私が3歳から21歳まで過ごし、いまも両親が暮らす街、成田ニュータウンについて、とくに資料を参照せず、一住民の認識を書き記す。1980年代までの成田ニュータウンは、自動車と歩行者の接触事故がない街、マイカー不要の街の理想に迫っていた。だが、挫折した。(2011-07-18 写真や図版を追加し全面改訂)
千葉県成田市の成田ニュータウンは、成田空港関連従業者および経済発展に伴い増加する人口を吸収する街として計画された。JR成田駅西側の丘陵地帯を用地とし、1968年に事業着手した。事業面積487ha、計画人口6万人(人口密度:約1.2万人/km^2)の計画だった。
成田ニュータウンの特徴を列挙する。
自然の地形を利用しているので、全ての場所で構想を100%実現できていたわけではない。だが、全くの絵空事に終わっているわけでもなかった。
成田ニュータウンで撮影した写真を、いくつか示す。
歩道橋へ向かう坂の勾配がきわめて緩やかなことを確認できると思う。徒歩空間と自動車空間が立体的に分離された街であれば、人と車が接触(=交通事故)は、きわめて起こりにくい。
街区内の緑あふれる歩道。歩行者に最高の道が用意されている街だから、みんな徒歩で移動したくなる。車道の脇に用意された歩道ではなく、歩行者専用の道だから、子どもも、大人も、高齢者も、安心して自分のペースで歩くことができる。
左側は幼稚園。学校等は車道に面しており、低い位置に作られている場合もある。また「2車線の歩道」は他の街では滅多にお目にかかれない貴重なもの。広い歩道を家族連れが歩き、狭い歩道を自転車が駆け抜けていく、といった使われ方をする。無駄なようで無駄でない。
車道が生活空間よりかなり低い位置にあることがわかる。車道は十分に広く、また通勤の他にマイカー需要がほとんどない(街区内の徒歩移動で生活が完結する)から、渋滞しない。
これが、成田ニュータウンの提案した「人と自動車が共生できる街」だった。
成田ニュータウンは自転車操業で事業が進められたため、成田空港の拡張工事が遅れたことは、計画に甚大な影響を及ぼした。居住希望者数に見合った集合住宅を売るのではお金が足りないため、計画人口6万人の看板を下ろし、集合住宅を一戸建てに切り替えて販売した。結果、人口は4万人止まりとなった。
集合住宅ブロックなら、車道との接続口が1箇所限定でも買い手があった。だが戸建住宅街では、車道との接続口がいくつもなければ売れなかった。集合住宅ブロックの住人は「車道が遠い」ので街区内を徒歩で移動したが、戸建住宅街の住人は「車道が近い」ので自動車で移動した。いったん自動車に乗ってしまえば、300mも3kmも大差ない。
成田空港は、21世紀になってようやく第二滑走路が供用された。増大する労働人口を吸収するため、戸建住宅で埋まった成田ニュータウンの外に「美郷台」「はなのき台」「公津の杜」が建設された。いずれもロードサイド型の商店や病院を中軸に据えた自動車本位の街だ。歩道が車道のオマケになっている街だ。
3つの新市街と成田ニュータウンを合わせて、ようやく人口は6万人を少し超えた程度。成田ニュータウンは本来、古い集合住宅の建替高層化で7~8万人まで人口を増やせた。第二滑走路が20年早く建設されたなら、土地を浪費せず「老人に優しく、子どもが安心して遊べる街」を実現できていた。つくづく残念でならない。