趣味Web 小説 2012-02-02

memo:一歩引いて考えたいこと(2012年2月)

私の中では緩やかに関連する話題をいくつか。

1.

その後、どうなったんだろうか。

2.

a)

私の感覚だと「バカらしい」。「できない」「できるはずだ。何とかしろ」「わかりました」というのはイレギュラーな対応を相手に強要することで、私は是としない。通常の対応の範囲内で対応できないことは「できない」で引き取って、翌日あたり、お客様相談室などに改善要求を送付する。それでいい。

裏方の仕組みなんか、聞いたってしょうがない。岡目八目で「そこをこうすればできるじゃないか」とか思い付きを話したって、意味ないと思う。現場で運用をパパッと変えるとか、ありえない話。(近視眼的にはそれで改善できることは多いだろうが、それを許せば長期的には大事故や不正が横行する土壌となる)

客商売には最初からイレギュラーな対応による問題の「解決」も織り込まれているが、それを発動させたところで問題は解決されない。要望が多ければ仕組みは変わる。淡々と報告していくのが大切だと思う。

b)

……。炎上から始まったブログだけど、今も続いていて、よかった。初期の記事のコメント欄に並ぶ罵言は、見るに堪えない。

3.

80年代、中学では暴力事件が頻発しており、それで私の通った幼稚園では「公立小学校へ行くのは仕方ない。しかし公立中学への進学を、いかにして回避するか!」というテーマで園長先生が熱弁を振るっていた。当事、園長先生は中学受験の支援や、あるいは自ら私立中学・高校を立ち上げる夢も持っていたと聞く。

幸いにも、その後、荒れる中学は次第に改善へと向かう。その原動力となったのは「金八先生」的な世界観だったと思う。少なくとも、私が中学時代に学校図書館で読んだ「校内暴力との戦い」に関する様々な本を貫いていたのは、「弱い者からカツアゲしてケロリとしている感性の鈍いヤンキー、DQNこそ、自分探しで悩む子どもたちである」という信念だった。個人的な体験からも、oribeさんがいうのは偏見で、「悪行三昧の連中の少なからずは悩める若者でもある」と思う。

それはそれとして、ネットで声が大きい層の偏りもあるにせよ、往時は声なき中学生、高校生だった人々が、今では「尾崎豊ふざけんな」の大合唱を形成しているのは、小学校2年生のとき因縁つけられて中学生に蹴られた経験がある者として、楽しい。ただ、そうであればこそ、自分たちの側の暴力性には敏感でありたい。

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