趣味Web 小説 2006-05-24

私には越えられないハードル

「他人」に厳しい人々(2006-05-22)では「身内に甘いマスコミ」とやらを叩く人々の心象を批判的に紹介したが、そういえば昔、探偵ファイルが痴漢の顔写真・本名・勤務先を公開したら散々に叩かれたことを思い出した。中小企業の冴えないサラリーマンなら警察に突き出せば十分で、たった14万人の読者に実名を示すだけで批判の大合唱。テレビ局の職員なら全国ネットで実名報道+懲戒解雇をして当然なのかね。

このようなハードルの高さが拒絶すべきものであり、ハードルは万人について同一の高さであるべきとする場合、「万人に共通の」高さの基準になるのは「今の時点で高い方」である。

私は(どちらかといえば)低い方に合わせるべきだと思っている。未成年の芸能人が飲酒・喫煙したら大批判するような人々には辟易している。彼らが友人の、あるいは彼ら自身の飲酒・喫煙に対して倫理的に高潔である以上のものを「共感の対象とならない他者」に求めるのは「美しくない」と思う。

「**たるもの、こうあらねば」と本人が思うのはいい。そうして努力するのはよいことだと考える。しかし外野が好き勝手いうことで自覚を促すなんてのは、馬鹿馬鹿しいとさえ感じることが少なくない。

たいていの人は別の問題とみなしているようだけれども、私にとって、親の子に対する期待の押し売り、「子どもは風の子、お外で遊ぶのが一番に決まってる」なんて無茶な理想の押し付け、「最近の若い社員には愛社精神がない!」というベテラン社員、そういった事象と「彼ら」の倫理的な批判は同じ構造を持っているように見える。

自分の嫌いな正義は感情的に払いのけ、自分の信じる正義を押し付けることには躊躇しないという不幸の再生産。職業に多少の貴賎はあってもいいが、「そんなにハードルを上げて、いったい誰が基準を満たせるの?」という疑問を、ときどきは思い出してほしいと私は思う。正直、私は社会がJR西日本の社員に求めた職業倫理を達成できる自信がない。

工場で爆発事故が起きて近隣住人に死者が出ても飲み会を切り上げず、あるいは会社で事故に遭遇しても、定時になったら後を一部の担当者に任せて帰宅するような気がする。目の前で交通事故が起きても、誰かが警察に電話するのを見たら、それで安心して立ち去るような人間だもの。

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