趣味Web 小説 2008-11-04

それでも実力行使には躊躇する

ちょっと意外な議論になってた。内政不干渉がどうとかこうとか。

私は、内政不干渉というのは、他国の内政について批判すらしないという意味ではない、と考えている。というか、実際、批判は散々行われていて、それ自体が決定的に問題視されたりはしていないはず。中国などはちょくちょく反発しているけれど、言葉のやりとりのレベルに概ね留まっている様子。

今回のソマリアの話、私はひどいと思う。そして、「ひどい!」と声をあげる権利を、私は求めたい。が、かといって、こうしたことを理由に、実力(ようするに武力)でソマリアの内政(無法同然のようだが一応)に干渉していくことに賛成するかというと、それは話が違う。

価値観の対立は、自らの具体的脅威となるまでは、説得の域を大きく逸脱すべきではない。「死刑制度は野蛮だ!」「死刑囚の人権を守れっ!」といって国連軍が日本政府を打倒したら、日本国民は怒るだろう。自分の価値観を基準に、考え方の違いだけで実力行使をしていいとすれば、いずれこうなる可能性はある。

世界の過半数の国が死刑制度反対なのであり、日本は少数派だ。もちろん報道されているソマリアの惨状については、9割超の国が遺憾の意を有しているだろう。違いはある。しかしそれは程度の差じゃないのか。日本の死刑制度はよくて、ソマリアの「理不尽」な処刑は許せない、なんてのは内向きの議論だと思う。

情報技術は進化したが、国家はなくならない。むしろ日本でも地方分権なんていっているくらいで、統一より多様性が志向されている。

実務の都合上、立法・行政・司法が土地で区分される他ない状況は当面続く。しかし現状、地域と価値観はある程度しかリンクしていない。将来的には、各地域に根ざした小政府を、国民が自らの価値観で選択し、移住するような状況になったら理想的だ。足による投票の進展。

実際には、自分は微動だにせず、政府の方に「俺の思うように変われ!」と命じる人が大多数だ。ならば隣人を説得する意思はあるのかというと、それもない。よって、私の理想が実現する見込みはない。残念だ。

自分が暮らす世界を自分の価値観に沿った形に変えるのではなく、自分の価値観にピッタリの世界を選択する、そういう発想が一般的になれば……死刑制度が嫌なら死刑のない地域へ移る、移らずに残った人は大筋で現状肯定なんですよね、と。これくらい話がシンプルになれば、地域の個性が素直に出せるようになる。

都市開発の経済学をお勉強しているときに強く意識したのだけれど、土地に縛られる人の心って、相当に罪深い。多くの人が土地を移りたくない社会では、直接・間接に移住を抑制する制度が成立する。そうして、出口のない価値観闘争の舞台を用意することになる。

補記:

ソマリアの少女が自由に国を移れるわけもなく、何とかして助けたいと思う人がいるのは当然だ。が、武力侵攻のような実力行使には、それでも慎重でありたい。私は、ふと気付くと、どうせ自分が現地に行くわけではないと高を括って勇ましい言葉を口にしていることがある。恐ろしいことだ。

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