数ヶ月遅れの更新を基本とするようになって久しい。日付が追いつきそうになるとまた2~3ヶ月休むので、いつまで経っても今日の話題を今日のうちに書いて公開する、という風にはならない。
じゃあ例えば5月23日付けの日記は本当に5月23日に書かれていて、私はそれを時間を置いて公開しているのかというと、そういう記事は1~2割程度。大半の記事は、公開前の一週間の内に書かれている。ただ、記事の趣旨は、だいたいその日付のあたりに考えたこと。その後の状況の変化によって考えが変わった部分があっても、日付の頃に考えていたことを、そのまま書いている。
現在は非公開のはてブが私のネタ帖だけど、基本的にコメントもタグもなく、「考えたこと」は私の頭の中にしかない。
さて、私が時差更新をしている理由はいくつかある。
私は日記を書きたいのだが、実際に毎日書くのは嫌だ。書きたくなったときに、まとめて書きたい。雑誌に連載された「作家の日記」を読むと、締め切りの前日にまとめて日記を書くような作家が少なくない(意外とそのあたりは皆さん正直である)。高校時代にそういう作家の習性を知って、何だかホッとしたんだよね。
小学5年生のとき国語の宿題で「日記を書く」というのがあった。1学期の間ずっと続く大型の宿題だった。私は毎日書くのが嫌だから、週1回の提出日の前日にまとめて書いていた。でも書くことがないから、「月夜に猫が鳴いていた」なんて話を書いていたのだけれど、先生から「もし猫が鳴かなかったら、この日は日記を書かなかったのですか」みたいなツッコミが入った。私は「日記は毎朝、前日の最も印象深かったことを書いてます」と返答したのだけれど、「日記は毎日書きなさい」という指導には何の意味があったのか。
作家は締め切りがあるから仕方なく月1回とか週1回というペースで日記を書かねばならなかったけれども、私は趣味で書いているのだから、何ヶ月前の日記をまとめて書いたって問題ないはずである。書かれた内容が当時の自分の考えたことであれば、何の不都合もないんじゃなかろうか。
以上が時差更新をする最大の理由で、それ以外はオマケかな。
オマケの中で割と大きいのは、「反発の大きそうな話題はタイミングを外したい」という考え。例えば震災からの復興についての私の主張は、ちゃんとリアルタイムに書いたのに「最低2ヶ月は隠しておこう」と思った(実際5月23日の時点では未公開となっている)。当たり障りのない内容に書き換えてしまえばいいのだろうが、それでは私の日記にならないので、タイミングを外すことで注目を集めにくくしたかった。
タイミングを外せば、旬の話題を追っかけている層には見つかりにくく、しかし常連読者さんには読まれるのではないか。つまり……震災復興の記事を探している人には読んでほしくない。そういう人は私という書き手に何の思い入れもないから、「こんな奴は許せない」と思ったら、「この徳保という奴を黙らせよう」という風に考えがち。炎上ってのは、つまりそういうことでしょ。言葉と数の力で言説を叩き潰そうとする試み。でも「徳保隆夫の備忘録だから読む」という人なら、賛否はともあれ、一意見として存在を許すと思う。
勝手な甘えかもしれないし、「幸運に賭けている」だけともいえるのだけれど、ともかく私の中にはこんな考えがあるわけだ。
で、じつは下書きファイルというのを私はリンクしていて、「どうしても私が書いた文章をすぐに読みたいという人はそちらをご覧ください」ということにしている。下書きファイルはGoogleなどでは検索結果の掲載順位が低いので、一般の方が読むことはまずないだろう。また、下書きファイルはその名の通りのファイルなので、マークアップをしてないテキストが放置されて、ウェブブラウザからだと見るに堪えない状態が長く続くこともある。そんなこんなで、これまでのところ、幸運にも私の希望は実現できている。
だいたいこういうのは3項目くらい書くと「いい感じ」になる、と思っているのだけれど。
じつはこの記事はリアルタイムに書いていない。2ヶ月も書かずに放置したせいか、本来書きたかったことを忘れてしまった。誰かの記事にリンクして書き始めるというタイプの記事なら、それを何度も読み直すうちに当時の自分が考えていたことが蘇ってくるのだけれど、これはそういう記事じゃないからなぁ……。
そんなわけで、以上でおしまい。