電子メールのto欄を「名前<メールアドレス>」とすると、多くのメーラーは名前だけを表示します。ふつう、アドレス帳にデータを入力しておくと、メール作成時に宛先を設定するときアドレス帳から名前を選ぶと、自動的に「名前<メールアドレス>」というデータが入力されます。
現状、大半のメール受信者はto欄の宛名に敬称がなくても気に留めません。むしろメールの転送を利用して集約管理している場合、to欄がメールアドレスべた書きの方が、どのアカウントに届いたメールなのかメール単体で判別できて都合がよかったりもするくらいです。が、宛名の敬称を気にする人も、いるわけです。
はてブでは不評なんだけれども、世の中にはいろんな意見があっていいと思う。敬称がないと気になる人も、いたっていいはずです。何ら強制力のないマナー講師の発言ごときが「押し付け」になるなら、はてブで一斉にくさすのも「押し付け」になるのではありませんか?
やっていい「押し付け」もあるのだとすれば、「押し付け」=ダメ、という図式は成り立たない。いい「押し付け」と、悪い「押し付け」の基準を示して、西出博子さんの記事が悪い「押し付け」であることを論証しなければ、西出さんへの批判は意味不明です。
私には、はてブの反応は「自分たちは多数派であり、その直感は常識とイコールである。自分たちと異なる価値観に基づく非常識なマナーの普及活動は認められない」という、多数派感覚に胡坐をかいた、カジュアルな少数派排撃の色が濃いように見えます。
先に「マナー」を謳って大上段に構えたのは西出さんの方ですが、そういうことを問題視して空中戦を展開するのは不毛ではないかと。実際問題、「マナー」だといわれたから賛成する、という人が多いとは、私には思えません。もし西出さんの主張が世間で広まっていくとすれば、「たしかにメールの宛名に敬称あったら好印象かもな……」という共感があるからでしょう。この素朴な実感に、怒りと嘲笑で対抗するのは乱暴です。
西出さんの記事への対抗言論は、「実務的な利便性を優先して儒教的な道徳律を必要最小限にとどめることで、活発な文字コミュニケーションの実現に成功したのが、現在のメール文化です。西出さんの提案に従えば、相手を不愉快にさせるリスクを少し減らすことができるでしょう。しかし、そのような観点を推し進めると、メール文化は次第に書面文化へ近付きます。円滑な意思疎通のための知恵も、行き過ぎれば逆にコミュニケーションを面倒で重たいものにしてしまうのです。そして私は、現在のメール文化は、最適な状態よりも少し窮屈なくらいだと考えています。いまメールのto欄に敬称を求める人は珍しい。ならばマナーの枠を広げるより、個別に対処することを勧める方がよいと思う」といった感じでまとめるのがいい。
自分たちの感覚は「常識」に適っているから「正しい」、自分が違和感を持った西出さんの主張は「間違い」、という潰しあいには感心しない。敵失を攻めたって身内でウケるだけです。論敵の「ひどさ」を言い募っても、攻撃している側の「素晴らしさ」は証明されません。
お互い、世間の人々に向けて、自らの考えを訴えていく方が建設的です。
……。自分が違和感を覚えない「マナー」なら臆せず「押し付け」るんだな、やっぱり。もっと優先順位の高い「ビジネスメールのマナー」ってあるよね、という意図はわかるのですが、やっぱり「不毛だな……」と。だって、やっぱりそれって西出さんの主張への正面からの反論にはなっていないでしょう。
とはいえ、「西出さんは、より重大なマナー違反を見過ごす無能なマナー講師。だから西出さんのいうことなんか信用しちゃいけないよ。その点、大切なことをきちんと説明できる私は信用していいと思うよ」という搦め手からの攻撃は、仲間内で盛り上がるには効果的なツール。それは私も否定しません。しませんが、と。
まあね、私自身も過去に何度もこういう攻撃の仕方をしてきたし、これからだって、やることはあると思う。だから、自戒を込めて書いているわけなんですが。
私が何をいいたいのかわからないという意見があるので、簡単に補足します。
西出さんの提案は「敬称がある方がていねいに見える」という強靭な根拠に支えられており、これまでto欄など気にしたことのなかった人にも「それはそうだな」と思わせる力があります。「相手に不快感を与える可能性を低める」というマナーの原則に則っているのです。
これに対して頭ごなしに「非常識なマナーを広めるな」と怒るのは、反論になっていない。大勢が怒りを表明し、西出さんを嘲笑してみせれば、西出説への賛同者の多くを「黙らせる」ことはできるでしょう。しかし、そのようなやり方で「説得」が可能でしょうか?
西出さんのマナー講座に欠けているのは、マナーの啓発が円滑なコミュニケーションが難しい社会を作り出していくことへの配慮です。「説得」に必要なのは、to欄に敬称をつけるのは次善の策であり、本当はお互いto欄など気にしない社会が一番いい、という視点を提供することではないでしょうか。
多数派が示威行為によって少数意見を封殺するのは悪手。多数派に敗北はないのだから、心に余裕を持って、きちんと説得の言葉を紡ぐべきです。