私はディービィーさんと意見が違う。
物語の根幹でありもっとも重要なのは、その「『嘘の世界』での出来事に『キャラクター』がどう動き、感じるか」です。それに共感した人が涙をしたり笑ったりする。逆に「ご都合的なもの」や「白々しさ」や「嘘を嘘だと思わせてしまう」ものが潜んでしまうと、受け手はガッカリしてしまうのです。
つまり、物語を描くには、題材に対する膨大な知識と人間への観察・洞察が必要なんです。それらをもって、世界の創作と言うのはおこなわれるのです。
私なんか、自分が変人だから、ふつうの人ばっかり登場するドラマには違和感がある。だいたいドラマに登場する人って、みんな恋人から電話がかかってくると喜ぶ。たまに喜ばない人がいると、本当はその人のことを好きじゃないんだ、と決め付けられる。ふざけんな、と私は憤りを覚える。
人間観察を敢えて放棄した小説とか、「ふつう」の現代人とは明らかに価値観というか「人間のつくり」が違う人物が登場する歴史小説が、私は好きです。森博嗣さんが「殺人の動機なんてわかるものか」と書いて、本当にそのまま動機の追求を放棄した推理小説がバカ売れしたときには、すごく嬉しかったな。「人の気持ちがわかる」つもりの作家には、もうウンザリだ、と思って。
観察や洞察なんかしてるからダメなんだ。もっと想像力を持ってほしい。でもそうすると、リアリティーがない、とか、圧倒的多数の「ふつう」の人々にいわれちゃうわけでしょ。
別に、共感するだけが物語の楽しみ方じゃない。でも、もうちょっと、私が共感できるような人物の登場頻度が高くてもいいんじゃないの。たまに「あ、ちょっとこれ、わかる!」と思ったら、たいてい悪役だし。悪役って、途中まではよくても、追い詰められると、きわめて愚かなことをいわされるから嫌なんだ。ちぇっ、取って付けたように「ふつう」の人が理解できる世界に押し込みやがって……不愉快だ。
一番ひどいのがファンタジー作品で、世界観が突飛な分、人格はきわめて「ふつう」。異世界なんだから、現代の地球の先進国人と同様の感覚で生きているという方がおかしいと思うんだけど。
北川さんは「Twitterはただのシステム」というスタンスを取っているようです。つまりは、その裏側の「Twitterユーザーならではの生活」、もっと言えば人間を見ていません。人間を見ていない、ということは、上述の「創作された世界での出来事に『キャラクター』がどう動き、感じるか」が描けない、と言うことなんです。なんでかと言うと、瑛太君や上野樹里さんを「Twitterユーザー」という人間に見せかけることができないからです。
これ自体はもっともな指摘なようにも思えるけれども、でも結局は、「ふつう」の人が納得できる「Twitterユーザー」像でなきゃダメといっているわけで、一定の枠に想像力を押し込めてしまうことになるわけだよ。所詮、「ふつうのTwitterユーザーはそんなことしない」みたいな形で、変人の感覚は殺されてしまうんだ。
本人がTwitterユーザーである北川さんが書いているんだから、最低限の基礎体験はあるわけで、その想像力の発露が「ふつう」かそうでないかという観点からバッサリ斬られてしまうのは悲しいね。
そりゃ正直、Twitterというより、どマイナーなチャットに集まる常連たちがオフ会を開いた、みたいな方がそれっぽい感じではあったけど。でも、部分的には「物理的にありえない」描写があるとしたって、人物像としては全くありえないわけでもなかったろう。Twitterを「あんなふうに」使ったっていいんじゃないの。
でも結局、ドラマはほとんどTwitterと関係なかったけどね、実際。まあ、あれだけ仲良くなれば、Twitterじゃなくて電話やメールが中心になるよな、「ふつう」は。だから、Twitter関係なくなるのは自然だな、とは思ったけど。逆にいえば、Twitterのシーンを増やそうとしたら、あんなに主人公らを親密な関係にしちゃいけないんだろう。変人を描くつもりでなければね。
「現実に極めて近い世界」に「面白い嘘」が混ざっているから物語は面白いのです。世界自体が嘘っぽかったらそれは物語として不完全なのではないかな、と私は思います。
こういう意見って、よく見かけるんだけれども、私みたいな人間の存在が許されないのが「リアリティーのあるドラマや小説の世界」なんだよね。主要登場人物はせいぜい数十人でしょ。60億人のうちのたった数十人が変人だったら、どうしていけないのか。簡単に「嘘っぽい」といわれちゃうのか。
私には吃音があるのだけれども、わかりやすさ優先で、ドラマに出てくる吃音って、つっかえたり、同じ音を重ねたりするタイプがほとんど。私のような「(頭の中にはちゃんと言葉ができているのに窒息するような感じになって)声が出ない」タイプの吃音は、まず見かけない(ていうか実例をひとつも思い出せない)。あー、世間的には「そんな人間は存在しない」ことになっているんだなー、と。
まあでもね、それは全然、許せる範囲。やっぱり、変な人が、「ふつう」の人の基準で勝手にあーだこーだ決め付けられてしまう描写とか、そういう視聴者の反応というのが、いちばん堪えるね。自分と違うタイプの人間がいるってことを、どうしてそのまま受け止めてくれないんだよ、という悲しみ。
「ふつう」に腹黒いとか、「ふつう」に陽気だとか、「ふつう」に強欲だとか、そういう「ふつう」の枠内の個性しか存在しない世界を当然視して、知ってるパターンのどれにも当てはまらない人を「リアリティーがない」と断じてしまう思考形式というのが、キツイ言い方をするなら「許せない」。