趣味Web 小説 2007-03-07

文系の学部教育を覆う奇妙な倫理観

1.

文系は大変だな、と思った。理系のふつうの学部生は先生の示すテーマから好きなものを選ぶだけだから、気楽でよい。

2.

私の出身学科では、研究室紹介が研究テーマのガイダンスになっていた。「うちの研究室に来たらこんな研究ができるよー、楽しいよー」と先生や院生が説明する。

先生はいろいろやりたいことがある。でも10個の研究テーマがあっても、学生が5人しか来なかったら5つしかできない。だから、いかにその研究テーマが魅力的かを説明するのに必死だ。そんなわけで、3年生向けの講義では、雑談に絡めて研究室の宣伝をする先生がちょくちょくいた。長期計画で勧誘しようという作戦。

院生が必死なのも同じこと。学生1人では荷が重い研究は、院生+学部生(1~3人)というチームで取り組むことになる。学部生が集まらなかったら研究は進まず、自分の卒業が危うくなってしまうのだ。これはもう決死の覚悟で勧誘活動に勤しむ他ない。

ちなみに私の出身学科では、工学部にしては珍しく、卒論を書かなくても卒業できることになっていた。卒業研究が6単位で、選択必修科目のカテゴリにある。じつは選択必修カテゴリはちょうど6単位まで「選択しない」ことが可能となっており、卒研に失敗しても他の科目を全部取っていればOKというわけ。

ところが、選択必修科目は大学が卒業生の品質を保証する肝心要の科目であるから、試験の成績が悪ければ容赦なく不可となる。卒研以外は全て2年次に履修できるようになっており、3年・4年と2回の再挑戦で突破できれば無事に4年で卒業という、非常によく考えられたカリキュラムであった。

そんなわけで卒研は、じつのところ「どうしてもクリアできない選択必修科目があって泣きそう」な学生にとっては福音ともなっていた。先輩の面倒見のいい院生と共同研究になる研究室は、一種の駆け込み寺ともなったわけだけど、足もとを見られて(?)こき使われる結果となる者もいた。

逆に2年次に選択必修を全部クリアしたような学生は、大きなテーマに何の不安もなく飛び込んでいくことができる。仮に研究がまとまらなくても卒業に問題はないし、最初から院への進学を前提に3年計画を立てることも可能だった。

3.

文系の仕組みはよく分からないが、卒研が必修科目でないなら、辻さんのように厳しいことをいっても問題ないのかもしれない。

でも文系にだって、いろいろな人がいるはずだ。与えられたテーマに取り組むのが得意、という学生の個性だって尊重されていいのではないか、と思う。何というか、辻さんの文章を読む限りでは、文系って大学のサービスが悪いなあと感じる。多様性がないし、学生のやる気を引き出す仕組みが乏しい様子。

そもそも先生の方に学生の面倒を見るインセンティブがないのが大問題だ。ヘンな倫理的制約があって、学生を先生の手足としてこき使っちゃいかんみたいなことになっているのだとしたら、もったいない話だ。理系の研究室のサービスがいいのは、先生は学生を、学生も先生を必要としているからだ。

頭の中だけで考えると搾取の図が浮かんでしまうが、それを防ぐのは難しいことではない。私の出身学科では、搾取を排除するためにひとつのシステムが導入されていた。

一撃必殺だ。これが明文規則だったのか不文律だったのかは分からない。けれども実際にこのように運用されていたので、学生が奴隷にされちゃうことはなかった。「あそこの研究室はやめといた方がいいよ」とか情報はガンガン入ってくるし、一度決めた研究室を移ることもできた。

補注

こんな研究をしたい! という希望のある学生は、教授に相談すると、きちんと対応してもらえる。というか熱烈に歓迎される。「こんな学生を待っていた!」って心の底から思うらしい。だから先生方は、そうした学生に相談をされるような人物になるべく、努力していたりもする。

4.

コピペレポート問題。ネットで調べてコピペすれば足りるレポートには、「それで結構」というケースも多いと私は思っている。

私が受講した化学実験実習のレポートは「1.実験の原理 2.実験の内容 3.実験結果 4.考察」の4章構成にせよとの指示だったが、1.の部分は図書館で借りた本のお世話になるのが常だった。実験後に図書館へ行くと、もう他の人に本を取られてしまっている。だから実験前に本を借り、予習としてレポートの1.を仕上げるようになった。すると俄然、実験が面白くなる。「読むだけ」の予習とは段違いだった。

コピペが困るなら「手書きのみ」という制限をつければいいのだ。どうしても筆写が不愉快なら、レポート用紙を配布して、「手書き」「片面のみ」「空白行は3行以内」と制限をつければよい。単なる筆写では行が足りなくなったり余ったりするに決まっていて、自分なりに資料を再構成する必要が出てくる。

調べモノじゃなくて自分の頭の仲の何かをアウトプットしてほしいなら、授業時間を割いて教室で書かせるべきだよね。多忙で休講になってしまうような日を使う。前週の講義の最後に「来週は**というテーマでレポートを書いてもらいます。持ち込み不可。提出用紙は当日配りますが、これまでの講義の内容をよく復習して文案を練っておくように」そして当日のレポート監督は研究室の学生をバイトで雇う。

この程度の工夫の余地はあって、実践例もある。真似してやってみてはどうか。

私の知る多くの学生はまじめだけれども、よく考えて無意味と思ったことは平気でサボる。コピペでレポートを構成するのは、コピペなしで作成したレポートと比較して、クオリティに差がないという判断があるから。私が本の筆写でレポートを作ったのは、それが最高品質のレポートを作成する方法だったからだ。

自分の言葉で語りなおすことに意義がある? 私は「ある」と思ったときはそうしたし、「ない」と思ったときはそうしなかった。初めて知るようなことをド素人が語り直してどうする? 自分なりにいろいろ学び咀嚼できているつもりのことなら、語り直しは面白い挑戦だった。

本当に考えなしの学生もいるかもしれないけれど、少なからずはそうでもないと思う。

もちろん、人の心は弱い。レポートの手書き指定は、先生の親心と思って感謝した。プリントアウトしたものでいいよといわれていたら、筆写の手間が持つ学習効果をよく分かっていながらも誘惑に負けていたかもしれない。だから出題者のちょっとした仕掛けは意味がある。

そして教師の様々な工夫は、お説教より雄弁に「いま君たちに何を学んでほしいか」という意図を伝えていくことになる。「文献を調べて知識を吸収せよ」「学んだことを再構成して語り直せ」「自分の中にあるものを吐き出してみよ」

こうした語りかけの積み重ねをサボっていながら、「なぜ分かってくれないんだ?」と首を傾げる人は滑稽である。

5.

大学で何を学んだのか、何を学びたかったのか、小一時間問いつめたい。

卒論テーマを外注しようとする考え方に辻さんがぶつけた言葉がこれ。

学生はそりゃ当然、好きで試験を受けて入学してきたわけで、何かを学びたかったには違いない。でも、「卒論のテーマは自分で発見すべき」というテーゼは、どれだけ普遍性があるのかな、と疑問に思う。

専門学校と大学は違う、という主張は分かるけど、辻さんの期待するような学生像だけが「正しい」のだろうか(多様性の問題)。そして辻さんの基準では専門学校と大学の落差は非常に大きなものとなっているのだけれど、中間の領域はどうなってしまうのだろう?(水準の問題)

とりあえず理系学部の教育について、文系学部の人はもう少し参考にしていいと思う。辻さんらが死守しようとしている何かは、理系学部ではアッサリ反故にされている。それで学生は堕落しきっていますか? 大学が大学でなくなっていますか? そんなことはない、と私は思う。

卒論のあり方はもっと多様であっていいし、講義のやり方やレポートの出題方法だってもっと研究されていい。

卒論のテーマは学生が見つけなきゃ無意味なのか、レポートは筆写じゃダメなのか、それを誰も疑わないのが文系学部なら、私はホント、文系科目の方がずっと得意だったけどわざわざ理系学部に進学してよかったなあ、ということになる。

補記

辻さんのご意見自体は、よくわかる。ひとつの理想を語るのは決して悪いことではないし、その際、いちいち多様性への配慮がどうのこうのなんてやってはいられない。だから私の文章は、辻さんに対してはイチャモンかもしれない。

私が本当に嫌だなと思ったのは辻さんの記事の反響。はてなブックマークのコメントなど。ひとつの理想が、唯一絶対の理想になってないか? と不気味に感じた。過去に何度もあちこちで話題になったコピペレポート問題も、「それはひどい」みたいな反応ばかりが目立っていたと思う。

Information

注意書き