1968,70,71,72,73年に製作された「猿の惑星」旧5部作をやっと見ました。面白かったなあ。
以下、ネタバレありで、私なりの「猿の惑星」シリーズのストーリー解説をします。また、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)と、『猿の惑星:創世記』(2011年)についても少しだけ触れます。
地球を発って1年半、宇宙船はオリオン星座に属する惑星の湖に着水し、沈没した。宇宙船は亜光速で飛行してきたため、地球では2000年の時が流れている……。
この星には人間そっくりの生き物と、類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)そっくりの生き物が暮らしていました。船長は人間そっくりの生き物を外見から即座に「人間」と断定し、また類人猿そっくりの生き物を「類人猿」と決め付けます。そして「言葉を持たぬ人間たち」と「文明を手にした猿人たち」に驚き、猿人が人間の知性を否定して動物扱いすることに憤ります。
この惑星は地球と大気組成が同じで、文明を司る猿たちは英語を話しています。しかしテイラー船長が「ここは2000年後の地球だ」と気付くのは、新天地を目指して歩いていた海辺で、自由の女神像を発見したときでした。
『猿の惑星』は日本でも大ヒットしました。原作者ピエール・ブールの経歴から「作中の猿人と人間は、有色人種と白人の関係を模したもの」という解釈があり、「劇中の猿人ってのは日本人のことなのに、あんな国辱映画を歓迎した日本人はどうかしている!」と怒る知識人もいたそうです。
私は原作を読んでいませんが、少なくとも映画『猿の惑星』では、猿人=日本人という解釈は成り立ちません。映画『猿の惑星』に登場する猿人たちは、「猿人は猿人を殺さない」「猿人は自滅を招くほどの環境破壊をしない」といった点で人間に対して倫理的優位を誇っています。1968年といえば日本では公害問題が深刻化しており、かつて戦場にいた人々がまだ中年だった時代です。この猿人たちは、当時の日本人のイメージとはあまりにもかけ離れています。
砂漠の遺跡から、かつて人間が猿人より遥かに高度な文明を築いていたことがわかり、いま言語でコミュニケーションを取れないからといって、高度な知性を否定する根拠にはならない……という構図は、捕鯨反対運動にも通じるもの。しかし、この1点を持って猿人を日本人と結びつけるのは無理筋だと思います。
『猿の惑星』では、肥大化した欲望を制御できず核戦争で文明を失った人類に対して倫理的優位を誇った猿人たちですが、第2作『続 猿の惑星』では、ゴリラ族に仮託された俗物性によって猿人の理性と高潔さは打ち消されてしまっています。第2作では、猿人と人間は見た目が違うだけで、人格には差がありません。
人間と猿人に共存の意思はなく、ニューヨークの地下で細々と文明を保って生き延びていた人類の子孫と、知性のある人間など許せない猿人たちの最終決戦が行われます。人類の子孫は地球破壊爆弾である「コバルト爆弾」を持っており、決戦が人間側の敗北に終ったことを見て取ったテイラー船長は、ついにコバルト爆弾を起爆。地球は最後の日を迎えます。
『猿の惑星』の続編として1970年から毎年製作された『続 猿の惑星』『新 猿の惑星』『猿の惑星 征服』『最後の猿の惑星』の4本に対しては、「矛盾」とか「続編は蛇足」といった指摘が少なくありません。しかし私は、第2作の『続 猿の惑星』はさすがに擁護し難いものの、その後の第3,4,5作は、うまく持ち直してきれいな着地を決めたと思っています。
第3作は地球消滅の衝撃で過去に戻った知性ある猿人夫婦の悲劇譚。第1作とは逆に、知性を持った猿人を人間は恐れ、悲しい誤解の果てに、猿人たちの命を奪って全てを闇に葬り去ろうとします。
未来からやってきた進化猿人の子孫が、類人猿の指導者となって反乱を起こし、人間と激突するまでを描く作品です。
この第4作は、前作までに語られてきた歴史からは、大きく外れています。
猿人の歴史学者コーネリアスの語るところによれば、元々の歴史では、類人猿が人と共に暮らすようになってから言葉を覚えるまでに、2世紀を要したとのこと。猿人が反乱を起こし、核戦争によって文明が消滅したのは、西暦2200年以降の出来事なのです。(その後、猿人は文明を再建しましたが、人類はそれっきり言葉と精神文化を失う)
なお、第1作の舞台は西暦3900年代半ばで、その第1作に登場した猿人社会の「聖書」によれば、猿人文明は2000年前に始まったことになっています。これは矛盾ではなく、「聖書」では猿人が人間から文明を学んだ歴史が隠蔽されているということ。時を越えて文明人テイラーが現れたとき、コーネリアスは、猿人に言葉と文明を与えた神の正体を知るわけです。
ところが、第3作でコーネリアスらが1900年代に現れたためか、第4作では1991年に早くも猿の反乱が起きてしまいます。そして第5作では、21世紀初頭に核戦争が起きます。人類の文明が早い段階で崩壊するため、第2作で世界を滅ぼしたコバルト爆弾や超能力者は、第3作以降の改変された世界には存在していません。コバルト爆弾がなければコーネリアスが過去へ飛ぶことは絶対にありません。
旧5部作を「3→4→5→1→2」という時系列で解釈している方が多いのですが、素直に「1→2→3→4→5」の順で理解すべきでしょう。第5作の中で強調されているように、未来は選択できるというのが作品の基本設定なので、タイムパラドックスの問題はありません。コーネリアスが現れたことで、地球の歴史は分岐したのであって、コーネリアスが現れた地球から見て、コーネリアスは「別の世界からの来訪者」なのです。
「猿人が言葉を話すのは、未来からきた猿人の子孫だから」という説明を目にしたことがあります。その人は、だから本作はタイムパラドックスに陥っているとも主張されていました。しかし、この説明は誤りです。
未来からきたのはチンパンジーだけなのに、後の世界ではゴリラとオランウータンも文明社会の一員となっています。また、第4作の終盤、ふつうのチンパンジーの中の一匹が、猿人コーネリアスとジーラの子孫に触発されて、言葉を発します。その十数年後を描く第5作では、全ての類人猿が人間並みの言語コミュニケーションを取っています。
ようするに、未来世界で猿人が知性を持ち、人並みの生活をしているのは、生物学的な進化によるものではなく、「きっかけ」と「教育」があったからなのです。念のため申し添えておくと、これは映画の中の設定であって、現実には、人間と同じように育てても、類人猿が人間のように言葉を操ることは不可能です。
類人猿と人間の核戦争により、両者ともに大半が死滅してから10数年後(21世紀初頭)の世界を舞台に、猿人へと進化した元類人猿と人間との和解を描く。
映画が始まった時点では、物語の舞台となっているニューヨーク周辺では猿人の方が人口で勝り、主流派となっています。しかし映画の冒頭と結末に登場する約600年後の2670年には、猿人と人類は対等の立場で、人口もほぼ同等の状態で共存しているようです。
じつは「猿の惑星」シリーズ旧5部作の中で、猿人が地球全土で人間を支配しているという描写は、全くありません。徹頭徹尾、アメリカ北東部の海岸付近(しかも徒歩で移動できる範囲内)だけで物語が展開されているのです。第2作では領土拡張のためには核汚染された禁止地帯へ進出する他ないとされ、第1作でも禁止地帯の向こうにある世界は謎とされています。第4~5作でも、それは同様らしい。
シリーズ全作を通して猿人の街はひとつしか登場せず、その人口は高々数千人です。現在の先進諸国の倫理観から考えて、人類の文明が残っているなら、汚染地域に取り残された人々を放置するわけがない。そう考えれば危険地帯の外側に文明が継続している可能性はないと判断できますが、世界地図の点みたいな場所に小さな猿人の街がひとつあるだけの世界を「猿の惑星」と呼ぶのが妥当かどうか。
何かと評判の悪いバートン版ですが、いわゆる「SFとしてよくできている」のは新作の方。
主人公が墜落した「猿の惑星」は衛星が2つあり所属する恒星系の様子も異なるから「地球ではない」とわかるし、ラストに辿り着く惑星は宇宙からハッキリ見えるアメリカ大陸から地球であることがわかる。セード将軍の部下が沼に沈んだ宇宙船を発見する描写もある。きちんと情報を提示しており、納得できます。
また、話のスケールも理屈の通るサイズにまとまっています。バートン版はスタート時点の人口をごく少数に設定しており、数十億の人類が一挙に文明を失う大法螺を回避しています。ただ、それだけでは話が小さくまとまりすぎてしまうからか、馬鹿馬鹿しいのは承知でラストに「いかにも」な「猿の惑星」を一瞬だけ見せていますね。
バートン版の不人気は、「SFはマニアのせいでタコ壺化してつまらなくなった」みたいな話なのかも。旧作レベルのアホらしさが、広く一般にアピールするには適当なライン。新作はマジメに作り過ぎてケレンが足りなかった、と。
舞台は21世紀初頭。薬物投与が切っ掛けで1頭のチンパンジーが知性を得る。成長した彼は、やがて類人猿の知性を目覚めさせ、人類に対し反旗を翻す……。
まさか新作が出るとは思いませんでした。ものすごく大雑把に捉えると、『猿の惑星 征服』のリメイクに近い作品。でもディテールなどは全く違いますし、断然、新作の方が面白い。日本では小ヒットにとどまっていますが、アメリカでは意外な大ヒットとなったそうです。