趣味Web 小説 2006-11-06

私の「新聞の読み方」

昨今の核保有論議をめぐる与野党攻防を題材に。

一部与党幹部は「議論を封殺すべきでない」、対して与党大物議員が厳しく批判、与党内大勢は静観の構えで、総理大臣は非核三原則の堅持と公式な論議の否定を明言、野党は閣内不一致で攻撃、という状況。

問題提起した一部与党議員は、実際に核論議を行うつもりなどないだろう。なぜなら、結論は議論する前から決まっているから。核論議発言は、「万が一」を聞く者に想起させ、周辺国を牽制する意図による。本当に議論して核兵器保有を完全に否定してしまっては意味がないからだ。

さらに書けば、「万が一」が起きてしまったら、与党だって困るはずだ。核不拡散どころか核兵器廃絶を訴えてきた国が180度方針転換するとなれば、たいへんな困難に立ち向かわねばならない。「万が一」は諸外国のみならず日本にとっても、可能性として留保しておく限りで存在意義のある選択肢なのだ。

議論する自由はあるだろう、といいつつ議論はしない。これが与党の方針であり、閣僚の不規則発言を「個人的見解」として総理大臣が許容する所以だ。

とすると野党の攻撃はアホらしい感じもするが、これはこれで周囲に必要以上の不安を与えないために必要なことだろう。与党幹部が「議論する予定はありません」というだけでなく、野党が本気で(正しい結論が既に出ている問題を再び)議論しようという主張を全面的に否定することには、意義ある。

では産経新聞のような核保有議論を率直に歓迎する主張はどうなのか。産経くらいの小部数の新聞が議論を歓迎する主張を掲げるのが、「万が一」を全くの絵空事にしないためにちょうどいいバランスなのでは? ……なんて考えながら、私は新聞を読んでいる。

あ、そうそう、ひとつ補足しておくと、産経の記者ブログなどを読む限り、産経の記者さんの一部は本気で核保有論議を待望しているように思う。野党の怒りも本物だと思う。それでいいんだ。上っ面だけで状況を装っても底が割れてしまう。プレイヤーが本気でなければ、「万が一」の凄みも、「でも基本的には大丈夫」の安心も生まれない。

あと結局のところ、私は与党内主流派の老獪さを支持しているわけだ。これを「中立」とか「客観的」だなんて思ってはいけない。

私は、日本も核兵器を保有しろとの議論は非現実的だと思っている。

「唯一の被爆国」の話を持ち出さなくても、議論すれば短時間で結論が出る話である。

第一に、日本はインドやパキスタンとは異なり、NPT(核拡散防止条約)の加盟国である。のみならず、厳しい査察を受け入れるIAEA(国際原子力機関)追加議定書の批准国でもある。

第二に、日本は、NPTに加盟しながら秘密裏に核兵器開発を進めているらしいイランとは異なり、地下の秘密工場など建設できる国ではない。

だから、日本が核兵器を開発するためには、まずNPTを脱退しなければならない。つまり、日本は今の北朝鮮と全く同じ立場になる。世界で孤立し、ごうごうたる非難を浴びながら、制裁措置の下に置かれることになる。今の日本国民は、お隣の将軍様とは異なり、世界の中で最もそのような圧力に耐えられない、か弱き民族である。

もうひとつ、日本がNPTを脱退すれば、日米原子力協力協定に従って日本の核燃料サイクルは停止させられる。原子力発電は止まる。いま言葉だけ勇ましく叫ぶことに何ほどの現実的裏づけがあるのか。

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