趣味Web 小説 2009-08-06

裁判員制度を導入しても“変わらない”日本の裁判

1.

今日、新裁判員制度による最初の判決が出るという。

70代男性が顔見知りの60代女性を感情的対立から殺害した事件。

被告は殺人行為そのものについては認めている。検察の求刑は懲役16年だが、裁判で検察の主張に一部反論しているのは、ディテールまできちんと事実に基づいて判断してほしいからであって、刑罰を軽くしてほしいという意図はないのだという。

被害者側遺族は死刑判決を望んでいるが、それが無理なら無期懲役、最悪でも懲役20年(最高刑)を希望している。死ぬまで社会に戻ってこないでほしいのだそうだ。なるほど、72歳+20年なら、寿命がきそうだ。

被害者の遺族は、被告の証言を取り入れて構成された検察の主張する「事件の経緯」に不満があり、被害者は温和で人を傷つけるようなことのない人物だ(=被告は異常者であり、常人には全く理解できない思考過程から被害者への憎しみを募らせ殺害に至った、つまり被害者には何らの原因もない)と主張してもいた。

遺族もまた、ディテールまできちんと事実に基づいて判断してほしい、と考えているわけだ。

2.

私が模擬裁判で裁判員を務めたのは2005年のことだった。恋人の浮気を疑い、恋人の相談相手を殺害した20代男性の裁判。居酒屋での1対1の話し合いに被告は刃渡り20センチのサバイバルナイフを持って行き、酒を飲んで酩酊した後、店の前の路上で被害者の首を切って殺害した。実際には、恋人は浮気していなかった。

閉廷後、率直な感想は「こんな裁判のやり方には無理がある」というものだった。

裁判員にはかなりの自由度がある。私が参加した模擬裁判は検察、弁護の双方が犯行時における被告の心神喪失を認定していた。通常それならば被告は無罪なのだが、検察は「原因において自由な行為」という法理で被告の罪を問おうとしていた。

が、裁判員と裁判官は、検察官と弁護士の主張をいずれも却下して「被告は心神喪失ではなかった」と判断してもよいのだという。私は驚いた。

評決は、まず心神喪失を認定、続いて犯行直前の殺意を否定、そして傷害致死を認定して有罪、量刑は懲役8年となった。私は愕然とした。被告が思慮を欠く行動の積み重ねが生んだ事件であることは明白だったが、殺意の立証は不十分だった。だから殺人罪を回避する。それはわかる。でも、傷害致死って?

法廷で確実に立証されたのは、(過失)致死、銃砲刀剣類所持等取締法違反、脅迫罪の強要未遂。併合罪としても最高刑は懲役4年半。軽すぎる、と全ての裁判官と裁判員が考えた。検察は法廷では殺人罪前提の議論ばかりしていたが、起訴状には傷害致死も書き添えられていた。そこに全員がとびついた格好だ。

茶番じゃないか。法廷でも評議の過程でも、誰一人として被告の「被害者に怪我をさせてやるぞ」などという意思の存在を論証してこなかったくせに、最後の最後で取ってつけたように傷害致死で懲役8年。死刑もありうる殺人罪を回避して、量刑から逆算して納得のいく罪状をもってくる……何それ?

念のため補足すると、「あー、みんな量刑から逆算してるな」というのは、各裁判員が裁判官へ質問する文脈、言葉の端々に現れる価値判断、回答への反応などから私が推察したもの。銃刀法違反+脅迫未遂は最高4年半という解説に、裁判員たちがうつむいたり天を仰いだりして、しばし言葉を失った場面は印象的だった。

誰も「4年半じゃ短すぎますよね。仕方ないから、確実な立証はされてないけど傷害致死にしましょう」なんて言葉は発しなかった。みな、積み木を重ねていくような法廷の流儀を尊重して、ちゃんと材料から結果を導き出しますよ、という建前を守った。

それでも、被告に傷害の意思があったと力説する人は最後までいなかった。殺意については侃々諤々の議論の末に評決で決着したのに、傷害の意志については私を除く全員が無言のまま評決で手を上げて認定したのだ。この裁判の欺瞞が露呈した瞬間だった、と私は思っている。

結局、素人は、最初に有罪か無罪かを考え、次に量刑を考える。罪状なんてのは、本音をいえば、どうでもいいわけだ。にもかかわらず、裁判はディテールを積み上げて結論を導く形で進行し、みなその形式に従う。だから最後の最後、決定的な場面で、本音と建前の矛盾が露呈してしまう。

評議のはじめに、「疑わしきは罰せず」の原則が示され、みな同意したはずだった。それなのに。

帰宅後、私はなかなか寝付かれなかった。

3.

実際の裁判の話に戻る。

報道を見る限り、裁判員はやっぱりつらいだろうな、と思う。法廷で争われているのは、だいたいが事実認定なんだよね。でも判決は価値判断がなければ決められない。事実はひとつでも、それが悪いことなのかどうか、仮に悪いとして、どの程度の刑罰が妥当な悪さなのか、その判断は無数にありえる。

今回の裁判では、事実を伝える方法はいろいろ工夫されているようだが、価値判断を簡単にする工夫はない。法廷では相変らず枝葉末節の事実が争われ、裁判員が本当に大きな判断を迫られる領域が見えにくい。

被害者がしばしばきつい言葉で人を傷つけることのある人だったとして、だから何だというのだろう。被告には何の生命の危険もなかったのに、口喧嘩に娘の形見のナイフを持ち出して一方的にメッタ刺しにした行為を評価する裁判において、被害者の性格がどんな意味を持つのだろうか。

裁判官がごちゃごちゃ長い判決文を書く習慣を変えないから、こんな裁判になるのだろう。細かいことまで事実認定しないと判決文を書けないかのような思い込みというか、従来の裁判文化は、市民参加の新制度の下では徐々に変わっていくべきではないか。

4年前、模擬裁判の判決文に、私は頭を抱えた。判決文は、「証明」されたとはとてもいない細かな事実を次々認定して裁判所の考える「真実の物語」を原稿用紙何枚分も書き連ねた挙句、結局は何ら客観的な基準を示すこともなく「以上の諸事情を考慮し、主文の刑に処するのが相当と判断した」と結論していた。

おいおい、評決を取ったのは、有罪か無罪か、殺意の有無、傷害の意志の有無、量刑の4項目だけだったじゃないか、俺はこんな事実認定に同意なんかしてないぞ……。

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

この記事の話題と直接の関連は薄いが、元裁判官が書いたこういう本もある。

4.追記

判決が出た。懲役15年。

読んでてゲンナリする。被害者の生い立ちがどうの、「ぶっ殺す」といったかどうか、それが何なんだ。懲役15年という結論に、それ、本当に関係あるの?

次々に事実認定される事件のディテールはほぼ検察と遺族の言い分そのまま。疑わしきは被告の利益に、なんて原則はポーンと吹っ飛んでいる。MSN産経の法廷ライブを読む限り、争いになった箇所について、検察がまともに「立証」できていた項目はほとんどなかったと思うのだが。

結論はいいよ。だけど、争点になったという殺意の程度ですか、それって裁判員にとって本当にこの裁判の争点だったのだろうか、と私は思う。

模擬裁判の評議で、裁判官役の学生が質問を募ったときのこと。ある模擬裁判員が「懲役何年、っていいますけど、そもそも犯人を刑務所に送って、それで社会にどんないいことがあるんでしょうか」と問うた。他の裁判員からも口々に「刑務所で反省する人って、別に刑務所にいなくても反省するように思う」「逆に反省しない人は、いつまでも反省しないんだから、反省するまで閉じ込めておくというのが刑務所の(更生と並ぶ)もうひとつの意義なのだとすれば、万引きくらいの犯罪でも終身刑が妥当というケースもあるのでは」などなど。

多分、というか、乏しい経験から推察するに、裁判員が本当に欲しているのはこうした議論なんじゃなかろうか。瑣末な事実争いにつきあって、どっちがより信用できるとかできないとか、そんなことを頑張っても、なんで懲役15年が妥当なんだか、サッパリわからないじゃないか。

そもそも刑事罰って何なのか。懲役刑に期待されている社会的効能とは? 囚人にとって刑務所はどんな場所か? 刑期を決める際に考慮すべきことは? ……こうした知識を踏まえて、では今回の事件はどう裁くのが妥当か。判断のため必要だが、まだ欠けている情報はないだろうか。

法廷が、こうした流れで議論を進める場だったら、そして判決文が、何から何まで事実認定を行わなければ結論なんか決められないというイズムから解放されたら、いいのにな。

イメージとしては、アメリカの法廷ものの小説や映画みたいな感じ。弁護士も検察官も、原理原則をぶつけ合うでしょう。そして判決文は簡潔。本当のアメリカの裁判がどんな風だかは知らないけど。裁判員にとっては一生に一度のことなんだから、飽き飽きしても毎回ちゃんと原理をぶつけ合ってほしいんだよね。

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