備忘録

平成26年1月31日

平成26年1月30日

最初にお断りしておきますが、この記事において「カッコ書き」は引用を意味しません。

1.

ということで、元の記事を探してきました。

2.

私は「わからない」という感想に引っ掛かる性格です。たいていのことは、好意的に話を補っていけば「ひとつの意見としては理解できる」ものであって、賛否とは別に、まずはその地点を目指すべきだと思っています。相手はこちらの話に耳を傾けないとしても、こちらは相手の主張を理解しておきたい。

長谷川さんの主張を私なりに要約すると「子育ては大変だけど、取り組むべき。ただ、育児と仕事の両立は難しいので、育児期には、女性は育児を優先するのがよい」となります。

さて、朝日新聞の記事によれば、長谷川さんは大学で教えながら2人の子どもを育てられたのだという。ただ、ずっとフルタイムだったのか、一時期は子育てを優先して仕事をセーブされていたのか。

仮にずっとフルタイムだったとすれば、「さすがに無理があった。子育てを優先すべきだった」という後悔をこめた話という解釈が、ひとつ成り立ちます。あるいは、「私には両立できたけど、ふつうの方には無理でしょう」という話とも受け取れます。

仮に仕事をセーブされていたとすれば、自分の体験を踏まえた、育児優先の提案ということになります。経歴を見る限り、長谷川さんは概ね順調にキャリアを積まれたわけで、「人生の一時期に仕事より子育てを優先しても大丈夫ですよ、私がその例です」という自負もあるのかもしれません。

つまり、どちらにしても話は通りますから、“自身は埼玉大で教えながら1男1女を育てた”のに、そういうこと言えちゃうことに、私は疑問を感じません。

3.

以下、長谷川さんの主張に対する私の賛否を述べます。

長谷川さんは「出産・育児に適した年齢の女性が、仕事で男性と同じように働くことをよしとする考え方」を批判されています。その理由は、「子育てはたいへんなことだから」です。両立し難いことを両立しようとするから、少子化や晩産化が起きるのだ、というわけです。

同時に、長谷川さんが暗に否定されているのが、「親の育児負担を大幅に減らす」という解決策です。例えば、平日は朝から晩まで子どもを施設に預けて、平日夜と休日のみ子どもと一緒に暮らす……といった家族のあり方は、長谷川さんとしては受け入れられないのだと思います。

そして、これらの主張の背景にあるのが、性別役割分担の無批判な受け入れ、「大人は経済的に自立できているべき」という観念、「昔はできていたことがなぜ今はできないのか」という素朴な疑問です。

と、このように整理した上で、私の意見を述べます。

まず、性別役割分担について。統計から様々な性差が観察されるのは事実ですが、個人差の方が大きいこともまた事実です。ならば、基本的には、男性・女性を主語としない方がベターだろう、と思います。

次に、私は「子育て世帯は経済的に自立しなくてよい」と考えます。長谷川さんが「女性は育児優先、男性は仕事優先」と主張されるのは、「両親がともに育児を優先したら経済的に自立できない」と考えるからでしょう。「それでいい」と考えるなら、「両親ともに育休&時短勤務」で問題ないですよね。

それから、「昔はできていたことがなぜ今はできないのか」というのは私にも疑問なのですが、いっても詮無いことと思って諦めています。私がどう育てられたかを思い起こすに、あるいは現代の大家族の子どもたちの育てられ方などを見るに、人が生まれ育つのに大金は要らないと個人的には思うのだけれど……。

では、育児負担の軽減、とくに保育施設の充実については、どう考えるか。私は、現実的な解決策としては支持しますが、理想的な解決策ではないと思います。

理想は、親子のふれあいの時間をなるべく確保して、仕事の負担を減らすことです。男女問わずみんなが20〜30代に仕事量をセーブする社会であれば、育休や時短勤務で不利になることはありません。その分の国内総労働時間の減少は、生涯労働社会の実現と、過剰教育の是正によって補完できると考えています。

また育児期の収入減は、ベーシック・インカムに類する人数比例の収入補助制度によって、かなりの程度まで緩和できるのではないでしょうか。年齢等の条件を問わず人数比例で配られる収入補助は、多人数同居に有利ですから。一人暮らしで月3万円もらってもオマケ程度ですが、4人暮らしで12万円なら大いに助かります。

4.

「仕事を優先しないと生きていけない」から「育児の負担を減らす」というのが喫緊の課題なのはわかりますけど、「仕事と育児の両立」は、理想的にはもっと「仕事を減らす」方に重点を置くべきだと思う。

「家にいる母」に育てられた私としては、小学校を卒業するくらいまでは、親が子どもと多くの時間を一緒にすごせるようにしてほしい、という願いに似た気持ちがあります。休日だけ子どもに構おうとする父親って、私にとって「学校の先生より気持ちの遠く離れた存在」だったんですよね。父としては子どものことを深く思っているつもりだったのでしょうが……。

あとやっぱり、子育てって少しだけなら楽しいけど、いろいろ積み重なっていくと、仕事ほど面白くはないのだと思う。育児は変化が乏しいし、現金収入にならないし、やりがいも実感しにくい。「楽しい」と思える範囲内の育児負担って、かなり小さいのではないか。

問題は、親が楽しいと思えるふれあいの量では、子どもは不満だということ。育児負担の軽減に反対ではないけれど、どうしても歯切れが悪くなるのは、自分が親より子どもの方に共感するからだと思う。

前項では私の理想を書いたけれど、現在の日本の世論や少子化対策の流れからすると、両親がフルタイムで働ける環境が完成したら、だいたい大人はみんな満足してしまって、それ以上のことは実現されない気がする。もちろん、いま人々が求めている施策を実現することには賛成する他ないのだけれど。

5.

長谷川さんの他の著作を読んだら「女性は仕事を辞めて主婦になるべき」とか書いてるのかもしれませんけど、たいていの人は産経の記事ひとつを読んだ印象で語っているわけでしょう。だったら、過剰に悪い方に解釈する理由は全くなくて、長谷川さんご自身の歩みなどと整合的な解釈を採用すればいい。

長谷川さんはご自身が大学でキャリアを重ねた方であり、女性が仕事で活躍すること自体を否定する立場だと考えるのは不自然です。とすれば、長谷川さんは他の人と同様に小保方晴子さんの成功を祝福されるのではないですかね。

なお私は、小保方さんが仮に育児のために仕事量をセーブされ、その結果として偉大な研究がまとまるのが数年遅てもよかったと思う。お相手の方が平凡な人だとしても、平凡な夫だけでなく、偉大な小保方さんも育休をとればいい。

平成26年1月29日

1.

リンク先の方は意味が分からないといったのではてブに反論がたくさんきているのだけれど、「俺は納得していないぞ」という人はけっこう多いと思う。

リンク先の記事は、いろいろ思慮深く書かれていると思うが、わりと頭ごなしの反応が目立つ感じがする。じゃあ、というわけでもないが、私はもっとアタマの悪い感じで書いてみようかと思う。

2.

私の場合、納得いかない筆頭は美術館かな。そもそも民営の美術館が多々あるということもあるし、市民と美術の距離を縮める目的なら、もっと費用対効果の高いやり方があるだろうと思っている。

とくに「本物」にこだわるのはバカバカしい感じがする。私のような素人には本物とレプリカの違いがわからない。本物はケースの中にあったり、ロープの向こうだったりして、ますます「あれが本物かどうかなんて自分にとってはどうでもいいな」と感じる。

印刷と原版の違いも、ちょっと離れたらわからないしね。そりゃ油絵なら筆のタッチの凹凸とかあるわけだけど、薄暗い美術館で数メートル先の絵を見るより、高精細印刷の画集の方が筆のタッチはよほど分かりやすかったりする。だけどそもそも、筆のタッチがわかったら何だっていうの?

それから美術館の建物って、どうしてああ無駄に豪華で、他に流用できない建物なんだろう。少子化で空き教室が増えてる小学校とかに、絵画や彫刻のレプリカをざっくばらんに展示でもすれば、それで十分じゃないの。せっかく学校の市民開放日を設定しているわけだし、小学生の作品と並べてピカソを展示したらいい。

3.

negril67 あまり頭の良くない主張。天然記念物も寺社仏閣も一緒だろ。 保護されてこなきゃ残ってないんだぜ?

保護したい人だけで勝手に保護すればいい。私の納めた税金を使わないでほしい。なんで神社仏閣の保護に全員が賛成すると思い込んでいるのか。信徒や、古建築のファンが金を出さないなら、なくなっていいよ。

だいたい議員さんたちはハイソサエティの人々だから、神社仏閣なんてなくなっていいという考え方がわかってない。観光云々という説明もあるが、それなら観光業で利益を得ている人らが金を出せばいい。それでは足りないというなら、神社仏閣を保護して観光を盛り上げても差引マイナスなのではないか。

laislanopira これだと収益の上がらない医療や科学や教育に金を出す意味も分からなくなるで

カネを出している人が納得しているかどうかの問題。科学についてはやり方に異論があるが、医療と教育への公的支援には、私も同意している。だが芸術の保護には不同意。

todo987654321 そもそも芸術や学問がパトロンなしの経営努力で発展したことなんて史上一度でもあるのだろうか。

パトロンが自分のカネで保護するなら文句はない。私の納めた税金を使うなら、私を説得してからにしてほしい、という話だ。

4.

直接民主主義への全面転換は非現実的だろうが、部分的には導入していいと思う。本当に芸術保護に賛同する有権者が過半数なんだろうか。私の居住する市で、膨れ上がっている借金の返済とどっちがいいかで住民投票を実現してほしい。

私がこの件で一部のはてブにカチンときたのは、「直接民主主義なら、あんたら負けるだろう。なに余裕ぶっこいてるんだ? もっと誠心誠意の説明を心がけて、俺を納得させてみろよ」と思ったから。「バカ相手に説明は要らぬ、上から目線で嘲笑しとけばいい」って態度を改める気がないなら、いずれ泣きを見ると思う。

もちろん、実際には私の方が少数派なのかもしれませんが。

平成26年1月28日

この手の主張は肯定し難い。

いや、単なる「炎上を避けるための処世術」としてなら、同意できる。「今回は災難でしたね……」というような共感とともに発せられた言葉なら、話も違ってくる。しかし多くの場合、こうしたことをいいだすのは燃やしている側に親和的な人だから、不愉快だ。

相手の話を聞くのを面倒くさがって、「なるほど。詳しくないんで勉強になりました」という話に押し込めようとしているだけではないか。大勢が誤解して叩いたなら、誤解はもはや誤解ではなく、相手の真意などあってもないのと同じであるという姿勢は、数の暴力に胡坐をかいた人格の圧殺である。

たしかに、ひとたび大勢に誤解されたなら、「真意はこうだ」と説明しても聞く耳など持たれない。自分(たち)の解釈が正しく、当事者の釈明など後付けの嘘っぱちだから無視してよい、とでもいいたげな態度の人があまりにも多いのが現実である。

仮説をひとつ否定しただけで後に続く主張を丸ごと否定するのは論理的とはいえないが、これも世の中では珍しくない。直感的に結論が間違っていると感じた人々は、何かひとつでもケチをつけられるところを探して、それでもって全部を否定しようとする。

知っていることの全てを書くなど不可能なのに、「書いていないことは知らないことだ」と決め付ける輩も後を絶たない。

最初に居丈高に振舞ったのが叩かれている側だとしても、だから叩く側も上から踏みつけるような態度をとっていいという理屈は、受け入れられない。むしろ、ひとたび炎上の構図ができあがったならば、多数派こそ数の暴力や衆を恃んで気が大きくなる自分自身の意識をよく自覚して、よくよく自制に努めるべきだ。

リンク先の事例についていえば、私が読んでも「考えの足りない発言に多くのツッコミが入り、継いだ言葉でますます見識の乏しさをさらけ出した」という話に見える。見えるがしかし、「真意が伝わっていない」のだとすれば、私には、その真意を理解しようと努める用意がある。

「自尊心の損切り」は、ままならない世の中を生き抜くために有効な知恵だろう。だが、炎上の構図に乗っかって面白がっているような人が、敗者の人格を踏みつけにしようとする側の人が、それをいうのは不愉快だ。一緒に涙を流せる人だけが、口にしていいことだと思う。

補記:

相手の主張の前提をひとつ否定しただけで結論までまとめて否定するとか、書いてないことは知らないこととみなすとか、そのあたりは私もよくやるあやまちである。しかし、「だから肯定する」ということにはならない。自分自身の言動を含めて、批判していく。

平成26年1月27日

1.

「任天堂がWiiUで失敗したのは明らか」ということで、いろいろ意見が出ている。とりあえず3つリンクしてみた。

私自身はWiiUが大好きなので、市場で受け入れられなかったことが残念でならない。WiiUには今後いつまでソフトの供給が続くのだろう。WiiUが好きでない人は「さっさと見切りをつけて次へ行け」みたいな感じだけど、私はそれでは困る。

ともあれ、私もWiiUの失敗については少し思うところがあるので、この機会に書いておきたい。

2.

コンソールゲームは、ドラクエやマリオから4半世紀を経た今でも、(一般論としては)自己紹介でプラスの印象を形成できる趣味とはなっていない。その理由はいろいろあるんだろうけど、単純には、コンソールゲームで遊んでいる人の姿が「いかにも不健康な感じ」だからだと思う。

将棋指しやハスラーなら、まだしも絵になる。しかしコンソールゲームをプレイしている姿は、猫背で、うつむきがちで、そこから連想されるのは病人だ。つまり、両手でコントローラを持つスタイルでは、ゲームへの悪印象は拭えないのではないかと思う。

みんなが自らゲームをプレイする社会になれば自ずと偏見はなくなる……という説もあったけれど、やたらめったらコンソールゲームを遊ぶようになった私自身が、その反例になっている。やっぱり、黙々と3DSなどで遊んでいる人を見て「不健康な感じがする」のは、全く変わらない。

見た目の印象をどうにかしないとダメなんだ、と思う。

3.

個人的には、WiiUがうまくいかなかったのは、「Wiiが『Wii Sports』と『Wii Fit』で成功した理由」を見誤ったからだと思っている。

『Wii Sports』は、美男美女の笑顔に頼ることなく、ふつうの人がプレイしている様子(ゲーム画面ではなくプレーヤーの姿)が宣伝映像として成り立った。これはすごいことだ。

とくにテニス。Wiiリモコンをテニスラケットの柄に見立てて、ブンブン振る。省力スタイルでの着座プレイも可能だそうだが、多くの方が実際に中腰で立ってプレイしていた。「筋肉痛になった」という話を、私の周りでも耳にした。テレビドラマなどでも、「活動的な少年」が嗜むコンソールゲームとして、よく登場した。

『Wii Fit』は特殊な体重計をコントローラとし、リアルに健康体操をするソフトだ。これも、ふつうの人がプレイしている様子を見て、不健康な感じがしない作品だった。「ああ、これはたしかにやればやるほど健康になりそうですね」と、私もすんなり納得できた。

だから、私にとってWiiの当初のイメージは「プレーヤーを不健康にしないゲーム機」だった。これって、とっても大切なことだったんじゃないか?

4.

両手で持つスタイルでも、DSは売れた。でも『脳トレ』『レイトン』や生活お役立ち系のソフトがたくさん売れたことを考えると、「ゲームをする言い訳がほしかった人」が相当に多かったのではないかと思う。「脳が若返る」とか、「アタマの体操」とか、「便利なんだよ!」とか。

最初はそれでよかったが、問題はその先だ。DSもWiiも、次第に言い訳の困難な「ザ・コンソールゲームな作品」が主流になっていった。『トモダチコレクション』『おいでよ どうぶつの森』などは、「ふつうのゲーム」ではなかったからこそ、「不健康なイメージ」をいくらか免れたのではないか。

まだWiiの『マリオカート』はよかった。ハンドルを傾けて運転している限りは、「ドライブ」のイメージを借りることができた。しかし一人で『NewスーパーマリオブラザーズWii』をプレイしている姿が絵になったかというと、いささか無理があったと思う。DSの『Newマリオ』は松嶋菜々子さんだから絵が成り立ったんだ。

両手でコントローラを持たせてはいけなかった。またWiiリモコン片手持ちでも、コタツに入ったままダラけた姿勢で遊べるWiiソフトではダメだった。しかし、任天堂発売の主力タイトルで、後期に全身を使わせることに見事成功したのは、『JUST DANCE』くらいしか思い浮かばない。

そんなわけで、WiiもDSも「やっぱりこれはゲーム機であり、不健康な機械なんだ」という印象が次第に強まっていったように思う。

そしてWiiUでは、両手持ちスタイルのゲームパッドだけが同梱され、片手持ちが基本のWiiリモコンは付属しなかった。元の木阿弥だ。

5.

WiiUはPS4やXBOX oneに市場で負けた。しかしそもそも、そっちの土俵に乗ってはいけなかったのだと思う。いや、WiiUはもちろん、PS4などとは別の路線を選択したつもりだったろう。しかし、いち消費者の実感として、WiiUはPS4などと同じカテゴリに入れられている。

「人が健康になる機械」か「人が不健康になる機械」か。WiiUがWiiの成功を踏襲するためには、前者を目指さなければならなかった。あるいは、後者の道を選ぶなら、PS4などと真っ向勝負する必要があった。

スマートフォンはどうなのか。まず、「せめて片手持ち」だと思う。私の周囲でウケている作品は大抵、片手持ちだ。この点さえクリアすれば、「スマホはゲーム機ではなく、電話機だ」という最高の「言い訳」がある。買う理由、電源を入れる理由として、これほど強力なものはそうそうない。

スマホでゲームに興じる人々のリアルな写真」を見ると、その不健康な感じに「うっ」とくるものがある。しかし、「だからスマホはダメ」とまではいかない。それがスマホの強さ、底力だと思う。

以上、とくに根拠なく、思うところをつらつら書いた。

ただ、私自身は両手持ちのコントローラで遊ぶゲームが好き。WiiUで『Wii Sports』のような作品が大成功し、私はドラクエを遊び続ける……というのが、私のムシのいい願い。

平成26年1月26日

平成26年1月25日

平成26年1月24日

平成26年1月23日

平成26年1月22日

平成26年1月21日

平成26年1月20日

1.

ブログの更新が途切れ途切れになっている理由はいろいろある。でも、根本的には、「書く手間を乗り越えるだけの熱量がない」ということに尽きると思う。

しばらく前に『備忘録』から『小説』に改題した通り、このブログの内容は虚実ない交ぜだ。しかし大筋では、記事の日付(公開日ではない)の頃に私が関心を持っていたことを題材に、書いてきた。経済に関する本をたくさん読んでいた頃には、経済の話が増えたり、とか。

この2年、もし更新を続けていたら、コンソールゲームの話題が増えていただろうと思う。しかし実際には書かなかった。書きたいテーマの最上位でさえ何も書けないのに、2位以下の話題で更新できるわけもない。

2.

じつは私がゲームについていろいろ書こうとした時期は、過去にもあった。そこでいったん挫折したことが、「書く気がしない」ひとつの要因になっているのかもしれない。

あるいは、昨日の記事に書いたようなことも、私の中では大きい。評論的な記事はブログで扱ったが、ゲームのファンサイト的な記事は、ブログで書く気になれなかった。

個人的に、RPGのプレイ日記というジャンルには興味があった。リプレイ小説とは違う。一見、あらすじを紹介しているだけのように見えて、ちゃんとプレーヤーの視点がそこにある、というようなコンテンツだ。そのゲームを知らない人には、読んでもなんだかよくわからない。とても間口の狭い世界である。

なぜ私がテイルズを選んだのかというと、ドラクエなどには上記リンク先のような素晴らしいプレイ日記が既にあったからだ。テイルズのプレイ日記は、いくつかあるにはあったが、私が読んで満足できるものはなかった。それで勇んで書いてみたわけだが、結果的には「無謀な挑戦だった」と思う。

3.

TwitterやLINEの時代といわれるが、ブログも並列で大いに活用されている。ランキングサイトなどを見ると、大勢が「プレイ日記」を書いていることがわかる。だが、私が求めてやまない昔ながらの読み物コンテンツとしてのプレイ日記が、見つからない。

ブログ時代になって、プレイ日記文化は、ほぼ滅びてしまった。ブログとプレイ日記は相性が悪い。「今日のことを今日のうちに書く」のは、プレイ日記に適したスタイルではないからだ。どちらかといえば、プレイ日記は週末に1週間分まとめて書くようなスタイルが合っている。

プレイ日記は、ふつうの「プレーヤーの日記」とは一線を画すコンテンツだ。目次からして違う。単にブログでカテゴリ指定しただけでは、プレイ日記にならない。そんなのは見た目の話でしかない……とはいえない。。「第1話から読ませよう」としない時点で、プレイ日記にする気がないと思ってだいたい間違いない。

2014年現在、往時のプレイ日記文化を継承しているのは、プレイ動画文化だと思う。実況動画だけでなく、淡々とプレイする動画シリーズも、きちんと追っていくと一貫性が見出せることが多い。他方、生放送の類はたいてい断片をブツ切りで見せるスタイルで、ブログに近い。

平成26年1月19日

私が送ったウェブ拍手の添付コメントに反応記事が出た。これをひとつの契機として、添付コメントの内容を増補改訂してひとつの記事にしようと思った。

1.

Wii Uを起動した際にテレビ画面に表示されるのが「わらわら広場」。

「Miiverseで話題になっている投稿が見られる」という機能で、Wii U発売前には「これがマイナーなソフトの宣伝になるんじゃないのか」と思ったものなのですが。

無料ソフト+任天堂の超有名タイトルばっかじゃないか!(中略)

しかもコレ、本当に「Miiverseの投稿が見られる」だけなんですよ。

その投稿へのコメントをしようとしたり、その投稿者のプロフィールを見ようとしたりするとMiiverseを起動しなくてならないという。(中略)

自分は正直「わらわら広場」は廃止しちゃってもイイんじゃないかと思うのですが。(中略)

今のままだとホント誰得なのよという機能ですもの。

わらわら広場は、私得の機能です。

2.

私には「ゲームは日陰の趣味」という感覚があって、ゲーム機を起動すること自体に、なんとなく後ろめたさがあるんです。この時間をもっと別のこと、例えば屋外スポーツとかに使う方がいいんだろうな、「趣味はゲームです」というよりは、せめて「ジョギングです」とかいえる方がいいんだろうな、とか考えてしまう。

携帯電話やスマートフォンの場合、リアル知人とのコミュニケーションに使う道具だし、「みんな」が使っているものだから、これの電源を入れておくのは別に悪いことじゃないぞ、と思えます。実際はずっとゲームにしか使っていないとしてもです。

でもゲーム機は基本的にゲームのための機械ですからね。他のあれこれもできるといったって、やっぱりゲームがメインなのは変わらない。

その点WiiUは、起動するとわらわら広場が出て、大勢が「ゲーム楽しいね」って喋っているのが見えます。あれを見ると、「日陰の趣味でも、楽しいのはいいことだよね。誰かに迷惑をかけているわけでもないし」と、ホッとします。

3.

私はMiiverseを見ていません。Miiverseはゲームパッドでしか閲覧できないので、ゲームパッドを使わずにしまいこみ、Wiiリモコンで遊んでいる私には、単純に縁遠い。それに私は、誰かの発言をわらわら広場でちょっと目にするというくらいの距離感がいいんです。ゲーム好きのコミュニティに入り込みたくはない。

いま私はDQ10に長期ハマり中ですが、Miiverseはもちろん、Twitterのファンコミュニティにもほとんど参加していません。交流はゲーム内にほぼ限定し、外部情報は、公式のプレーヤーサイト、はてなで上がってくる記事、4Gamerのインタビュー記事くらいしか見ない。これは積極的にそうしています。

3DSを持ち歩くのも、私にはハードルが高い。荷物を増やしたくないとったことよりも、「自分がゲームにしか使えない機械を持ち歩く人になる」ことへの抵抗感が大きい。

かつてDQ9のとき少しだけDSを持ち歩いてみたのですが、すれ違いのメッカといわれてた場所へ行ってみたら、会話が全くなくて、みんな画面だけ見て黙々とデータだけ交換していたんです。「あの中の一人にはなりたくない」という感覚がむくむくと膨らみ、少し離れたところを素通りしてしまいました。

自分だって、同じゲームのファン同士で会話がしたくて行ったのではありません。単にデータの交換がしたかったんです。でも、大勢が下を向いてニコリともせずDSを操作しているのを見ると、「この輪に入ってしまったら、自分の中の何かが壊れる」と思わずにはいられませんでした。

4.

誰かに直接、コンソールゲームのファンであることについてネガティブな発言をされた記憶はありません。自分で勝手に、実在するのかもわからない世間の空気を受信して、自縄自縛になっているだけだと思う。でも、全ては無意識の活動であって、ヘンな電波を受信しているアンテナを取り外す方法がわからない。

とりあえずいま、こんな私にとって、わらわら広場はいやしの空間になっているのです。そのおかげで、あくまで私の場合ですけど、WiiUは3DSとかよりもずっと、起動することへの心理的抵抗が低いです。

5.

これ、ゲームの話題だから「Miiverseくらい参加すればいいじゃない」「DQ10のファン同士、Twitterで交流したら楽しいでしょ」という方が多いでしょう。でも、例えば2chだったらどうですか。

私にとって2chというのは、まとめサイト経由でしか接しない(ことにしている)世界です。時々は直接見に行くこともありますけど、それはたいてい「元のスレッドではどんなやりとりだったのか」「特定のスレッドではこういう反応だとして、他のスレッドや板全体の傾向はどうなのか」といったことの確認が目的。

2chコミュニティとは、あえて距離を置いてきました。自らの偏見に屈し、「彼らの作るスレッドは面白いけど、自分はそれを消費するだけの立場を貫こう」としてきたんです。

卑劣な態度だと思う。これでよいとは思わない。しかし私は「2ちゃんねらーになんかなりたくない」という差別感情に打ち勝てずにきました。言葉遊びとかで面白いことしてる方々に、本当はスレッド内で「www」とかで報いたい。でも私はそうしてこなかったし、今後もたぶん、できない。情けないです。

さて、みなさんはどうですか?

平成26年1月18日

平成26年1月17日

言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い

Twitterに書いたら、想定外の反発が押し寄せて困惑した、という話らしい。それで、自分の文章のどこが意図しない解釈の原因となっているのか、知りたいのだという。

誰か僕にもわかるような簡単で合理的な説明を!

既に、はてブにたくさん回答が出ていますが、私も書いてみます。

  1. 低所得者は、高所得者に対し、コンプレックスを持っている。高所得者基準で低所得者の言動にネガティブな評価がなされると、強く反発する。だから、所得と行動を結び付けて論じる場合、低所得者の行動を「標準」「常識」とし、高所得者の行動を「逸脱」「奇妙」とするのが安全。
  2. 理由は不明ながら、「標準」「常識」を「正しい」と考える人が多い。そうである以上、「ごちそうさま」が「標準ではない」と論ずれば、即ち批判として機能する。こちらが批判の意図を持っていなくとも、そう受け取る相手がたくさんいる。
  3. 「本来不必要」という表現は、「本来」のニュアンスから、「ごちそうさま」といわない方が「標準」と解釈される。また、「不必要」という言葉はネガティブなイメージを背負っている。そのため、「ごちそうさま」を小バカにする意図が無かったなら、ネガティブな表現は一切用いず「素敵な」「礼儀正しい」といった言葉を使えば安全だった。
  4. そもそも「ごちそうさま」は「本来いうべき」と思っている人が、たくさんいた。食事には感謝の意を表すべきである。実際に「ごちそうさま」という人は少ないが、それは正しくない状態であり、あくまで「本来はいうべき」なのだ、と。
  5. 少なからぬ人々が、「義務」か「全く自由」か、の二択では考えていない。「義務ではないが、こうした方がいい」という行動規範を持っている。「義務ではないので本来不必要」という主張は、「義務ではないがこうした方がいい」と鋭く対立する。
  6. 「正しい言動にケチをつけてはいけない」という考え方がある。転じて、「ケチをつける人は、その言動について、(仮に世間では正しいとされていても)良いと思っていない」と解釈される。低所得と高所得、どちらがいいかといったら、高所得の方がいいと思う人が多い。「所得が低い」はネガティブな評価である。「所得が低い人ほど礼儀正しい」という発言は、「礼儀正しさ」にケチをつけたことになる。
  7. 「どっちでもいいならわざわざケチをつけるはずがない」という考え方がある。そう考える人々は、「ケチをつける=その言動をやめさせようとしている」と解釈する。「やめろ」といわなくても、「批判」でなくとも、「ケチをつけた」だけで、「やめろといっているのと同じ」と捉える。
  8. 「低所得者ほど礼儀正しいのはなぜか」と考え、「高所得者ほど礼儀知らずなのはなぜか」とは考えなかったのは、高所得者の言動を標準とする思考様式に染まっているから。こうした無意識は、無意識だからこそいっそう強く糾弾される。話者が自身をどちらの側に位置づけているかということに、一部の読み手は敏感。
  9. 「興味深い」という発言には、共感の姿勢がない。ただでさえ高所得者基準で書かれた文章に「興味深い」が付くと、「上から目線」「私たちを観察対象としてしか見ていない人の発言」という印象になる。
  10. 「言葉は悪いが」という表現は、「こいつらが相手なら、ちょっと傷付く言い方をしても大丈夫だ」という敬意の欠如、対象への侮りを示す。言葉が悪いと気付いたなら、良い言葉を選び直すべきだ。あえてそうせず、悪い言葉に傷付く相手を尊重しない姿勢を堂々と宣言したなら、相応の反発が生じるのは当然。

私も「言葉の端々をつかまえて大反発され、閉口した」経験は多いので、困惑は理解できます。

『言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い』

『所得の高そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」といわないように思える』

私が「無用の反発を減らす」ことを最優先にして書き直すなら、こんな感じでしょうか。これはこれで「高所得者批判」と解釈される文章であって、「批判の意図はない」という真意は伝わらないのですが、反発は大幅に減ると思います。

ただ、私の場合は、「しかしどうして自分は、初稿において、大勢の怒りを買う表現を選んだのか?」という疑問が頭を離れませんでした。いろいろ考えたのですが、やっぱりそこには、十分に自覚できていない「自分」が表れていた、と思うようになりました。全部ではない。書き直した文章の方が、本来の意図をよく表せていると思うことは多い。でも、「全てが誤解」ではなかったな、と。

とはいえ、いろいろ考えてはみても、想定外の解釈への困惑とは縁が切れない……。事前に意を尽くすなど無理な話で、反発が出てからでないと気付けない問題は無限にわいてくる。だから、反省しただけ無駄な労力だったという感じもします。

追記:

記事を書いている間にブログが消えてしまった。残念。

その後のTwitterでの展開を見ると、(本来不必要なレベルの)礼儀正しさという価値判断を掲げて戦い続けている様子。「義務ではないので本来不必要」という主張は、「義務ではないがこうした方がいい」と鋭く対立する。と書いた通りで、多くの反発の主要因がここにあるならば、一部の誤解など瑣末な論点に過ぎず、基本的には真正面からのバトルだったことになる。

それはそれでいいのだけれど、そもそものツイートで伝えたかったことは何だったのか。おそらく、「ちょっとした気付き」をツイートしたかっただけなのだろう。ただ、読み手と書き手とでは注目する点が違う。実際に読者が食いついたのは、ツイート内のワンフレーズに現れた価値判断だったわけだ。

ちょっと補足

Twitterには、問題の発言について「謝罪すべき」という人がいるのだが、私は反対だ。意見の違いを認めた上で共存していくのが民主主義の社会だ。自分が大切に思っていることについて「本来不必要」といわれればカチンとくるに決まっているが、しかし「謝れ」には乗れない。

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