私は電話をしない。(携帯電話での)メールもしない。そういう人間なので、自分の生活の範囲内においては、LINEに興味がない。「いま世の中でこういうものがウケている」ということについては、多少の関心を持って情報に接してはいるが。
2011年1月から2014年2月26日までの、私のプライベートな携帯電話の全通話記録をグラフにすると、こうなる。2011年3月は東日本大震災があったので特別。しかしそれを抜きにしても、数年前の私は、最近と比較すればまだしも携帯電話を使っていた。グラフには右肩下がりの傾向が見て取れる。
私は震災時ですら1ヶ月で9件しか発信していないが、2013年は年間でたった4回しか電話をかけていない。しかも、すべて1月だ。2013年2から2014年1月までの丸1年、1回も電話をかけていなかった。これには正直、自分でも驚いた。Skypeとかもやってないよ。仕事ではよく電話を使っているけれど、それは数えていない。
携帯電話では、メールのやり取りをしていない。自分のアドレスも知らないし、メール機能の操作方法とかもわからない。
私にとって携帯電話は、
といったあたりかな。以前は携帯電話を押入れにしまいこみ、電池切れにも気付かないことがしょっちゅうだった。しかしここ2年ほどは、目覚まし時計として毎朝1回触れている。目覚ましが電池切れで作動しないのでは困るから、基本的に充電は切らさない。また寝ぼけたまま目覚ましを切っても困るから、携帯電話は通勤かばんに入れている。布団から出て、かばんを開けて、ボタンを押さないと、目覚ましを止められない。そういう経緯で携帯電話の定位置がかばんの中になったので、私は初めて携帯電話を携帯している。このところ出張が多いこともあり、出先で時計がわりになって便利だ(私は他に携行型の時計を持っていない)。
なので自分の感覚としては、むしろ「このところ携帯電話が自分にとって身近になっている」つもりだった。だが、通話という切り口で見ると、別の真実が見えてきたことになる。
パソコンやらゲーム機やらに内蔵されている時計を別にすると、私が持っている時計は2つ。1つは目覚まし時計。もう1つは砂時計だ。
太陽電池付きの目覚まし時計なら相当長く電池が持つと思って買ったが、そうでもなかった。暗いときでも動くよう太陽電池付きの時計にも補助電池が入っていて、その残量が減ってくると目覚ましが時々鳴らなくなる。最初は電池が切れかかっているとは気付かず、「最近、不安定で困るな」と思って携帯電話のアラーム機能を併用するようになった。
それが、私が携帯電話を携帯するようになったきっかけ。もしすぐに「ああ、電池か」と気付いていたら、私は今でも携帯電話を押入れにしまったままだったかもしれない。いやまあ、別にそれならそれでもよかったんじゃないかと思うんだけど。
私は自分の選んだ目覚まし時計が非常に気に入っているのだが、間もなく生産終了となった。機能自体に特別なところはなかったが、どの機能にどんな形状、配置、押し心地(?)のボタンを配するかといった点が絶妙だった。
頭の大きなボタンに軽く触れるとアラームが止まる。しかしサイドのスライドスイッチを動かさないと、5分後に再びアラーム。このあたりは他の目覚まし時計でも大差ないだろう。この時計が個性的なのは、「あと3分寝る」「あと7分寝る」「予定より少し早く起きることにするけど、とりあえずもう少し寝る」みたいな需要に最適化されていたことだ。
具体的には、「右手で持ったら自然と人差し指と中指がここにくるよな」と思える一等地にシーソー式のソフトなボタンがあって、人差し指で設定時刻を遅らせ、中指で設定時刻を早めるようになっている。これをどう使うか、少し書いてみる。
目覚ましが鳴る。頭をポンと叩いて、まず音を止める。アラームの時刻は、少し早めに設定してある。さて、あと5分寝るなら、そのまま寝入ればいい。自動で5分後にまた鳴る。では3分後なら? 右手を伸ばして時計をつかみ、人差し指でポンポンポンと3回。これでOKだ。
あるいは。目覚ましが鳴らないのに目が覚めた。時刻を見る。少し早すぎる。でもせっかくなので、今朝は予定より6分くらい早く起きようか。そうすれば、朝の内にできることがいくつか増える。右手を伸ばして時計をつかみ、中指でポポポンとタップ。そして寝る。
アラームの時刻設定は、どの目覚まし時計でも簡単にできる。できるが、目で確認せずに二度寝用のアラーム設定をできる時計となると、ほぼ皆無といっていい。「いくつも並んだ同じような形状のボタンにそれぞれ全く別の機能が割り当てられている」みたいな設計の時計が大半ではなかろうか。ただ、そうした設計が低コスト化に有利なのは明らかだ。
私の選んだ時計は生産中止になり、残念な設計の時計の生産は続いている。エンジニアが最適なボタン配置、ボタン形状を考え抜いてぜいたくな設計をしても、その分のコストアップを消費者は許さなかったのだろう。
こちらが後継機で、定価が1000円も下がっている。じつに25%のコストダウン。技術者目線でいうと、これはやっぱりすごいこと。でも一人の消費者としては、SQ691Kの正統後継機がないことが、とてもつらい。まあ目覚まし時計なんて10年とか15年くらい壊れずに動き続けることが多いのだけれど、万一の事態が怖い。
Amazonで買える目覚まし時計(置時計/デジタル)は1000種を超える。これほどたくさんあって、SQ691Kよりいいと思えるものがひとつもないというのも、我ながら驚きだ(1000種全部チェックした自分もよくがんばった)。物との縁も、異なもの味なものである。
単純な話、英語での案内にせよ、フリーWi-Fiにせよ、クレジットカード対応にせよ、コストに見合う売り上げが見込めるなら、みんなやるに決まっている。実際には持ち出しになるのが確実だから、やらない。当たり前のことだ。
「鶏が先かタマゴが先か」という話ではない。日本国内のほとんどの地域で、最初からこんなのはペイしないことがわかりきっている。もともと無理な話なんだ。
その無理を実現する知恵は、ある。募集型企画旅行すなわちパッケージツアー(パックツアー)だ。
観光客が、いつ、何人くらい来るか算段が立てば、商売が成り立つ。観光客がバラバラに適当に店を選ぶと、需要が拡散してしまい、供給体制を整えても割に合わなくなる。英語でのサービスを求める観光客が、特定のお店を集中して利用することが必要なのだ。
現在でも、外国語のできない日本人は、パックツアーで海外旅行するのが便利である。日本語で観光案内を受けることができ、日本語で買い物できるお店へ案内してもらえる。固まって行動するから日本語のできる案内人を雇うことができ、特定のお店を利用するから、店番が日本語を学ぶのだ。
「英語くらい……」という人は、自分が客の95%超が日本語話者のお店で働くために英語を学ぶ気になるか、考えてみたらいい。あるいは、英語の堪能な人が、そういう場所が「自分の能力を発揮するのにふさわしい職場だ」と感じるかどうか、想像してみたらいい。
成田山新勝寺は空港の街にある大規模観光地なので、外国人観光客が多い。それでも、観光客のほとんどが日本語話者だ。だから、何割かのお店だけが英語のできる店番を置いたり、英語でメニューや商品名を表示している。観光案内所で「英語のできる店を教えてください」と頼むと、そうしたお店を紹介してもらえる。
英語OKのお店が大繁盛し、日本語オンリーのお店が寂れるなら、みな英語を勉強する。ところが、現状ではそうではない。新勝寺の参道ですら、英語OKのお店はボランティア同然である。
観光案内所の存在は、どのパンフレットにも記載されている。あるいは、英語OKのお店はホテルのフロントでも案内してもらえる。でも、そうした情報を利用しない観光客が相当に多い。何も調べず、フラッと立ち寄った店で英語が通じないといって不満に思う観光客は、身勝手だ。「少数派の知恵」を欠いている。
英語OKのお店を調べて積極的に利用する他に、英語OKの店を増やす方法はない。「英語くらい使えるようにすべき」というのは、英語を学ぶ手間に見合うだけの利用頻度なしには成り立たない。
「外国人が大勢訪れたので観光地になった」場所と、「もともと現地人の観光地だった」場所とでは、根本的に違う。東南アジアでも台湾でも、現地の人々の姿しか見えないような「観光地」では、英語が通じないことが珍しくない。
ひとつの国の中でもいろいろな言語の使用者がいて、そのなかだちになる言語の需要がそもそも大きい国とも、全く条件が違う。必要に迫られてこそ学習は進む。たいていの人はお勉強など好きではない。一部の観光客を相手にするくらいしか用途がないのに英語を学ぶなんてのは、困難に決まっている。
また「フリーWi-Fiやクレジットカードが使えないお店は利用しないという人」がほとんどいない場所で、一部の観光客のためだけに対応しろというのは無茶だ。
瑣末でない違いを無視して語っても、実りはないと思う。
英語のできない外国人観光客は、今でもパックツアーで大勢日本へやってきている。主に韓国、そして中国など。だんだん豊かになってきて、英語のできない非エリート層も大勢が海外へ観光旅行に出かけるようになった。行先で自国語が通じるとは思っていないから、パックツアーを利用するわけだ。
しかし英語のできる外国人観光客にとってみれば、「わざわざ不自由なパックツアーを利用してまで、観光旅行の行き先に日本を選ぶ理由はない」だろう。しかし、世界的な経済発展により、いずれ世界中の観光地が「現地の人々のための場所」になっていく。いつまでも観光地で英語が通じると思ったら大間違いだ。
いまは「国際的観光地」の場所も、国内の観光客が圧倒的多数派になれば、「余計なコスト」をかけない方が利益が出るようになる。それで、だんだん英語が通じなくなっていく。
クレジットカードやフリーWi-Fiについては、わからない。
(日本国内の大多数の観光地では)「鶏が先かタマゴが先か」という話ではない、と書いた。外国人観光客が2倍に増えたくらいでは、全くコストに見合わないからだ。5倍、8倍に増えなければならない。それって現実的? 私はノーだと思う。
英語対応、フリーWi-Fi、クレジットカード対応を揃えたら外国人観光客が8倍に増えて儲かるのか? そんなわけがない。いくら「お客様のため」とはいっても、予算の枠内でベストを尽くす他ないのであり、売上がちょっとしか増えないことのために膨大なコストを投入するわけにはいかない。
「どのお店も英語に対応」は理想だが、そんなものは実現しない。無理に実現させようとすれば、誰かが不合理を背負うしかない。なんか「税金でやれ」みたいな人がよくいるのだけれど、投入した税金につりあうだけのメリットは、少なくとも経済的には「ない」。
私としては「恥ずかしくない都市」とやらを実現できたら大満足な人らだけで寄付金を集めて勝手にやってろといいたい。俺の金を使うな。
英語はともかく、フリーWi-Fi、クレジットカード対応あたりは、国内でどれだけ需要が高まるか次第だと思う。ただ、これまでの歩みを振り返るに、少なくとも短期的に爆発的に需要が高まるとは思えないな。
私は紐靴は買わないことにしている。その理由は、手を使わずに履くことができないからだ。
足の甲が高いので、紐靴だとべろが押されて奥に入ってしまう。だから紐靴を履くときはいつも、べろを指でつまんで、奥に入らないように押さえなければいけない。これが面倒で仕方ない。
紐靴でなければ、べろが羽根と一体になっており、私の足の甲に押されたって絶対に奥に入ってしまうことがない。だから、床に靴底をギュっと押し付ければ、摩擦で固定された靴に足先を進めるだけで履くことができる。つま先をトントンとやらなければ入らない靴は、私の感覚では締め付けがキツすぎる。
紐靴においてべろが羽根と分離しているのは構造上当然だ。もし一体になっていたら、紐を締めたときべろにしわができてしまう。紐靴のべろはフリーにせざるをえず、べろが足の甲に押されて動くのはどうしようもない。べろの途中に靴紐を通してストッパーにしても、不完全である。足を入れた後で、ちょっとべろをつまんで引っ張らなければならない。
では紐靴以外ではなぜべろを一体化できているのか? それは、靴のアッパー全体が柔軟な素材でできていて、全体として伸縮することで足にフィットする仕組みだからだ。伸縮の程度には限界があるけれど、「運動靴」がほしいわけではない私にとって、紐靴は無用の長物である。
靴べらは20年くらい使っていない。靴べらが必要なのは、かかとが立派で履きにくい靴だ。私の用途では、立派なかかとは必要ない。だから私は、そうした靴を選ばない。
私の場合、衣料品の選択はどれもこれも、着脱の都合、洗濯の都合、多少の機能性、これまでの生活習慣を変えなくていいこと、新しく何かを覚えなくていいこと、などが主な選択基準となっている。
「スーツに合わせるなら革靴でしょ」という人もいるが、私は革靴は履く人のことをまるで考えていない不合理な靴だと思っているので、就職活動のときも履かなかった。革靴は「靴に足を合わせろ」といわんばかりのカチコチさであり、履く人に歩み寄る姿勢を欠いている。
ピカピカの革靴って、靴にしわができないことが前提となっているわけだが、人間の足は、足裏を柔軟に曲げて衝撃を吸収しながら歩くようにできている。つまりトゥキャップのあたりにしわができるのが自然だ。ところがそれを許さず「トゥスプリングと称してつま先を少し上げておいたから、足裏を靴の形に合わせて硬直させて歩けばいい」というのが革靴であり、その尊大さにはギョッとする。
ピカピカの革靴がカッコイイてのは、靴に人間が振り回されることに疑問を感じない人らだけで後生大事に守っていってもらいたい文化だ。私は参加を辞退することにした。
そもそもスーツ自体が押し付け文化だが、私にとってスーツはメリットのある服だった。スーツなら、ワイシャツさえ換えれば、毎日同じ格好で出勤できる。理由はよくわからないが、毎日同じ私服で肌着だけ換えて出勤するのは「おかしい」らしい。私は「今日の服」を考えるのが憂鬱だし、さりとて社会と無用の摩擦も起こしたくない。スーツは、ちょうどおりあいのつく答えだった。
「おかしい」かどうかを気にするなら「スーツには革靴」も受け入れればよさそうだが、パッと見のデザインが革靴風のカジュアルシューズなら文句あるまい……というのが私の読みだった。実際、私がリクルートスーツを着ないことについては何度か面接で話題になったが、靴については誰も何もいわなかった。
入社後も、私はスーツにカジュアルシューズで通勤している。
私が靴を買い換えるのは、靴底が磨り減ってツルツルになり危険を認識したときか、雨の日に靴底からジワッと水がにじんできたとき。仕事や生活のパターンが変わると靴の寿命も大きく変わり、これまでのところ、最短で3ヶ月、最長で1年余りとなっている。いずれにせよ、私にとって靴は消耗品である。(ところで、少なからぬ革靴が最初から靴底ツルツルなのはなぜなんだ? あんなの危険に決まっている。私の感覚では、あのような靴は売ること自体が犯罪だ)
ワイシャツの場合、袖か襟がすりきれたら買い換えている。形状記憶のを買い、洗濯機で洗って天日干ししている。当初は形状記憶でないワイシャツだったのでアイロンをかけていたが、あまりの面倒くささに「どうせスーツの中に着てるだけなんだからどうでもいいだろ。しかも会社に着いたら作業着に着替えてしまうのだし」とプッツンきて、やめてしまった。
ワイシャツは週1回洗濯すればすむよう、5着用意している。だいたい半年に2枚くらいずつ買って、擦り切れたのを処分している。
靴は1足しか持たない。新しいのを買ったら古いのを捨てる。正確には予備が1足あるが、かれこれ6年ほど靴箱に眠ったままだ。
スーツは春秋用2、冬用2。夏は上着なしで、春秋用の下だけ。最も短寿命のスーツでも9年は着れた。これは私の基準での「着れる」であって、「こんなボロボロになったのをいつまで着てるの?」という感覚の人も多いだろう。いちばん長持ちしているのは父からもらった冬用で、私より年上である。
コートも1着しかもっておらず、これは成人式のときに買ったものだ。ちなみに成人式のときに作ったスーツも現役である。
私は面倒くさがりだから、自己紹介も面倒に感じる。くたびれた服を着ているのは、それ自体が自己紹介として機能するから……という理由もある。
職場では作業着なので出退勤の服装は自由なのだが、あえてスーツで通勤するのも、自己アピールの意味が皆無ではない。「服について考えるのが面倒くさい」のが主な理由だが、マジメでカタい性格を見た目でアピールしておくことに、メリットを感じてもいるのだ。
すりきれて穴が開くまで服を買い換えないのは、つまりは私の服に対する価値判断の明確な表現だ。基本的には、ただそれだけのことでしかない。ただ、それを見た人が勝手にいいように解釈してくれることも多くて、じつは個人的に得をしている面がある。それが損につりあうと思うかどうかは、人によるだろう。
私の場合は、「ボロを着ている人」と見られることで失うものが「私にとってどうでもいいもの」ばかりで、得るものが「私にとって価値あるもの」なので、服をボロになるまで着続けるのが合理的だ。
あと、こういう話をすると、「えっ、そうなの?」という反応の人が意外と多いことにも気付く。「あっ、ホントだ、すりきれてるね」とか。私がボロを着てることに最初から気付いていた人もいれば、いわれるまで気付かなかった人もいる。
私としては、気付いても私に害をなさない人か、気付かないような人と交流していきたい。ちなみに、話を聞くまで気付かなかった人は、ほとんどの場合、気付いても私に害をなさない人だということが経験的にわかっている。なので、しばらく交流のある人にカミングアウトするリスクは、大きくないと考えている。
ともあれ、自分と気の合わない人を自動的に遠ざけることができるのは、自分らしい服装をするメリットといっていいのではないか? 本来は相容れない人と仲良くなってしまうと、後に価値観のズレが表面化して距離を置くことになったとき、つらい。
この記事を書くために、靴を構成する各部分の名称を調べた。
「べろ(タン、舌皮)」についてはすぐわかったが、「羽根」はなかなか見つからず、初稿では「シュー穴が設けられている部分」などと書いていた。まあ、その方がわかりやすかったかもしれないが……。