趣味Web 小説 2006-10-25

おしゃべりなプリンターの気持ち

私はお酒を飲めない。嘘である。いや、嘘ではないけれど、ちょっとだけ嘘だ。飲めないことはない。けど、飲みたくない。ので、公称としては飲めないことにしている*1。最近は、「飲みたくない人」であることが認知されてきたので楽になってきた。

しかし、お酒の席に未だもって存在している理論は「お酒を飲めるならば飲むのが当たり前」という理論で、いきなりソフトドリンクを頼んだりすると、「飲めないの?」と言われる。「はい、飲めません(弱いんです/車なんです)*2」と答えればとりあえずおさまるので良しとして(ホントはおさまってないのかもしれないけれど、私は相手の心を考えてあげるほど優しくない)、でも、さすがに「飲みません」とは言えないのだった。もっというと「飲みたくないんです」とは言えないのだった。なぜだ!

それは簡単。相手が嫌がることが高い確率で予想されるから。そして「お酒は飲めるけど、とくに理由はないが飲みたくない」という説明を(全否定はしないまでも)歓迎しない人が、その「場」において多数派だと知っているから。

おかしいのは、同じ嗜好品である煙草については、誰も「煙草、吸えないの?」なんて言わないことだ。一部の社会では「吸えないの?」という人もいるかもしれないけれど、少なくとも一般的ではない。なのになぜお酒だけは「飲めるなら飲むべきだ」という理論が成り立つのか。空気か。空気問題なのか。

これも簡単。煙草を吸えるけど吸わない人がいるとして、それを嫌がる人が少ないから。あるいは、もし相手が自分の答えに傷ついたとしても、周囲の人は自分に味方して傷ついた相手に同情しないとわかっているから。「煙草は(吸えなくはないけど)嫌い」という自由を積極的に肯定する人が多いということ。

私の意図としては「周りのせいだ!」と思っているわけではなくて、むしろ、「この「飲みません」と言えない私の心はどうやって構築されてしまったのだろう」とかいうところにあるようだと思いました。

なるべく他人に嫌われたくはないのだけれど、誰からも嫌われないなんてのは無理だと知っていて、だから「場」を支配する多数派を見極めて行動しているのではないですかね。日常生活の中で、ありふれた行動。私の場合は、そう。

ようは「場」を構成するメンバーの傾向の問題なのであって、これと決まった答えはないから注意しなければならない。うちの職場の飲み会では、「お酒、好きじゃないんで」が通用します。逆に今でも「煙草、嫌いなんで」が排斥される「場」はありますよ。

あと、あえて「少数派の抵抗」をするのは自由。無論、コストは高い。自分にとって、それだけの価値があるのか、ということでしょう。みんなが納得してくれる言い訳があるなら、それを使わない理由が、むしろない。言い訳にだって、もちろんコストがかかっているわけですが。

おかしいのは、同じ嗜好品である煙草については、誰も「煙草、吸えないの?」なんて言わないことだ。一部の社会では「吸えないの?」という人もいるかもしれないけれど、少なくとも一般的ではない。なのになぜお酒だけは「飲めるなら飲むべきだ」という理論が成り立つのか。空気か。空気問題なのか。

別におかしくはない。酒も煙草も嗜好品だからといって、酒文化と煙草文化が同じ様相でなければならないとする考え方には根拠がない。もちろん、同様であるべきだ、という考え方はあっていいし、そういう主張をするのは自由。

現代日本社会の大雑把な傾向として、お酒と煙草でなぜこのような違いがあるのか、という問いに答えるのは難しい。思いつきの答えは実証的研究によって否定される予感。誰もまともに研究しないだろうから、みんないいたい放題で済むのだろうけれど。

……それはそれとして、何だかなあ、この記事を書くのに、私は全然アタマを使ってないんですよね。徳保的思考法にこの問題を当てはめてみたら、自動で答えが出てきました、みたいな。まあ、それくらいシンプルにこなれていないと、会話のスピードで応答なんてできない。

でも、文章でこの感覚は、ちょっと、引っかかりますね。計算が速すぎる、拍子抜けを包み込む不安。自分がパソコン、いや、ただのプリンターになったような、気分。だって、考えた実感がなさ過ぎる。

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