「理想のブログ」に思う(2007-07-18)の後日談、みたいな。
8月初め、日暮里駅を利用する機会があったので、噂の修悦体を見てきました。そのとき、アレッ!? と思うことがありました。
修悦体をフィーチャーする様々な写真と、何かが違うような感じがしませんか? そうなんです、佐藤修悦さんのテープ文字は、たくさんある案内標識の一部でしかない。日暮里駅の修悦体は、プリンター出力の文字に埋もれた形で存在しています。
君は修悦体を知っているか(Yasuhiro Tsuchiya さん)では暫定的に、必要にかられて、テープをつかって、まさにブリコラージュによってつくられたタイポグラフィ
と紹介されているのですが、テープを使う必然性はなさそう。もちろん、修悦体のパッと目に飛び込んでくるキャッチーさ、面白さは格別です。けれども、修悦体がなければないで、日暮里駅の利用者は困りそうにない。
佐藤さんのインタビューによると、当初は案内標識が不出来または数量・大きさが不十分で、音声による案内を行っていたが、埒が明かない。それで自ら案内標識を作った、と。テープを使ったのは、それが佐藤さんの自由になる道具だったから。プリンターを自在に使える立場・状況なら、修悦体は誕生しなかったろう。
テープ文字はサイズ自在、床面利用も簡単、といった利点がある一方、複製・移動・交換・修正が困難で、大量のマンパワーを消費する欠点も持つ。総合するに、プリンター出力が時代の趨勢ではあると思う。
修悦体は、テープ文字の利点に美しさ、面白さをプラスした。しかし(今後はわからないが)これまで修悦体はカネにならなかった。それは日本がまだ、使い捨ての案内標識の美観に人件費を注ぎ込めるほど豊かではないためなのか、それとも……?
とまれ、実用の道具という修悦体の出自から、これを「日本のものづくりの底力」などと持ち上げるのは、少し違うような感じはしました。
私自身、何度も佐藤さんのフォントは新宿駅で目撃し、その美しさに心を惹かれながらも制作者が誰であるかとか、作品がどのような背景を持っているのかとかを考えたことはなかった。
今回の佐藤さんの作品をアートたらしめたのは、トリオフォーという集団の発見力でありプロデュース力であるのは間違いない。
言葉の定義の問題に過ぎないといえばその通りですが、アートは誰も発見しなくたってアートなのかもしれない。ただ少なくとも、修悦体がこれだけ話題になって、イベントに人が押しかけるという小さな現象が生じたのは、トリオフォーの快挙だと思う。
日暮里経由で行ったところの写真。人影は両親。