとつもない。かといって E 判定を取って平然としているわけでもない。滑り止めの私立か県立推薦に通れば万歳、手持ちのカードが一枚もないまま県立入試に臨むことになると、仕方ないのでランクを下げることになる。合格して当然の学校を受験するのだけれど、やはりプレッシャーはたいへんなもののようで、自己採点の結果はギリギリになってしまうことが少なくない。

次に多いのが、「どこでもいいよ」という生徒ですが、そんな彼らでも、じつは「ここまでは落ちたくない」というラインがあるので、講師が「こりゃ楽だ」などと考えて手を抜くと、恨まれることになる。「先生、あたしのことなんてどうでもよくなってたんでしょ。わかってたんだよ、やる気ないの」と、全部終ってからいう。講師、愕然。「ま、そこそこ好きな学校に受かったからいいけどさ」フォローされて、また落ち込む。

あとは無茶な目標を掲げる生徒、特定の学校を目指す生徒、極端に自信のない生徒がそれぞれ少しずつ。だが表面的な言動や人生のビジョンが「個性的」な生徒も、いろいろ話をして強く印象に残ったのは「平凡さ」だった。親馬鹿に付き合って高い目標を掲げ続けていたり、言葉に対する責任感の強さから最初は何気なく口にしただけの学校名をギリギリまで抱え込んでしまうハメになったり、誰もが持っている「万が一」の不安から絶対確実なカードを見せ札にしているだけだったり。

私に何ができたか。何もできなかったな。ま、ともあれ、就職先の選択も学校選びも似た面がないではない。

3.

現在の勤務先、私の入社時には社員が1000人超の大企業だったのだけれど、4年余りで2割も減ってしまった。それでも毎年、少しずつ新人を採っている。今年は私の世代以来の20名超の採用となり、入社2~5年目の世代が主催する毎春恒例の歓迎会が予算的に厳しい。新人は無料なので、先輩が集まらなければ少ない参加者に重い負担がのしかかる。私は毎年きちんと参加して、煙たがられている。

歓迎会につきものなのは、「なんでうちの会社を志望したの?」と嫌がらせのような質問をする先輩社員。面接ではみな適当なことをいったのだろうけれど、歓迎会で建前を語るのが果たして正解なのかどうか、難しいところ。そこで私は助け舟を出すことが多い。「この歓迎会は人事とは無関係だから、何を話しても不都合ないよ。うちは年功序列だから、集まっているのは一般社員だけだしね」……すると、いきなり本音(のようなもの)を話す人が多いので驚く。そんなに素直に先輩のいうことを信じてしまっていいのだろうか。あるいは「入社したからには、いまさら本採用見合わせもないだろう」と高を括っているのか。

面白いのは、一通り「ぶちあけた話」を語り尽くすと、後に残るのはかなり真面目な抱負だということ。意地悪な見方をすれば「内実が伴わないので言葉が上滑りする他ない」のでしょうが、私はこのような形で出てくる志高い言葉を好ましく思う。

「本音をいっていいよ」と水を向けるのは、「頭を冷やしなさい」と指示することに似ている。夢や希望を神棚に恭しく奉納し、卑近な欲求に寄り添って生きている自分を見つめることになるから。それでも理想は、自らの痛撃をも耐え忍ぶ。

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