いたちごっこ、というけれど、ある種のいたちごっこは、ちゃんと一方が勝てるゲーム。
なりすましに対して、これはなりすましです、とコメントしていくのは、おそらく不毛の作業。でも、なりすましが成功するためには、なりすまされた人物が当該発言をするような人物だと、当該発言を読んだ人が思わねばならない。
野嵜健秀さんと「義」の事例では、野嵜さんのサイトの愛読者なら、誰だって「これは野嵜さんの書き込みじゃないな」と分かる。というか、攻撃の効果を高めるために、「義」はそうせざるを得ない。適切な場で正論を述べたのでは、何のためのなりすましか。
とすると、「義」が野嵜ファンの目の前に現れず、野嵜さんの野の字も知らないような人ばかりが集まりそうな場所でなりすまし攻撃をするのは合理的だ。
野嵜さんを知らない人が、その後も野嵜さんを知らないままなら、なりすましは失敗だ。偽物と本物とを結びつける経路があるからなりすましになるわけで、その経路を潰せばよい。
「義」が投稿者のサイトとして「言葉言葉言葉」へリンクしているなら話は簡単。一番目立つところに「最近、野嵜健秀の名を騙って掲示板やコメント欄を荒らしている人物がいます。詳細は特設サイトをご覧ください」と書き、典型的な荒らし書き込みなどを集めたページへリンクすればよい。一撃で返り討ち。
でも「義」はそうした手を使っていない。とすると、検索エンジンルートしかない。検索結果のトップ3が「ニセ野嵜に注意」だったら、バカでも状況は分かる。今、ダメなのはここ。
Google 1位の「言葉言葉言葉」にはニセ野嵜に困らされている件がトップページに書かれていない。2位は野嵜さんを掲示板荒らし呼ばわりするサイト。3位にようやく野嵜さんの反論が出てくるけど、野嵜ファンしか読む気になれない構成の文書。「野嵜さんって誰だろう?」と思って検索する素人には読めない。
私の記事「野嵜健秀(野崎健秀)さんについて」が非常に簡潔なのは、素人向けを意識してのもの。でも、目的を果たすには十分な情報量だとも思う。
こういう簡潔な記事がトップ3を占めていれば、なりすましは成立しない。成立しなければ、「義」はモチベーションを失う。一時的には逆噴射も起こりえますが、遠からず心が折れます。今は「義」に反撃している側が空しさを感じていますが、立場が逆転するのです。
なりすましをしようとする人がいること自体は、仕方ないと思います。世の中、いろいろな人がいるので、衝突もある。だから、その先だけを考えよう、というのが私の提案でした。
でも私自身、攻撃されたときには「逃げる」ことを考えました。仕方ない、じゃ割り切れなかった。某サービスのアカウントを削除して、攻撃者の視界から消え去りました。ネット的に自殺したので許してください、とアピールした。(結果的にそれで攻撃は止まった)
そのとき理不尽と戦うことは職場にトラブルを持ち込まれることを意味していました。私が守りたかったものと比較して、リスクが大き過ぎました。
野嵜さんへのなりすまし攻撃、「無視すればいいじゃない」と私も思った。でも野嵜さんは以前、自分のところの掲示板を荒らされるならともかく、無関係のあちこちの掲示板やコメント欄が、野嵜攻撃のために荒らされるのは耐え難いという気持ちを表明されていました。
攻撃的な内容を多く含む文書群を、更新停止のみならず過去ログの削除まで行ったのは、私のアカウント削除と同じような判断によるものかもしれない。今のところ「義」の活動は完全には止まっていないものの、ペースは落ちている様子。
なりすましが失敗すれば「義」の攻撃なんか痛くも痒くもない、というわけにはいかず、「義」の攻撃が止まることを望むなら、「義」の嫌うコンテンツを全て消していくしかないのは、理解できます。
野嵜さんを掲示板荒らしと呼んでいる記事、なぜあれほど検索順位が高いのだろう……。いろいろ調べてみても、良質な外部リンクがろくに発見できません。だったら当サイトの内部リンクを増やすことで、「野嵜健秀(野崎健秀)さんについて」の検索順位を上げられるかな、と。
あまり関連記事を増やしたくないなあと思っていたけど、新たな記事を立てたのは、そうした意図によります。
ここでも話題になっている「野嵜健秀と検索して荒らし対策サイトが上位を占めるのは良いことか否か」について、私の見解を書いておきます。
正字正かなについて知りたい人は、「正字正かな」と検索するはず。「野嵜健秀」と検索する人は、「野嵜健秀」について知りたいに決まっています。おそらく今、野嵜さんを知らない人が「野嵜健秀」と検索するのは、「義」によるなりすまし投稿を見て「何者だろう、こいつは」というケースが一番多いと思う。
Google では「言葉言葉言葉」が1位に出ますが、野嵜さんが掲示板荒らしなのかそうでないのかは、膨大なコンテンツを丹念に読んでいかなければ判断できない。Yahoo 1位と Google 2位は「野嵜健秀は掲示板荒らしである」という情報。これが正当な検索結果だとは、私には思えない。
Wikipedia でも、同名の項目がいくつかある場合には、検索結果として「あなたが調べたいのは、いったいどの***ですか」というページを返します。「野嵜健秀」と名乗る人物が、いま少なくとも2人います。「あなたが詳細を知りたいのはどちらの野嵜健秀ですか」というページがトップにくるのは、いいことです。
野嵜さんはあちこちのブログのコメント欄に顔を出していらっしゃるので、「コメント欄で野嵜健秀を名乗っているのは全て偽者」といえないのが、つらいところ。世の中には、コメント欄で批判的なことを書いたり反論したりするだけで「荒らし」とみなす人もいるわけですからね。
つまり野嵜さんのいう「野嵜は荒らし行為をしません」というのが、通用しないかもしれないな、と。メールアドレスやメールフォームを公開している人にはメールで意見する、そうでなければ反論するのは我慢する、「闇黒日記」をやめてしまった以上、そうしないと、ただでさえ不利な戦いがもっと不利になる。
野嵜さんの知人の木村貴さんによると、ここのコメント欄に山ほどの投稿をしているのは、野嵜さんご本人なのだという。void さんと同じで、いっていることの正誤と関係なく、よそのコメント欄で(迷惑がられているのに)こうもしつこく投稿を続けるのは、ある種の「荒らし」なんじゃないか。私なら投稿を禁止します。
少なくとも、こうした行為について「粘着」と呼ぶことを私は躊躇しない。ここで野嵜さんの「粘着」とは定義が違ってしまうのだけれど、果たしてどちらがより一般的な定義だろうか。
アレクセイさんが野嵜さんを掲示板荒らしと呼ぶようになった件、私も過去ログをけっこう読みました。どちらのいうことに分があるか。私は野嵜さんかな、と思った。しかし野嵜さんのしつこさは尋常ではなく、これでは主張以前の問題じゃないか、とも。これでは嫌がられるに決まってる、と。
私は野嵜さんを「掲示板・コメント欄荒らしではない」と擁護しようとしているのだけれど、野嵜さんが平気であちこちのコメント欄に突撃しているようでは、お手上げですよ。一般人定義では粘着でも、野嵜定義では粘着ではない……そんな難しい話、世間に通用させるのは並大抵のことではない。
勝敗は二の次、三の次だというなら、野嵜ファンの活動なんか空しいね。大将が自ら足下を崩しているんだもの。コメント欄に突撃する元気があるなら闇黒日記を復活したらいいじゃないか。それがファンの願いであるわけで、勘弁してほしいよホント。見返りを期待しているわけじゃないが、これは背信行為だと思う。
せめて過去ログだけは残してほしかったって、何人もの人が書いてたでしょ。いくら書いても、間違いをスルーする連中ばかりだった、これ以上書いても空しい。それはわかる。でもそれなら、過去ログまでわざわざ消すことはない。それは読者に罰を与えるがごとき行為だ。でも、そこまでやった。怒りの深さを知った。
そして、こんなところで闇黒日記最新版の大盤振る舞いだ。悔しい、野嵜さんにとってファンはアンチ以下か。
闇黒日記の過去ログ消去、心ならずも「義」に屈するということなら、理解できると先に書きました。ところがその一方で、納得できない記事を書いたブログのコメント欄に粘着してる。これで「義」が止まるのか。野嵜さんが沈黙しても、2年や3年くらいは「義」の活動は続くでしょう。それくらい我慢できないのか。
半年も経たずに今度はコメント欄に顔を出して粘着する、これではますます「義」に動機を与えているようなもの。そしてますますなりすましを容易にしている。「野嵜は掲示板にもコメント欄にも絶対に書き込まない」これが徹底できていれば、なりすまし対策なんか、そう難しくないんだ。それくらいわかるはずだ。
当然、野嵜さんは、わかっててやっている。だからやりきれない。そりゃ、なりすましはするヤツが悪い。だけど、これはないよ。「義」を刺激する元気があるなら、闇黒日記の過去ログも復活させてほしい。
あと、野嵜さんみたいに粘着するのが「スルーするな、反論せよ」の実践なら、私はそれがいいことだとは思わない。特定の個人を説得しようとする試みがうまくいかないことは、歴史が証明してる。喜六郎さんのコメント欄にたくさん書いて、一人でも自分の意見に同意する人が増えました? 増えていないと思う。
対話というスタイルで記事を書いても、本義はギャラリーの支持を増やすことに置く。特定個人の説得ができずとも、適当なところで引き下がる。そうでなくては、本来なら味方になってくれる人だって逃げていく。
私は野嵜さんが闇黒日記を書いているのを読んでファンになった。あちこちのコメント欄に出没して、納得できない意見に反論して回るのがメインの人だったら、ファンにはなっていない。ファンの大半は、そういう人のはずです。違いますかね。
まあ、ファン程度の理解では満足できないのでしょうが、だからといって今のやり方のどこがいいのだろう。あまりの不毛さに、闇黒日記よりもっと空しくはならないか。
- 僞「野嵜健秀」問題で、何時もの方々にフォローをいただき、大變感謝してゐます。ただ、矢張り「何時もの方々」の反應しか無い、と云ふのは殘念です。
- 掲示板への騙りの投稿に對して「削除」と云ふ對應が行はれてゐる事について、これは騙り行爲を抑制するものではなく、逆に、騙りの行爲を助長するものだと思ひます。「野嵜の名を騙る投稿があつた」のが、「削除」に據つて、結果として隠蔽される――「とある人物の名前を騙る投稿があつた」と云ふ事になる。騙りの人間にとつて、これでは事態がゼロに戻るだけですから、何の痛痒も感じません。ですから、單に「野嵜の名を隱蔽する」事は、「野嵜の名を騙る行爲」に對抗する活動にはなりません。
- 寧ろ、「野嵜の名を騙る投稿」については、「野嵜の名を騙る投稿である」と云ふ事實を記載して貰ふ事で、騙り行爲が執拗に繰返されてゐる事實を周知せしめる事が、「騙り行爲」に對する抑制力となるのではないかと考へられます。例の「申 し わ し た ぞ」の投稿がある度に、「これは有名な荒しだよ」とコメントが附く現状があります。それを、「これは有名な騙りだよ」と云ふコメントが附く状況に變へる事が必要です。騙り行爲が支持されなくなる、と云ふ状況を定着させる――それが騙り行爲を抑制するベターな方法でせう。
- 「野嵜の名を騙つて掲示板を荒す行爲」は、野嵜に對する嫌がらせであると同時に、ウェブの各地の掲示板の管理人と利用者に對して迷惑をかける行爲です。迷惑がかかるからこそ、「迷惑をかけてゐる主體」を佯る「騙り」行爲が發生する訣ですが、「野嵜は掲示板荒し」と云ふ風評をウェブ中に立てる目的で「騙り行爲者」が荒し行爲を續けると、野嵜個人が迷惑するのみならず、ウェブの多くの掲示板の管理人・利用者が迷惑する事になります。そこで「野嵜は惡くない」と云ふだけの消極的な主張をしても仕方がありません。問題の焦點は相變らず野嵜にあり、それだけで野嵜の被害は擴大する事になります。
- 今囘の事件が問題であるのは、「騙り」に據る、と云ふ點のみならず、「掲示板荒し」である、と云ふ點にあります。「掲示板荒しである」――これがかの「騙りの行爲者」の重大な問題である訣で、その點に問題の焦點を移す必要があります。それに依つて初めて野嵜の被害は救濟される事になりますし、野嵜以外の被害者たる各地の掲示板管理者・利用者も救濟される事になります。
- 野嵜と云ふ「個人」のみならず、「ウェブの全ての掲示板の管理人・利用者」にとつて、「騙り」による「荒し行爲」は迷惑である――この事をウェブ全體に周知せしめ、ウェブに蔓延する惡意の行爲の問題を顯在化させる、それが惡意の被害を救濟する事に繋がります。現在のウェブは、餘りにも惡意の利用者が得をし易い。自淨作用がさつぱり働かないからですが、これでは當然の事ながら、官憲の介入を要望、と言ふより積極的に要請しなければならなくなります。餘りにも自由である事は、兔角反動を惹起し勝ちである――この事が解つてゐない(例へば高橋氏みたいな)人が、もつと自由を寄越せと安心して主張し續けるのですが、何うかしてゐると思ひます。自由に對しての一定の「抑壓」は、一定の自由を保つ爲には必要であり、その爲には自由に行はれる惡意の行爲を抑壓する事を始めとして、野放圖な自由を抑制する各種の仕組が必要である――さう考へますが、騙りの問題荒しの問題から話が稍や逸れたやうです。
「騙り」による「荒らし行為」は迷惑だ、なんてのは説明するまでもない。「そりゃそうだね」と誰だっていう。目的は既に果たされてます。
「義」はコミュニティと無縁の場所にだって現れるのだから、いくら過去の荒らしの現場を保存したところで、「義」を知らない被害者はいつまで経っても新たに出てくる。荒らしの現場を保全して「義」の存在を世に知らしめるなんてメリットは、目障りな投稿を掲示板に残すデメリットに見合わないと思う。
私が掲示板の管理人なら、削除を選びます。
あと、「義」の投稿にいちいち「これは騙りです」とコメントするなんて、一番の被害者の野嵜さん自身、面倒くさくて続けられなかったことでしょう。そんなのを他人に期待する方がおかしい。基本的に、「義」の騙り書き込みは、何のフォローもなく放置されると考えてよい。
野嵜さんはあまり興味がないようだけど、現実にせめてもの効果のある対策というのは、前段のような状況認識の上で考えないと。SEO で勝つというのは、飽きっぽい野嵜ファンでも役に立てる方法。迂遠だけど「義」のなりすましを無効化し、やる気を殺いでいける。
ま、こういう発想に与しないのが野嵜さんで、引用した話の風呂敷の広げ方とかワクワクしちゃうのだけれど、これと過去ログの全削除という逃げの一手がどう整合するのか、どうも釈然としない。
期待しないように
っていわれても、やっぱり嬉しい!