……ニーチェはそういう分析をした、というところまでは私の理解とある程度まで重なるのだけれども、ニーチェはその分析をこの記事のようには展開していないんじゃないかな。主著すら網羅的に読んではいない私の違和感に過ぎないので、自信は全くありませんが。
1期、2期とも『藤子・F・不二雄全集』を全巻予約購読しているのだけれども、著者自身の言葉にある通り、『ドラえもん』評論の多くは考え過ぎなのだと思う。毎月毎月ものすごい分量の作品を何年も何年も描き続けていた著者の頭にあったのは、いかに穴を開けずに連載を続けるかということだったのだということが、物量をもって思い知らされる。
そんな大げさな話じゃなくて、単純に作中世界の文化を超越した物の見方として功利主義が肯定されているのだと思う。創作の世界なので、作者は神としてロックスミスがいずれ「成功」して功利主義的に300人余りの犠牲を帳消しにすることが見えている。現実には、犠牲は何の成果にもつながらない可能性がつきまとう。
個人的に気になっているのは、ロックスミスが実験を急いだ理由。功利主義は犠牲を原理的に否定しないという面ばかりが批判されがちだけれども、犠牲はない方がよい、というのは功利主義の基本のキ。300人余りの犠牲は、それが不可欠のものなら成果によって相殺されるけれども、避けえたものなら、ロックスミスはやはり断罪されてしかるべき。その肝心の部分が曖昧なので、結局はロックスミスを支える功利主義を胡散臭く思わせる展開になっている。
ロックスミスがカッコよさげに描かれるほどに、この罠が効いてきて、「何か嫌だな」という感じがしてくる。まあそれが作者の意図なのか、作者の持っている功利主義のイメージを作品に焼き付けたら、結果としてそういうことになったのかはわからないけれども。
ところで猿虎さんは功利主義を否定しているから、功利主義に沿った事象の意味づけを「捏造」と決め付ける。「リベラルの価値観は自然で本質的なものだが、功利主義は人工的な後付けである」という考え方を自明のものとしているように見え、「まあ猿虎さんにとってはそうなんでしょうけど……」とモヤモヤ。
「華麗に……」は公開を終了しました。正直、検索語「****」で検索順2位に登場するのはよくないと、ずっと思っていたのです。「華麗に……」を潰してもGoogle検索に引っかかるページがモグラ叩きのように出てくるため、順次、対応しているところです。