現実的に「ドーピング違反」を形式的に判断する他ないのだとすれば、「ドーピング違反」は意図の有無によらず処断されるのだ、と啓蒙すべきではないか、という話だと解釈した。なるほどなあ、と思った。
現行の規則において、いわゆる「ドーピング違反」は、不正の意図を要件としていない。が、規則の背景には、意図的な不正行為を取り締まりたい、という意図がある。意図を要件とせず、検査にひっかかればアウトとしているのは、調査に要するコストと、迅速な判断の必要性ゆえなのだろう。
刑法において、過失致死と殺人とでは、まったく罪の重さが違う。いま「ドーピング違反」になると、当該のレースで失格になるだけでは済まない。「過失致死と殺人を区別せず、人を殺したら殺人罪の刑罰が適用される」というような状況にあると感じる。意図を問わないなら、「疑わしきは罰せず」を原則とし、形式的な違反にはそれなりの罰則が適用されるべきだ。証明されてもいない罪に対応した罰を下すのは間違っている。
ただ……民間団体が、自らの主催する大会への出場にどんな制限を設けたところで、「人権侵害」とは言い難い。競技会の真のスポンサーたるファンの人々が、「疑わしきも罰す」ことを求めるのなら(逆に場合によっては情状酌量を求めるのなら)、それを無碍にはできないだろう。ひとつの団体が超然と振舞ってみせても、対抗団体が登場して、ファンを奪っていく。
薬品使用コントロールの分野で他のスポーツと比べて非常に進んでいる自転車界は、間もなく新たなステージへの選択を強いられる予感がします。
それは、上に書いた「明確かつ厳格」な機械的ルールの設定と、有無を言わさず発動する無慈悲な罰則という組み合わせであり、「控訴」や「出場停止期間」などの猶予は一切排除する仕組みを構築することです。
ルール違反を犯すことは、選手にとっては「死」を意味することになるでしょう。
そして、もう一つの選択肢は、「全てを自由化する」ことです…
個人的には前者の道に進むべきだと思います。
今更、後者を選択するなど私には考えられません。
えっ!? これが栗村さんの考えなのか……。私は、両極端のどちらにも与しない。「ドーピング違反」を形式的な規則違反と捉え直した上で、違反があった大会の記録を無効とするのがよいと思う。過去に遡って記録を無効にすることも、未来の大会への出場資格を奪うこともしない。「疑わしきは罰せず」「違反の経緯を考慮しない」を原則として、規則違反が明らかな部分に限りペナルティを課す。そういった仕組みを希望します。