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この記事では、作品の内容に触れます。

1.

怪獣映画、大好きなんです。なので『シン・ゴジラ』も、公開翌日の7月30日に朝一で劇場へ足を運びました。大満足の作品でしたが、ブログを書く気にはならず。文章を書くのって、すごく面倒なことなので。

でも、はてブ経由で『シン・ゴジラ』関連記事を100以上も読んで思ったのは、やっぱり私と同じ感想の人は存在せず、誰も自分の感想を代弁してはくれないのだということ。それで渋々こんな記事を書いたのだけれど、書き上げてみればつまらない内容で、我ながらガッカリ。

2.

とにかく登場人物にまったく感情移入できない

私は偏屈な人間なので、どんなドラマを見ても、心底から「共感できる」人物は登場しない。だから最初から、画面の中に登場する人物には、感情移入しようと思っていない。

そんな私が『シン・ゴジラ』を観るとき、自分を置いているのは、ゴジラに踏み潰される建物の中だ。あるいは、地下に逃げ込んだが熱線で焼き尽くされる群衆の中に、私はいる。『シン・ゴジラ』は、ゴジラに殺される人々を明確に描くシーンが少ないが、むしろその方がいい。つまらなさそうな顔をして、ゴジラの方を見ようともせず、黙って死んでいくのが、私だ。でもそんな人間は「リアリティがない」といわれて映画には登場しない。私の存在が否定された世界を見せられても、面白くない。

画面に登場する人物には感情移入できないのだから、画面に登場しない人物がたくさんいる映画、描かれる世界に余白の多い映画こそ、私には感情移入しやすい。感情移入を放棄して、植物を観察するように映画を見るのも好きだけれど、感情移入しながら観る映画は、やっぱり格別に楽しい。だから『シン・ゴジラ』は楽しかった。

3.

劇中、大杉漣さん演じる大河内総理大臣が、自衛隊の武器使用を許可する場面がある。私は、その余波で死ぬ市民である。

攻撃の前提として「住民の避難が完了したという報告があるのだから、市民に生命の被害が出るはずがない」と思う方もいるだろうが、それは全く違う。

思い出してほしい。ゴジラの最初の上陸に際し、品川で自衛隊とゴジラが対峙したときも、やはり避難完了の報告があった。だが実際には、逃げ遅れた市民が発見された。その時、大河内総理は攻撃を中止したが、「避難完了」の精度は、その場面で示されている。偶然、見える範囲内に市民がいようといなかろうと、本当は避難の完了などしてはいないのだ。

再び出現したゴジラは、遥かに巨大な身体となり、鎌倉に上陸してから約3時間、人口密集地を30kmほど進み、決戦の舞台となる武蔵小杉駅付近の多摩川べりに姿を現す。自衛隊が展開できる場所は限られており、鎌倉から武蔵小杉までのルート上の人々は、やむなく見捨てられた。ゴジラが歩くとき、私はその足元にいる。逃げ遅れて踏み潰されるのが、私である。

総理の二度目の決断は、私が何回も何回も死んだ先に、下される。「避難、完了しました」「本当に大丈夫なのか」「私は部下の報告を信頼します」「わかった」何を、わかったのか。自衛隊が武器を使用するエリアに、実際はまだ、住民が残っている。総理は、それをわかった上で、「攻撃を許可する」のだ。

シン・ゴジラ 2回目の進行ルート

ゴジラを攻撃する爆炎の下に、逃げ遅れた私がいる。逃げ惑うこともせず、ただ諦め顔で、突っ立っている。ビルが崩れ、瓦礫に埋まって、見えなくなる。即死することもなく、大けがをして、激痛に苦しみながら、ずっとそこにいる。大災害だ。助けは、なかなかやって来ない。見つかる頃には、冷たくなっている。

多摩川を突破された後、明確に避難が完了していない都心地域での米軍の作戦も、総理は許容する。もはや、なし崩しに近い。真の決断は、多摩川決戦の場で、既に行われていたからだ。

ラストのヤシオリ作戦にて、長谷川博己さん演じる矢口蘭堂は、現場へ赴く。現場の状況に応じて政治的判断が可能なリーダーが必要だからだ、という。実際、すぐに判断の機会は訪れた。

作戦開始の予定時刻になっても、東京都から避難完了の報告がこない。矢口蘭堂は、しかし、作戦の決行を指示する。それが、彼の仕事だった。

矢口が決行した作戦の衝撃波で、現場からいくらか離れた家のガラスが割れ、ひっそりと私が大怪我をする。捜索隊はおらず、私はゆっくり失血死していく。実際の私が避難勧告を無視するような人間かどうかは、この際、関係がない。無名の誰かが、作戦の裏で静かに死んでいく。そうした、画面には描かれない、誰の役にも立たない虚しい死に共感しながら、私は映画を見ていた。

4.

カタルシスを生むはずのヤシオリ作戦が激烈に微妙

ヤシオリ作戦の絵面を見て、私は納得した。今回のゴジラは「311」の象徴だ。現実の私たちの生活は、これほど頼りない作戦によって守られた。そのことを、映画的に表現したのが『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦なのだと思った。

過去のゴジラ映画は全部見ているが、これ以上に納得のいく最終解決策は記憶にない。津波を象徴する上陸と進行に対して政府はなすすべなく、原発事故を象徴する東京決戦にはヤシオリ作戦で対処できるというのも、現実に照らし合わせれば納得がいく。

作戦準備の様子は映画にあまり登場しない。映画的な衝撃を優先し、「ネタバレ」を回避するためだと思う。別に私はそれで構わない。むしろ、いい。

小休止しているゴジラのすぐ近くまで行って、瓦礫を片付け、道路を直し、架線を復旧し、レールを点検し、車両を整備し、ビルに爆弾をセットした人々がいた。もし画面に彼らが登場したら、きっと私が入り込む余地のないカッコイイ描かれ方になってしまったろう。彼らの奮闘は画面に登場しないからこそ、私も空想の世界で彼らの一員となってゴジラに立ち向かうことができる。

シン・ゴジラのJR横断

無人在来線爆弾は、南北両方向からゴジラを襲う。しかし劇中、ゴジラは丸の内口側ではなく八重洲口側で休眠する。進行ルートを確認すると、神奈川県内と新橋駅付近の2回にわたって、線路が寸断されていることがわかる。ゴジラが休んでいたのは、わずか半月。高架の線路を復旧するのは不可能だ。南からも在来線を突入させるために、どれだけの人が汗をかいたのか。

ゴジラが八重洲口側で休眠するのは、しょせん決戦の場面でほしい絵を撮るためでしかなく、無人在来線爆弾も稚気の産物(とはいえ爆薬の輸送能力を考えれば史上最強の兵器である)だが、絵空事だからこそ想像するのが楽しい。道路を移動中の車両の存在感、慎重にクレーンで吊るされた車両が線路にそっと降ろされる緊張感……思い描くだけでワクワクする。

快適な旅客輸送のために人生を捧げてきた技術者が、爆弾の搭載について検討する哀しさ。幸福を運び、生み出すための列車が、生活防衛のためとはいえ、破壊を目的に使用される悲劇。座席を取り外し、爆薬を固定する方法を考える。眠るゴジラを横目に線路を点検し、レールに歪みがなく、石コロひとつも落ちていないことを確認する。無事故を実現するために長年続けてきた努力も、いよいよ水泡に帰す。自分の仕事を終え、避難民の列に加わるとき、果たして私は何を思うだろうか……。

無人在来線爆弾のシーンを見ながら、私の中でブワッと広がったイメージは、そういったものだった。この妄想は止まらず、映画館からの帰路もずっと続いた。

私の勤務先の扱う事業のひとつに通信インフラ関連設備の開発・生産がある。ヤシオリ作戦に直接の関係はないが、通信インフラの復旧は人々の生活と産業の基盤であり、間接的に作戦も支援することになる。都心のビルがいくつも破壊されたので、屋上の基地局も多く損傷しているだろう。残ったビルの屋上に臨時の基地局を設置する交渉を行い、アンテナを立てていく。焼けた地下街にも入り、基地局を復旧していく。

映画の中ではとくに描かれないが、そうした作業に従事する人々の中に、私もいる。ゴジラに踏み潰される無力な人間も私なら、社会の歯車として奮闘するのも私であり、現場から遠く離れた場所で考えるのを止めてボーッと情報に接しているのも私だ。ただ、決死の作戦に挑むのは、私ではない。

5.

「シン・ゴジラ」はそんな2016年の今この瞬間に生きる私たちに向けて作られた、私たちの「ゴジラ」なのだ。

今までのどんな「ゴジラ」にも似ていない、誰も見たことがない、全ての人々が初めて見る、62年前そっくりそのままの「ゴジラ」。それが「シン・ゴジラ」だ。

私は「ただの怪獣映画」も好きだ。何を象徴するわけでもなく、ただ怪獣が存在し、小さき人間たちの生活と人生を破壊し、かき乱す。そんな作品も、私は愛している。

ゴジラシリーズで、観客自身が体験した現実の大きな脅威を仮託された怪獣が登場するのは、条件を厳しくすれば『ゴジラ』1954年、『ゴジラ対ヘドラ』1971年、『シン・ゴジラ』2016年の3作品に限られると思う。それは日本が平和な社会を維持してきたことの裏返しである。東日本大震災と原発事故あっての『シン・ゴジラ』であり、こんな作品が二度と作られない日本であってほしい。

『シン・ゴジラ』と2014年のギャレス・エドワーズ監督作品『GODZILLA』を比較する記事も、いくつか目にした。その多くは不当な比較だったと思う。日本のゴジラも、多くの場合、「ただの怪獣映画」だった。いろいろ背負ったままでは、続編の作りようがないからだ。『シン・ゴジラ』以外の全作品が1954年の『ゴジラ』とのリンクを残したのは、ゴジラが登場する以上は「ただの怪獣映画」ではない……と、設定だけで主張する詐術だったと思う。

私たちは「絵空事を描く映画」を楽しむことに、何かしらイイワケを必要としているのかもしれない。「911」とイラク戦争のトラウマは、復活したマーベルヒーローの映画に反映された。たいへんな傑作がいくつも登場したけれど、「ただのヒーロー映画」だって面白かったのに。『ダークナイト』が『ダークナイト:ライジング』で行き詰ったように、現実とリンクする物語は、現実を追い越すと続編を作れなくなってしまう。

私がギャレス版ゴジラを支持するのは、初手から「ただの怪獣映画」の楽しさで世界的なヒットを実現してみせたことだ。続編を作れるフォーマットで成功したのが凄い。初代『ゴジラ』が、「ただの怪獣映画」ではない続編を作れなかったように、『シン・ゴジラ』も正当な続編は作れないだろう。

福島の隣県で「311」を体験した一人として、私にも『シン・ゴジラ』は刺さった。でも、この方向性で作れるのは1作品だけ。次はない。目の前のヒットを祈願しつつも、『シン・ゴジラ』が今後10年、「ただの怪獣映画」を貶す引き合いに出されるばかりの存在になってしまわないことを祈る。

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平成27年8月1日