趣味Web 小説 2006-07-02

生活保護は過酷な選択を迫る

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関を標榜する長周新聞の記事だということに留意してご一読を。

死後数カ月たって見つかるケースが増えていることについて、夫婦共働きが増えてほとんど家にいない親が増えていることや、市の予算削減で、市営住宅に管理人をおかなくなったり、自治会のお祭りや行事が極端に減ったことで地域のつながりが希薄になっていることなどが語られ、社会保障費を切り捨てる「自己責任」政策の結果と語られている。

地域のつながりが希薄化したのは、つながりたくない人が増えたから。お祭りや行事の減少はその結果として起きたが、希薄化に拍車をかけたのも事実だろう。

2人の小学生の子どもを持つ30代の母親は、「パートで老人施設に働きに出ているが、そこでも親族もお金もない老人は悲惨だ。亡くなったあとも病院には引き取り手のないお骨が放置してある状態。わたしの母も年金5万円で暮らしているのでなんとか引き取ってあげたいが、子どもを抱えて家計も厳しい。夫婦共働きだが、税金から家賃、光熱費、医療費などは値上げされ、食費から切り詰めているくらいだから引き取ることができない」と話す。

いま、年金5万円で母親は何とか生きている。だから母親を引き取れば、家賃分くらい、むしろ家計を援助してもらえるはず。しかし人と人が同居すると、お互い相手に過剰な期待をし、過剰に尽くそうとする。母親は5万円を家計に入れて6万円分のサービスを求め、娘も期待に応えるべく奮闘して疲れ果てる。そうなるとわかっているから、娘は母親を歓迎せず、母親は娘に遠慮して孤独に死ぬ。

数年前に離婚して、20代の息子1人、初年性認知症の母親をかかえ、家事さえまともにできない体では店もたたむほかなく、息子も失業中でアルバイト生活。収入はないが、医療費はかかる。藁をもすがる思いで区役所に生活保護の申請を相談にいった。

「働けるようになるまででいいから助けてもらえないか」と必死に頼み込んだが、母親がかけていた生命保険があることを理由に断られ、それからは何度頼んでもノレンに腕押し。生命保険は母親の葬式代としてとっていた唯一の蓄えであって切り崩すわけにはいかず、その後は、家族3人が月7万円の母親の年金での生活となり、電気はつけない、トイレの水も流せないという毎日を2年間送った。

貧乏で葬式を諦める人、私の母のように個人的な信念で葬式も墓も無用という人がいる中、葬式に固執して生保を解約しない人に生活保護を出せないのは当然、との見方もあろう。

「働けないため収入がなく、年金もまだもらえない。寡婦手当をあてても医療費が5万円もかかっては生活できないので、区役所に生活保護の相談に行っても成人した子どもがいるということでけんもほろろに断られた。20代でまだ経済力がないうえに家族もちの息子を頼るわけにはいかない。孤独死は他人事ではない」と語った。

現在この母親はギリギリ医療費を払えているらしい。息子と同居すれば家賃が浮く。孫の面倒を見れば保育園の保育料も要らなくなる。それでも息子を頼るわけにはいかないといって独居を選ぶ理由は?

ようするに、孤独死も(多くの場合)選択の結果なのだ。最低限の衣食住+義務教育だけの子育ては嫌だ、あるいは仕事が楽しい or 貧乏暮らしは嫌だ(から共働きしたい)といって子どもを作らない少子化問題と同じこと。親を扶養したくない子、邪魔者扱いを甘受してまで強引に子どもの家庭に入り込む気のない親、共同生活したくない老人たちが作り出す孤独死。

みな、これ以上は引き下がれないというラインを引いて、その前で戦っている。生活保護制度は、生き方へのこだわりを捨てることを要求する。自分の所得をちょっとだけしか再分配されたくない私たちは、この冷酷な仕組みを必要としている。

五分位階級別の所得の状況によれば、第二階層の収入は第一階層の2倍を超え、第三階層にいたっては4倍近い。なのに「生活が苦しい」などという。そして6倍の収入がある第四階層の人までもが、「俺には貧しい人を助ける余裕なんてない」。上ばかり見て足るを知らぬ人々は、今日もまた同情だけしてカネは出さない。

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