本題とは関係ない、コメント欄でのやりとりについて。
KoshianXさんの書き方も皮肉っぽいから伝わらないのかもしれませんが、KoshianXさんの主張というか、何に疑問というか違和感があるのかというあたりが、全然通じていないのが見ていて悲しい。
KoshianXさんがいいたいのは、「女性の服装」にケチをつけるのはNGという考え方が普及する一方で、ポスターや看板などからは「扇情的」な表現が追放されつつあるのはどうしたわけか、ということでしょう。一般女性の服飾表現と同様、広告デザイナーの表現欲だって、もっと保護されていいはずではないか?
フランチェス子さんの問題があるとしたらそれは刺激を受けて犯罪を犯す側です。
という論理を貫徹させるなら、広告表現だって自粛する必要はないはずです。
もっといえば、「広告表現が社会的な圧力により自粛させられていることに、どうしてフランチェス子さんは怒らないのか。単に知らなかったというなら、いま知ったはず。で、どうなんです? 広告表現の自粛に賛成なのか、反対なのか」とまあ、そういう話をしたいのだと思う。
ただ、KoshianXさんもフランチェス子さんの意見を読み誤っているように見えます。フランチェス子さんは、人が裸で歩く権利までは主張されず、「常識」の範囲内なら問題ない、というご意見らしい。「ミニスカート」程度でケチをつけられたから怒っているのだ、というわけ。
ポスターや看板の広告表現が抑圧されているといっても、「ミニスカート」まで自粛しているという話は(少なくとも私は)聞いたことがありません。
温泉などに行くと、ほとんどの人は服を着ているほうが見た目にはいいな、と思う。素朴な感情としては、服を脱ぎたい人が自由に脱げる社会には強い抵抗感があります。
それでも私は、ヌーディズムへの抑圧には与しません。他人の裸なんか見たくないという人が「多数派」だからといって、少数派の表現の自由が侵害されていいのでしょうか。(現実主義の立場から「棲み分け」まで全否定するものではない)
「全員が裸にならねばならない」と主張して他人の服を脱がせるような行為は規制すべきですが、本人が脱ぐ自由は認めるべき。そして現在の社会は「全員が服を着ることを強制して、裸になりたい人に無理やり服を着せている」ことを、もっと多くの人々が自覚すべきだと思う。
視覚の暴力性という考え方にも大いに理はあるけれど、人の自由を奪っていい理由としては弱いと思う。多数派はすぐに「常識」を振りかざして少数派に我慢を強います。多数派体質の人は、ほとんど何も我慢しないのに。こんなの、不公平じゃないですか。
日本ではいまだに「一つ屋根の下で若い男女が暮らして何もないはずがない」なんてことがいわれます。馬鹿げた話で、だったらアメリカで男女のルームシェアが珍しくもなんともないことをどう説明付けるのか。
映画「恋する遺伝子」やTVドラマ「グレイズアナトミー」にも男女数人がルームシェアして暮らしてる設定が出てくるので、ウソだと思ったら見てみてください。ヌーディストビーチや混浴の温泉でも、そこへくる人々の大半は淡々としたもの。ようするに、そうしたあれこれが「危ない」かどうかは、文化の問題なんです。
「ヌーディストが裸で暮らす権利を認めよ」という主張には様々な懸念が示されるでしょう。日本の現状を前提とすれば、事実無根とはいえない。それでも、究極的には文化的に解決可能な問題だと私は考えます。
チロルチョコのCMにはポカーンとなった記憶があります。