趣味Web 小説 2011-11-27

memo:公務員の待遇とパフォーマンス

大阪府知事・大阪市長ダブル選挙で橋下徹さん率いる大阪維新の会が勝利したことに関連して、2つ雑感をメモしておく。今日は「公務員の待遇とパフォーマンス」について。

1.

人々の声に沿って公務員の給与を削減しても、客観指標においては、ロクな結果にはなりそうにない。が、真に人々が求めているのは、役所のパフォーマンスよりも、「公務員が羨ましくない世界」なのかもしれない。主観が重要なのだとすれば、客観指標で劣る状況が支持される可能性はある。

政治家の著書を読んだ印象では、顔の見えない有権者に対しては、客観的な成果を上げることが支持につながると、政治家は思い込んでいる。それが責任だと思っている。これが、民意を無視する理屈である。公務員の給与をザクザク削減してもロクなことにはならないと思うから、政治家は全くの善意で民意をスルーし、大衆に憎まれている。

例えば、学校の先生の給料を削減したら、学校のパフォーマンスは間違いなく落ちる。政治家にはそれがわかっている。過去に通った道だからだ。都市と地方の教員の給与格差を解消することで、ようやく都市と地方の学力格差を消し去った歴史を、人々は忘れ去ったが、政治家は知っている。給料を上げただけで学校教育が改善されたわけではないが、給料を上げる必要も、あったのだ。

だが、人々は「給料を維持する必要がある」という意見には納得しない。言葉も資料も無力である。現実の体験なしに、大衆が納得することはない。実際に教員の給料を大きく下げてみて、「他のあれこれを頑張れば、給金は安くても大丈夫なはずだ」という確信に沿っていろいろ試し、叩きのめされるまでには、何年にもわたる痛み、どうしようもない、もがき、あがきの日々を経る必要がある。

2.

「教育は大切」といえば、みな賛同する。が、どんなに大切なものだって、そのためにかけられる費用には限度がある。限度を超えて費用をかけたら、特定分野の結果は改善されても、総合的な満足度は低下する。

1.では、いずれ教育成果の低下と、それを改善する策がないのを見て、給与水準が旧に復するというシナリオを採用した。だが、現実にはそうならない可能性もある。費用対効果を考慮すると、現在の教育は過剰品質かもしれない。その場合は、「たしかに教育の成果は低下したけど、教員の給料を元に戻すよりは、現状の方がマシ」が有権者の多数意見となって落ち着くことになる。

3.

行政のパフォーマンスを下げまいと奮闘する政治家たちは、それが人々のためと信じて憎まれ役を買って出ている。だが、それは徒労かもしれない。

1.のシナリオが妥当だとしても、有権者の理解を得られないまま公務員の待遇を維持し続けることは難しい。橋下徹さんは登場すべくして登場したタイプの政治家だ。他の地域にも、橋下さんが掲げたような政策を推進する政治家を待望する人々が、たくさん暮らしている。民意を反映する政治は、おそらく失敗する。だが、実際にやってみて失敗する他に人々を説得する方法がないのだとすれば、政治家の方々の頑張りは、問題の先送りにしかなっていない。

2.のシナリオが妥当ならば、そもそも既存の政治家の方々の頑張りは、究極的にも民意を無視した専横に過ぎなかったということになる。この場合、とっとと新しいタイプの政治家に駆逐された方が、世のため人のためである。

政治家の方々は、もちろん上記いずれの整理にも与しない。説得によって民意を変えるのだ、という。私は、「それは無理だろう」と。もはや、歴史の繰り返しを厭わず、再び失敗してみるしかないのだと思う。

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