なんとなく、書く。
豊田真由子さんが何者で、どんな悪事によって批判されたか、それは略す。どうせ私は忘れるし、別にそれで(私は)構わない。リンクした田中さんの記事の内容も、とくに引用しない。田中さんの個々の記述は、いま私の関心事ではない。
豊田さんはいま、世間から批判されている。まあ、それ自体は当然だろう。ただ、「とんでもない悪党だ」として、人々の共感と理解の埒外に置かれている(全ての批判がそのようなものではないが、とりあえず)ことについて、田中さんが黙っていられなかったのは、わかる。
しかしその記事が、はてブでは「友人を背中から撃つ記事」とか、「積年の恨みが読み取れる」などという感想を集めている。言葉など、虚しいものだ。はてブにもいろいろな意見は出ているが、簡単のため、以下では「はてブ世論は豊田さんを切断処理して叩いている」と単純化する。
田中さんは、豊田さんが「じつは素晴らしい人だ」などと説明したかったのではない。そんな取り繕った嘘っぱちこそ人生の敵だったと、認識されているからだ(と、私は読み取る。以後、同じ内容を繰り返さないが、適宜そのように補って読んでください)。
過去の悪事を暴露して、ますます豊田さんの評判を下げる記事だ、これでどう豊田さん(と豊田さんのお子さん)が救われるのか? といった、疑問の声も、わからないではない。しかし、そうした意見が想定する「擁護」なり「救い」なりが、豊田さんの魂を鎮める力を持つだろうか。世間にバッシングされた親を持つ子にとって、気慰め以上の何かになりうるだろうか。
豊田さんのお子さんが、実際、どんな方かは知らない。田中さんの文章を読んで、「こんなもの、読みたくなかった」と思う側である可能性は、否定しない。でも、「確実にそうだ」とは、私は思わない。
親も、自分と同じく、(ただの)人間であって、悩み、苦しみ、自分勝手で、ただ幸運のために生き延びて、みっともなくて、弱い、それでいて自尊心が高く、しかしその自尊心は人生の足枷になっている、そういったことの全てが、救いになる側の人間であるかもしれない。自分と同じ、欠点だらけで、もがき苦しむ人間であることが、救いになることも、あるんだ。
梁石日さんの代表作『血と骨』は、著者の凶暴な父親をモデルにした小説だが、そこに親への憎しみしか読み取れない人が、はてブには多いのだろうか。悪人である主人公を自分と切断し、クズ呼ばわりして叩くという受け止め方しかできないか。「自分はこのような暴力は振るわない」ことと、魂の共鳴を拒絶することは、分離可能な事象ではないのか。
私はこのブログで、両親については、概ね「良いこと」しか書いてこなかった。それはそれで、悪いことではなかったと思っている。でも、他のやり方だって、あった。
田中さんの記事が、大多数の人に絶賛されていたら、それはそれで不気味に感じるのが私である。現状程度がよいバランスであって、もっといい着地点など、ないのかもしれず。だから、ないものねだりかもしれないが、もやもやするところを、書いた。
豊田さんのことより、被害者のことを考えるべき、みたいな意見もあるようだが、それこそ田中さんの領分ではないと思う。が、そういう難癖をつける側のことも、少しわかる気がする。
理不尽であれ何であれ、被害者の方に気持ちがいっている自分と気持ちが同調しない人に対して、イラ立ちがあるのだ。被害者に対して、田中さんは「ただの第三者」であり、つまり自分と同じだ。被害者について、田中さんは通り一遍の言葉しか持たないだろうが、むしろその「特別なところのなさ」を求めているのだと思う。
蛇足のような気がするが、もう一つだけ。
田中さんの記事は、自分たちの悪行の原因を何やかや「よそ」に求めたり、「大したことではない」といいたげだったりする。そのあたり、批判は当然にあっていいと思う。いや、私が「ひどいなあ」と思うタイプの批判(あんまり「批判」の範疇に入れたくないものも少なからずあるけど、なるべく「批判」とみなすことにする)だって、だいたいは言論の自由の範疇だとは思っているし、無益なものでもないだろうが。